落ちぶれた男
昨日、僕は18歳になった。兄ちゃんは家を出た後も、毎年誕生日のプレゼントを送ってきていた。でも、数年前からプレゼントの値が下がっていく傾向にあった。
輸送式となって一年目は高いボールペン、翌年はよくわからない哲学書、そこまでは兄ちゃんらしい。でもその後からは、無名バンドのライブTシャツ、変な骨董品、“先月号”の音楽雑誌(付録付き)、と、見るからに僕のために用意したものではなくなった。
そして、今年はとうとう1000円札が一枚入った封筒だった。封筒には、ボールペンで一言、『僕の人生を豊かにしたいと思うなら許せ』とあった。
兄ちゃんは家を出てから一度も家に帰ってきたことがない。お母さんやお義父さんと定期的に電話をしているようだけど、電話から漏れる兄ちゃんの声は、日に日にあほらしいトーンになっていた。
薬でもやってるんじゃないかと少し心配になったので、僕は兄ちゃんのところに行くことにした。
県をまたぐとはいえ、電車で一本だった。
「碧じゃないか」
玄関から出てきた兄ちゃんは、寝癖だらけの頭に薄く髭が生えた暗い顔、僕に送ってきたのと同じ無名バンドのTシャツに汚れた黒いパーカーを羽織っていて、いかにも落ちぶれたニートのような姿だった。
兄ちゃんは目をこすって言った。
「急にどうした」
「いや、アポはとっただろ」
「そうだったな」
兄ちゃんは1LDKの狭いアパートに住んでいた。建物自体は割ときれいなのだが、兄ちゃんの部屋はまあひどかった。
「片づけなよ」
「ここは僕の城だよ。公共の場じゃないんだから、僕の好きにしていい」
相変わらずヘラヘラしていた。いや、悪化している気がする。
兄ちゃんは僕をちゃぶ台の前に座らせた。僕は持ってきた二つのコンビニ弁当と、同じくコンビニで買ったプリンアラモードを出した。兄ちゃんはまるで初めて食べ物を見た珍獣のように目を輝かせ、僕の頭を雑に撫でた。
兄ちゃんは、小さな冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。
「僕、18歳なんだけど」
「そうか」
兄ちゃんは缶ビール一本を冷蔵庫に戻し、変わりに缶コーラを出した。
「これしかない」
「水でいいよ」
「水道止まってんだ」
兄ちゃんがアパートの下の公共トイレにいくというので、僕はその間に部屋を漁った。タンスの中、畳の下、カバンの中、風呂場……
「こら」
押し入れを覗いている僕の背後から、兄ちゃんが脇をくすぐってきた。
「何してんだよ」
「麻薬でも出てこないかなと思って」
兄ちゃんは少し黙っていたが、はは、と苦笑しだした。
「僕も低く見積もられたものだな」
兄ちゃんはちゃぶ台の前にあぐらをかき、弁当を開けた。
「出てくるかもな」
一通り見たが怪しいものはなかったので、僕も昼食にすることした。
「お前、どこの大学に入ったんだよ」
「T京大学」
「まじか」
僕はちょっと得意気になった。
「やっぱりお前の方がハイスペックな人間だよ」
僕は兄ちゃんといろいろな話をした。僕からは、これから試験勉強をして、弁護士を目指すということ、それから、お母さんの様子、お義父さんの様子を話した。その後はほとんど兄ちゃんのくだらない話題に乗った。
『今年の流行語大賞は僕も僕の友人も誰一人として使っていなかった』や『前にバイトをしていたコンビニに某女性タレントによく似た男が来た』『友人夫婦が双子を産んだ』とか…………
そのくだらなさに、どこか懐かしさを感じた。
「バイトがクビになったんだよ」
兄ちゃんは缶ビールを飲み干し、僕に告げた。
「ニートじゃん」
「ああ、そろそろ最低限生きていくための金も足りなくなるんだ」
「就職しなよ。結局仕事見つけてないんだろ。学歴は十分じゃないか」
「名のある大学に入っとけば将来安泰ってのは僕の存在によって信憑性のない思考になるのさ。お前、なにかバイト紹介してくれよ」
大学生の弟に大の大人がよく頼めたものだ。やはり兄ちゃんは弱い人間である。
「塾バイトでもすればいいじゃん。K大出身なんだから、それを活かしなよ」
