第11話
今日はお泊りの日だ。僕は、お泊りセットをバッグの他にリュックに詰めて、家を出た。まあ、着替えくらいしかないんだけど。クマさんのパンツをはいて、リュックの中にはペンギンさんのパンツ。パジャマと明日着るシャツとチノパン。
授業なんて聞いていられない。何でこの先生、世の中何も変わらないような顔をして生物の授業なんてしているんだろう。もっと時間よ、早く過ぎろ。焦れてしようがない。そのくせ、ちょっと怖い気持ちを押し殺している僕。
真崎ときたら、涼しい顔で山田や安藤と冗談ばかり言い合っている。恨めしくなってむっすりとしながら観察していたら、あることに気づいた。
真崎、饒舌すぎる。
彼も緊張しているんだ、きっと。期待と不安の入り混じった気持ちなんだ。
僕はそのことに気づくと安堵で息がもれた。
僕は図書室で、真崎の部活が終わるのを待つ。
倫子ちゃんが入ってきて、僕の方をちらりと見て、微笑んだ。何も話さないまま、彼女は長机に腰かけてノートと教科書を広げた。
彼女が『私は大丈夫だよ』と声には出さずに言ってくれているのが分かった。倫子ちゃん、本当にすごいよ、偉いよ。僕は倫子ちゃんのこと、忘れない。本当は、真崎とつき合っているのが僕だってことも言うべきなのかもしれないけれど、けっして自分が怖いからではなくて、今は黙っていたほうがいいような気がする。
やがて麻衣ちゃんと久留実ちゃんも来て、三人で教科書とにらめっこしている。もうすぐ、中間試験があるんだった。倫子ちゃんは、前から東京の、ある私立大学に行きたいと言っていた。きっと、彼女なら大丈夫。頭がいいし、努力家だから。
そういえば、真崎の進路希望を聞いてない。真崎も、東京に行くのかな。きっとそうだろうな。彼も頭がいいし、広い世界を見たいって言っていたし。
僕はどうしようか、思案中。親父はどうだっていいと言っているし、正直僕もどうだっていいと自分では考えていた。でも、そろそろまじめにこれからのことを考えたほうがいいだろう。
もう少しで、真崎の部活が終わる時間だ。待ちかねた時間。
LINEに着信。『今から行くよ』。
部活を終えた真崎が校門に向かっている。僕も、慌てて荷物をバッグに詰めて、リュックも持って図書室を出ていく。背中で倫子ちゃん、ごめんね、と謝りながら。
「お待たせ」
「おう」
真崎はまだ濡れて乱れている髪のまま、大きく笑った。でも、少し頬が赤らんでいる。僕は彼と並んで、駅に向かう。足元がふわふわしている。真崎はふつうに見えるけど、やっぱりふわふわしているのだろうか。
いつも通る駅への道。駅前ロータリーを突っ切って、構内へ入る。
「あのさ、俺んちの近く、大した店もないから、ここの地下でなんか買ってこうや」
雑多な店の入る駅ビルの地下は食料品売り場だ。エスカレーターを降りると、妙ににぎにぎしい空間が現れる。生鮮食品からギフト用までなんでも揃うフロアだ。
「薫、うまいもん食おうぜ。何が好き?」
そういえば、真崎の好きな食べ物を僕は知らなかった。まだまだ、お互いに知らないことがたくさんある。僕は気を使って、
「僕は何でも食べられるさ。偏食なしが自慢。真崎が好きなもの買ってよ」
そういうと、真崎はにやりとして、
「じゃあ、俺の好きなもん買うよ。ふふ、親、家を空けるのが心配らしくて予備用も含めてたくさんお金置いていってくれたんだ」
「そっか」
「そうさ」
お惣菜コーナーに直行する。ごくふつうのスーパーのお惣菜のようなものが並ぶ横に、もっと贅沢なディナーコーナーがあった。真崎は迷わずそちらへと向かう。
「肉、食おうぜ」
「うん」
「薫、太らせてやる」
「え、やだなぁ」
レストランで見かけるような色鮮やかなお惣菜。真崎はローストビーフの入ったパーティパックを手に取った。
「うまそう」
「うん」
「薫も」
「へ?」
電車はちょうど会社員が帰宅する時間帯だから、混んでいた。僕と真崎は奥の優先席の前で、通路のドアに寄りかかって並んで立った。狭いので密着してしまう。
僕は邪魔にならないように、バッグとリュックをなるべく下におろして持った。その分、肩を落としたので反対側の肩が上って、必然的に腕が浮く感じになった。体勢が悪いな、と思った瞬間、その宙ぶらりんの僕の手が温かい大きな手に握られた。びっくりして僕は右隣の真崎の顔を見上げた。
