第10話
はあはあはあはあ。
僕の息は上がっているが、歩く速度は緩めない。真崎の部活が終わるのが少し遅れた。彼女を待たせてはいけない。昨日とは打って変わって、今日はよく晴れて、少しずつ、でも確かに秋の気配が混じってきた。僕らは、いつかの小山──「山の方」と皆が呼んでいる場所に急いでいる。ようやく登り道に入ると、トンボがスーっと視界を横切っていった。
「薫。そんな急がなくても夕陽はまだ消えないよ」
笑いを含んだ真崎の声が僕の背中を追う。歩くのは断然真崎の方が速いのだけど、僕はあえて真崎の先を行こうとしている。だから息が上がるんだ。
ざわざわざわざわ。
木の葉の戦ぎで、次第に僕の頭はいっぱいになっていく。もう、迷ってはだめだ。もう、決めたのだから。もう、引き返せない。
ごくんとつばをのんだ。喉がからからだ。
それでも、僕は速度を緩めない。
だんだん、視界が拓けてきた。トンボがもう一匹。
彼女は、真っすぐに沈みゆく太陽の方向を見ていた。白いブラウスの色がほんのりと背景のいろに馴染んで、薄い夕陽色になっている。スカートが少し風に揺れていた。
後ろで真崎が息をのむ気配がした。
僕はかまわず突き進む。
「あれ?」
少し戸惑った真崎の声が背後で聞こえた。
「藤本さん? 誰かと待ち合わせしてるの? 俺ら、お邪魔かな」
冗談めかして真崎は倫子ちゃんに尋ねた。
でも、真崎はきっと感づいている。この場は僕がしつらえたものだということを。僕は走り去ってしまいたい気持ちを懸命に堪えながら、この場に足を踏ん張る。ずっと倫子ちゃんに頼り切ってきた女の子のときの私、それを、僕は超えていく。
倫子ちゃんは振り返った。決意がにじんでいた。その表情を見たとき、僕はこの方法でよかったんだ、と確信した。
夕明かりにたなびく雲を背にして、倫子ちゃんのセミロングの髪もはらりと揺れた。
僕と、今は僕に並んだ真崎。
倫子ちゃんはちらりと僕を見やってから、真崎のほうに視線を向けた。
また、トンボが一匹目の前を横切った。
倫子ちゃんが口を開いた。
「真崎くん。私、藤本倫子はあなたが好きです。とてもとても好きで、どうしても自分の口で伝えたいと思った……。後悔しないように」
真崎の表情にさっとまじめさが閃くのを見た。僕は息を吐いた。
実は今日のお昼休み、僕は「用事があるから」と言って真崎から離れ、屋上に向かった。屋上には、倫子ちゃんと、倫子ちゃんを心配した麻衣ちゃん、久留実ちゃんが待っていた。麻衣ちゃんと久留実ちゃんが相変わらず僕を睨みつけているのに対して、倫子ちゃんは目を大きく見開いて僕を見つめていた。
「薫くん、ちゃんと訊いてきたよね?」
今日は髪を二つに分けて、高めのところで結んでいる久留実ちゃんが口を切った。結び目に水色のシュシュ。だて眼鏡までかけている。何かイベントでもあるんだろうか。
冷たい目で僕を見る麻衣ちゃんも言いたいことは同じのようだった。僕は頷いた。
倫子ちゃんの面差しに緊張が走る。
軽く息を吸って、僕は言った。
「真崎は、つきあっている人がいるって言ってた」
久留実ちゃんは空を仰ぐ。麻衣ちゃんは意外にも泣きそうな顔をする。倫子ちゃんは瞳をきらりとさせた。一見表情は変えないが、彼女の中での大切なもの──希望──が、大きく崩れるのが見えるような気がした。
しばしの沈黙の後、久留実ちゃんがまた声をあげた。
「それ、どこの誰?」
まるで脅迫しかねない勢いだ。
僕が口ごもって、それをさらに問いただそうとする久留実ちゃんを、倫子ちゃんが止めた。
「やめよ。もう、私分かったから。……薫くん、無理なお願いを本当にありがとう」
泣きたいような笑顔を見せる倫子ちゃん。僕は、やっぱりこのままではいけないと思った。もしも、倫子ちゃんに恨まれる結果になっても。
「倫……藤本さん、藤本さんの気持ちは伝えた方がいい、と僕は思うんだ。真崎はきっと真剣に受け止めてくれる。そういう奴なんだ。片思いの辛さだって、あいつは知ってる。だから……」
「ちょっと! 薫くん!」
麻衣ちゃんが高い声を出すのを倫子ちゃんが手で抑えた。そして僕をまっすぐに見て、訊いた。