僕自身も、塾で小学生の採点や質問対応のバイトをしていたが、同じところに来られるのは嫌なので、それは伏せた。
「塾か……一度も行ったことがなかったな。どんなだ」
「子どもが勉強する場所」
「なめんなよ」
少し嬉しそうだった。でも、寂しそうだった。
「K大出身だなんて、過去の栄光さ」
兄ちゃんは立ち上がり、カーテンを開けた。話し込んでいたから気がつかなかったが、もう夕方だった。
「今はもうさるかめ算も忘れたさ」
さるかめ算。
「兄ちゃん、ばかになったよね」
「よくわかってるじゃないか」
遅くなったので、兄ちゃんの家に泊まることにした。そのお礼がてら、夕食はファミレスを奢った。そのときはさすがに、兄ちゃんに寝癖を直させ、Tシャツを替えさせて外出した。
日曜日だったこともあり、ファミレスは家族連れや学生のグループ、カップルなどでがやがやしていた。
「お前にも送ったよな。あのTシャツ」
「なんなの、あれ」
「前の彼女がやってたバンドの」
また、“前の彼女”の話だった。また、と言っても、今日の話題には一切なかったので、だいぶ久しぶりだ。
「そのときはバンドのドラムのやつと浮気された」
「今はいるの」
「いない。残念だが、僕はもうもてないよ」
「それはそうでしょ」
「はは…」
「兄ちゃんがまともにもてたことなんてないだろ」
ファミレスはうるさかった。沈黙なんてない。
兄ちゃんはただ目を丸くして、黙って僕を見た。
「…そうだな、そうだ。そうだよ。よくわかってるじゃないか。はははっ、成長したなあ」
やっと口を開いたかと思うと、兄ちゃんは楽しそうに笑い出した。
「お待たせいたしました、デミグラスソーススパゲッティをご注文の方…」
料理が来てからも、僕たちは話し込んでいた。料理はおまけだった。
兄ちゃんは、少年時代よりもずっと少年のように笑っていた。
会計を済ませ、ファミレスからでた後、僕たちはコンビニに寄った。
「いくら金がないからって、弟に奢ってもらってばかりな兄ってのは格好悪いだろ」
そういって兄ちゃんは、一番安い肉まんを一個買った。帰り道で、それを半分にわって食べた。
「金がないことを他人もしくは自分自身に主張する人が、意外と気前よかったりするよね」
肉まんにかぶりつき、もごもごしながら僕はいった。
「はは、正しいが痛いな。金がない人間からすると」
「金はないけど、せめて人間としての矜持を守ろうとする」
兄ちゃんは無言で肉まんを小さくかじった。
「んじゃないんだよ。多分。人間としての矜持を守ろうとする自分が自分の中からいなくならないようにするためだ。少しでも自分の人間としての価値を見い出すためにね」
「そうだ。満点の解答だな」
兄ちゃんは満足そうだった。
「大学では法を学んでいるのか」
「まあ、弁護士志望だから」
「お前は人の心が見えるんだな」
「見えないよ」
「そうか。じゃあ理解できるんだ。お前みたいなのはどこへ行ったって、誰といたって生きられるだろうよ」
兄ちゃんの肉まんはまだなくならない。
「天性の才能だな」
「僕が完全に理解できるのは恐らく兄ちゃんだけだよ。その代わり、僕は兄ちゃん自身よりも兄ちゃんのことを理解できている自信があるけどね」
「大きくでたな。まあ、僕もそう思うさ。だがな、僕のことを完全に理解できる人間が、僕以外のやつのことを理解できないってのも変な話だ」
「そうかもしれない」
「その場合、お前は人の心を理解できる才能があるのではなく、自分の思考回路とは別に僕の思考回路と全く同じものを持ち合わせているだけということになる」
兄ちゃんは元々頭がいいので、たまにおかしな主張に根拠を持たせて話す。根拠になっているのかはわからないけど、多分、哲学の領域だから、納得してしまう。
「だとしたら、僕は後者だよ。気色悪いけどね」
「おい、兄を侮辱するなよな」
そんな、重要と不要の狭間にあるような話題を、僕たちは朝まで繰り返した。
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