真崎のやつ、素知らぬ顔をしている。それでいて、握りしめた手に力がこもる。混んでいるから、誰も気づいていない。でも、こんなところで、ちょっと恥ずかしい。……と、『あ』と声をあげる。僕の股間のものがうごめきだす。ばか、こんなところで。でも両方の手がふさがって、どうしようもないじゃないか。いまだ慣れないコレ。いくら水泳の授業で皆のあそこをちろちろ見て免疫をつけようとしても、自分のソレを眺めて慣らそうとしても、やっぱり恥ずかしい。僕の頬は上気している。相変わらず真崎は素知らぬ顔だ。
憎たらしい。
真崎は真崎で、反対側の腕にはさっき買い出ししたお惣菜とかお菓子とかの袋を提げて、バッグは床においている。
誰も気づいた様子もないのが救いだ。いや、もしかしたら、周りの人たちは気づかないふりをしているだけかも。そうに違いない。そういうものだ。
規則正しく運行していた電車が急ブレーキをかけた。電車内の人たちがよろめく。真崎がさらに僕を引き寄せた。揺れて転ばないように気を使ってくれたんだろうけど、僕は抱きすくめられた格好で、声も出ない。
『ただ今、踏切内に人が立ち入ったため……』
車内アナウンスが流れ、続けて『安全が確認されましたので、走り出します。お近くのつり革などにおつかまり下さい』。
つり革なんてこのスペースにはない。必然的に僕は真崎にしがみついてしまった。真崎の胸に。そして気づいた。彼の心臓も、飛び出さんばかりにどくどくと鼓動している。
もう、いいや。何を意識してるんだろう。
お泊りがどうなるかは分からないし、成り行きもあるだろうし、もう変に気を回すのはやめて、覚悟を決めよう。真崎のシャツ越しの胸板は厚かった。華奢で薄い僕とは大違いだ。僕は電車のリズムに合わせて、そっと触れたり離れたりした。気持ちよかった。
いつもは僕が降りる駅を乗り過ごす。何となく、『お父さん、お母さん、僕は一歩を踏み出します』と心のなかでつぶやいていた。さらに電車は走っていく。外の景色が見慣れないものになった。急に緑が増えた。住宅と畑と、こんもりとした濃い緑の森。何だか、よそよそしくて、また僕は緊張が増した。
真崎のいつも使っている駅。僕の駅より小さくてそっけない。ホームだけが無駄に長い。階段を上って降りて改札を抜ける。駅前は真崎の言っていたように、大した店もなくがらんとしている。
「チャリ、出してくるから。ここで待ってて」
駐輪場にはまだたくさんの自転車が並んでいて、人もまばら。
真崎がシルバーの自転車を押しながら出てきた。バッグを荷台に括りつけている。
「薫の荷物、ここに入れろよ」
前かごを指されてそこに斜めにバッグを入れ、すき間にリュックを押し込む。真崎がその上に、手にしていた買い物袋をのせた。
「ああっ、ドキドキするな!」
大声で叫ぶ真崎に、僕も笑顔で返す。ようやく、二人だけになれた。急に酸素いっぱいの場所に出た気分で、心も体も軽くなる。何の不安もなかった。今こうして、真崎と一緒にいるだけで幸せ。
ふっと脳裡にあのタヌキさんと、山もりのサクランボが過ったけれど、すぐに消えた。
好きで好きでたまらなかった、真崎。
真崎が片腕を伸ばして僕の首に巻いた。つい『あはは』と大きく笑っていた。自転車を押す彼と僕は、大きい通りを渡って、雑木林を抜けていく。
風が気持ちいい。
まだ、夕焼けの最後の燃え残りが雲に映えていた。
僕の家の周りと似たような、わりと築の古い家が並ぶ住宅街に入った。
僕には皆目見当がつかなかったが、やがて真崎が少し恥ずかしそうに、『ここ』と指さした。
表札の『真崎慎吾』という字が立派な石造りで見惚れた。真崎のお父さんの名前、憶えておこう。
大きくも小さくもない、二階建ての家。青色の瓦屋根。真崎は自転車を置くと、玄関の鍵を取りだした。
いよいよ、真崎の家の中に入る。ドアを開けると真崎はすぐに灯りをつけた。豪華ではないけれど、整った玄関。廊下がまっすぐに伸びている。
「俺の部屋、二階だから」
真崎は左側の階段をさっさと上っていった。慌てて僕はついていく。
よその家の匂い。静まりかえって、真崎の息の音まで聞こえる。大きく吐いたり吸ったりの呼吸。
