人間

その後、兄ちゃんはスムーズに大学に進み、よく遊んでいた。大学にいってからはあまり勉強していなかった。兄ちゃんはよく外出するようになったし、僕には反抗期らしいものがきたので、あまり関わらなくなった。たまに話しかけてくるけど、別れた彼女の話や教授の愚痴、僕が読んでいない漫画のネタバレなど、長くなりそうな話題のときは無視した。

数年が経った。

昨日、僕は12歳になった。

「…………何、これ」

「なんだお前、そんなこともわからないのか」

兄ちゃんは僕に女の子がたくさん載ったアルバムのようなものを見せつけ、得意気だった。

兄ちゃんは客観的に見て、かなりスペックが高いと思うけど、それを驕ることはしなかった。言ってもせいぜい、顔くらい。彼女がころころ変わるのに、自分はもてるとも言わなかった。

でも、今日は違った。

「お前はもう来年中学生だ。そうだったよな」

兄ちゃんが初めて僕の年を当てた。

「だからお前には彼女の一人や二人いたっていいわけだ。これは僕の大学の友人たちを伝って小学生から中学生のみで集めた彼女候補集だ。お見合いみたいでおもしろいだろ」

意味が分からない。

「いらないよ、彼女なんて」

「いや、いるね。小学生で彼女がいるやつは人気者になれるぞ。陽キャの典型例だ」

「いらないって」

「僕と友人で厳選したからな。だいぶ出来はいいんだ。まず顔はお前に相応しいレベルを選んださ。美人ばかりだろ。年上、同年、年下、スポーツ系に清楚系、幅広いぞ」

兄ちゃんが、兄ちゃんではない。

「どうしたの兄ちゃん、こんなの急に」

「いやな、お前は確かに男前だし、勉強だってできる。スポーツだって苦手ではないだろう。さすが兄弟、僕とほとんど変わらないスペックだ。でもおかしいよな。なにか違う。何か、決定的に。そこでだ。僕は気づいた。お前には色恋が何もない。これは生きていくために、自分を磨くためにもっとも大切なことの一つだ。だから彼女ができればな…」

「いい加減にしてよ」

兄ちゃんの顔は固まった。

「こんなこと頼んでないし、こんな女の人を売り物みたいにして、なんなのさ。まさかこれが今年のプレゼントなの。最低だよ。兄ちゃんじゃないよ。こんなの。僕は兄ちゃんとは違うんだ。兄ちゃんと同じスペックなんて何もないよ。全部長けてる兄ちゃんに対して、僕は全部中途半端だ。全く違う人間だ。それにさっきからいかにも僕が兄ちゃんのようになりたいみたいに話してるけど、そんなこと言ったことないだろ。思ってないよ、兄ちゃんみたいになんてなりたくないよ。兄ちゃんなんて、ただただ生まれつき恵まれて全部持っててのらりくらり生きていただけの生き物だろ」



大学生を卒業した後、兄ちゃんは家を出て行った。東京にアパートを借りて、バイトをしながら仕事を探すそうだ。

僕の14歳の誕生日の翌日。あの日から僕は兄ちゃんと口を聞いていない。兄ちゃんは必要最低限のことは僕に話しかけた。そしてたまに、学校はどうだったとか、勉強はわかるかとか聞いてきた。でも僕は答えなかった。

あの日から兄ちゃんには、他の人間とは違う特別な雰囲気が消えた。僕の前では特に弱々しくなった。格好悪かった。

僕は兄ちゃんに、兄ちゃんみたいになりたいと言ったことはなかった。自分でも思っていないと決めつけていた。でも、きっと、心のどこかで兄ちゃんのあの雰囲気に憧れを持っていた。そして、劣等感も絶えず感じていた。そういうことだろう。兄ちゃんもそれに薄々気づいていたのだろう。

後からお義父さんに聞いた。兄ちゃんは、お父さんと二人のとき、いつも僕の話をするのだ、僕をハイスペックなやつと褒めるのだ、と。


わかっている。兄ちゃんは人間だということ。外面は余裕を見せていたけど、内心では気弱で、世界が怖かった。兄ちゃんの本当のお母さんの話は聞いたことがないけど、から、家に来た。何も思わなかったわけがない。お父さんは、兄ちゃんのかっこいい外面しか知らなかったみたいだ。兄ちゃんは、誰かに縋りたかった。わかってもらいたかった。だから僕によく絡んでいたんだ。3歳の、何も知らない僕に、本当の自分を教えようとした。確かに僕は兄ちゃんのことを誰よりわかっていると思う。発言の裏側の心もなんとなくわかる。彼女に振られたときも本当は悲しかったから僕に話していた、就職とか、そういう心配だってあった。

兄ちゃんの策略は成功していた。それなのに、あの日、僕は兄ちゃんの弱さを否定した。兄ちゃんに、特別で在ることを強制した。それは僕が一番してはいけないことだ。

兄ちゃんがなんであんなことをしたのかだって、よく考えれば僕にはわかるのだ。反抗期の僕に焦ったんだろう。ただでさえ不安ばかりなのに、唯一の理解者が遠ざかっていくのではないかと焦った、僕への接し方がわからなくなったんだ。

兄ちゃんは人間。全部持って生まれたけど、努力も膨大で、あらゆる苦しみを全部背負ってきたような人だ。

『兄ちゃんなんて、ただただ生まれつき恵まれて全部持っててのらりくらり生きていただけの生き物だろ』

僕は兄ちゃんにあの言葉を謝るべきなのだ。

でもそれは、僕が自分自身の罪を認めることになる。

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