「どうしてそう思うの? 薫くん」
「僕だって、片思いの辛さとか切なさとか、分かるんだ。ずっとそうだったから。そのままで終わってもいい、という考え方もあると思う。でも、たとえダメでも、自分の思いだけはちゃんと伝えたほうが、きっと後悔しないように思うんだ」
「無責任なこと言わないで。倫子ちゃんが傷つくのが分からないの?」
麻衣ちゃんが僕の言葉を断ち切るように言った。久留実ちゃんも「そうだよ、ひどいよ」と、怒るよりは泣きそうな声になって抗議する。
僕だって、ここ数日、よくよく悩んだんだ。ものすごく悩んで、でも、僕の知っている倫子ちゃんと僕の知っている真崎なら、きっと大丈夫だと思った。それに、万が一、倫子ちゃんの告白を聞いて真崎の心が変わったとしたら、それでもいいと思った。僕より、倫子ちゃんの方が真崎に似合っていると思うから。
「薫くん。もういい、帰って。酷い奴」
斬りつけるような麻衣ちゃんの言葉を倫子ちゃんがまた抑えた。
「待って。ごめん。少し考えるから」
麻衣ちゃんと久留実ちゃんは息をのんで声を出すのをやめた。
倫子ちゃんはしばらく考えていた。考えるときの癖で、胸に手を当てて。今彼女の頭の中には、きっといろいろな思いが過っている。
やがて、きゅっと唇を引き結んだ。
倫子ちゃんは決意した。
「藤本さん?」
「薫くん、分かった。私、やってみる。かなわなくても、自分の気持ちだけはちゃんと伝えようと思う。ただ、気になるのは……」
「真崎が困るんじゃないか、ということだよね。そこも僕はものすごく考えたんだ。けど、真崎はきちんと受け止めてくれる人だと思う。本気で受け止めてくれる人だって、僕は信じてる。そう信じる僕を、藤本さんも信じてくれないかな」
倫子の表情が、緊張から解き放たれたように緩んだ。
「薫くんを、真崎くんを、信じてみる」
彼女はきっぱりと言った。
その日の放課後、小山の上に真崎を連れていくことを約束して、僕らは別れたんだ。
小山の上の風はより強く吹くようになっていた。
真崎と倫子ちゃんはしっかりと目を合わせた。僕も、倫子ちゃんを見つめていた。
「藤本さん」
やがて真崎が声を発した。
「俺、藤本さんに感謝する。そんなに本気の思いを、こんな俺に伝えてくれたこと。ものすごく考えて、悩んで、そうして打ち明けてくれたんだってことが、俺にもすごく分かるよ」
微かに傍らの真崎が息を吸う気配がした。
「なぜなら、俺もそういう経験をして知っているから。片思いをつづけることの苦しさ、いちかばちか、思いを伝えることの怖さ、俺なんかだって、すごくよく分かるから、さ」
倫子ちゃんの眼に涙が浮かんだ。泣いている……でも、僕の眼も涙にぬれて、倫子ちゃんの表情は微かな光のように滲みはじめていた。
「俺、藤本さんとつき合うことはできないんだ。俺にはもう、相手がいるから。でも、藤本さんのその気持ちは、心底うれしいと思うし、大切に胸の内にしまっておきたいと思う。……ごめん。ふじ……」
「いいの!」
倫子ちゃんは笑顔を見せた。泣きながら、それでも笑っている。その顔がきれいで、思わず僕は見惚れている。
「真崎くんに好きな人がいることは、薫くんからちゃんと聞いてた。でも、ね。気持ちだけはきちんと伝えておこう、って。私の、とても大切なものだから」
すっと静かになった。と思うと、木々の葉の擦れる音が沁みるように広がった。真崎の横顔をうかがうと、夕陽の色に染まったまま、やっぱり滲んでいた。
倫子ちゃんが視線を後ろに向けた。左手の奥にゆったりとうねる川、右に沈みゆく夕陽。あたり一面が朱を帯びていた。
「何か、空飛べそうな気がするね!」
弾むような声で言うと、倫子ちゃんは下りの道の方に歩きはじめた。
思わず後を追った僕を振り返ると、彼女は目を細めて、
「ありがとう、薫ちゃん。……あ、違う、薫くん!」
言葉を失った僕をおいて、倫子ちゃんは軽い足取りで道を下っていった。彼女自身も首をひねって、何で僕を「ちゃん」づけしたのかよく分からないようだった。
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