上がったところのドアを開けた。四畳半の部屋に、広い窓がついていて、ベッドと机、いす。小さなちゃぶ台。本棚を眺めてしまう。難しそうな本と参考書。
赤本を見つけてどきりとした。やっぱり真崎、東京の、しかもかなり偏差値高い大学を狙ってるんだ。急に不安がこみ上げて僕は呆然とそれを眺めていた。
「薫、何やってんだよ。座れよ」
笑って声をかけてきた真崎は僕の視線を察して言った。
「今度の進路相談で言おうと思ってる。僕、東京に行くんだ」
「真崎なら、きっと受かるよ。でも、僕は」
「お金の問題もあるけどさ、もしできたら、一緒に東京に出よう。一緒に勉強して、一緒に合格しよう」
真崎の眼は真剣だった。
僕は将来のことなど、さほど真剣に考えたことはなかった。だから真崎の真剣さに圧された。それは僕だって、できたらもっと広い世界を見てみたい。でも、これまでは漠然とした憧れに過ぎなかった。それが、急に現実味を帯びてきた。
「そういうことも、一緒に考えていこう。俺は、薫のこと、マジだから」
あっと思う間もなかった。ふっと肩を抱かれ、唇に唇が重なった。夢のような瞬間は、案外唐突に来てしまうんだな。そして、これが他に誰もいない真崎の部屋だということにまた心臓が痛くなってきた。期待と不安と、半々。とうとう、緊張に耐え切れずに僕は言った。唇を離して。
「僕、今日はクマなんだ」
目を丸くする真崎がおかしかった。
「で、明日はペンギン」
真崎は何か言いたそうにしたが、やがて笑い出した。
「もしかして、それって」
「うん。パンツ」
僕も笑った。
「あっはは。薫って、やっぱおかしいわ。水玉って実は気に入ってた? 今度はクマ? ペンギン?」
「……うん」
真崎は首を傾げて僕を見た。
「あのさ、緊張、してるんだよね?」
「うん」
「そりゃ、俺も……。でも、無理にとは言わないよ。だって、あんまり考えたこともなかったろうしさ」
「そ、っか」
やっぱり少しほっとしつつ、でも寂しい気持ちもする。
「でも、見せろ! クマのパンツ!」
「わー、ダメだよ、ダメ!」
「はいてきたくせに何言ってんだ」
僕らは組み合って転びそうになりつつ、真崎のベッドに倒れ込んだ。真崎が仰向けの僕の眼をじっと見る。
「もう一度、いい? もっと長い、キス」
僕はにっこりしてみせた。
*
三年生に上がると、授業数も減って、進路別のクラス編成になる。
真崎も水泳部は実質引退だ。
僕は親父を必死に説得して、東京の大学に行ってもいいという返答をもらった。その際、顔見知りの真崎と一緒の大学に行きたいという理由が効いたようだ。両親とも、真崎にはものすごく好感を持っているのが分かった。
そのことを報告すると、真崎は飛び上がらんばかりに喜んだ。まるで競泳で新タイムが出たみたいなガッツポーズ。こんな真崎を見たのは初めてで、僕は思わず抱きついてしまった。ちなみにここは例の「山の方」。人目の心配はなく、今は見渡す限り霞がかったような穏やかな光景に、あちこちにぽっぽっと薄い桜色とやわらかい緑が眺められる。
「僕、なんか話が逆転してるんだけど、あの大学に行こうって思ったら、かえって目標がはっきりしてきたんだ」
ふわふわとした幸福感のなかでも、自分のなかに確信が出来てきていた。
「これまで勉強は適当にやってたけど、ようやくやりたいことができたっていうか」
「何?」
まだ喜びを隠せないように真崎が尋ねてくれた。
「心理学とかをやってみたい。でね、カウンセラーになりたいんだ。ていうか、今はまだ本当に考え途中だけど、人の役に立つ仕事をできるようになりたい」
女の子と男の子を経験した僕にしかできないようなこと。そう考えてとりあえず決めた目標。
「へえ。薫らしい。きっと向いてる。俺が薫を好きなのも、そういう人の気持ちが分かるところだからさ」
「真崎は経済学をやりたいんでしょ」
「うん。経営とか商学部とかでなくて、経済学をやりたいんだ。根っこが何なのかを知りたい気持ちが自分には強いって気づいた」
「真崎って、わりとこだわりの人だからね」
「ふん」
うれしそうに真崎は僕の額を小突いた。
男の子になっちゃった! 仁矢田美弥 @niyadamiya
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