第9話
校門のところで待ち合わせの約束。真崎が水泳部の練習を終えて出てきたら、一緒に帰る。真崎はほかの部員より早めに出てくることになっている。
校門の近くの、街路樹というには大きくなりすぎた桜の樹の影で、僕は真崎を待つ。ばさばさっと桜の葉っぱが鳴る。慌てて見上げると、急な雨だった。さっきやけに薄暗く感じたのは、雨雲が来ていたからなのか。天気予報、見てなかったな。朝からよく晴れていたし。道路のアスファルトはもうっと土煙をあげて濡れつつある。独特の匂い。なぜか少し感傷的になる匂い。でも、嫌いじゃない。
門からは部活を終えた生徒たちが急な雨に驚いて、足早に出ていく。小走りで、きっと近くのコンビニに駆け込んでビニール傘を買うつもりなんだろう。
雨が激しくなって、その姿もかすみ、動きだけが分かるくらいになった。飛び出してきた背の高い影。左右を見て、まっすぐ僕のほうに走ってくる。真崎。
「薫、ばか、なに雨に濡れてんだ。傘買っておけばよかったのに」
「うん」
僕はあいまいに答える。
「木の下だから、大丈夫かな、って」
「何言ってんだよ。びしょ濡れじゃないか」
そう言って真崎は二車線の道路を横切って走っていった。コンビニに傘を買いにいったに違いない。数分で駆け戻ってきた彼は、ビニール傘と白いタオルを持っていた。
「ほら、拭けよ、薫」
僕はおとなしくタオルを受けとって、肩や髪の毛を拭いた。思っていたよりずっと濡れていた。タオルはすぐびしょびしょになる。真崎は素早く傘を開いて僕にさしかけた。
「大丈夫だよ、真崎の方が濡れちゃうよ」
「俺はさっきまで水の中にいたんだぞ、平気だ。それより薫が心配」
僕の手からタオルを奪って、もう一度念入りに拭いてくれる。ごしごしとこすられるたびに、僕は胸が高鳴って、気持ちを抑えるのに必死だ。
「金曜まで三日だよ。風邪ひかれちゃ、俺の方ががっかりなんだ」
真崎は白い歯を見せて笑った。
きれいな歯並び。そう思っているうちに、両の眼から急に涙が溢れ出した。
「薫?」
真崎が驚いた顔をして、それから僕の肩を抱いてくれた。大雨で、ビニールとはいえ傘で隠れているから、多分周りには気づかれない。
「ま、さき」
「ほんとにどうしたんだよ、薫。薫?」
「うん……ちょっと、さ」
「しようがないな」
真崎は傘の中で僕を隠すようにもう一度ぎゅうっと抱きしめ、
「雨宿りしようぜ」
と一言言った。
*
「あれ、洋ちゃん。久しぶり」
街中の通りの外れの古風な感じの喫茶店に入ると、店員らしい女性がエプロンをかけながら出てきた。四十代くらいだろうか。母親くらいの歳だと思う。洋というのは真崎の名前、洋太からだ。
「おばさん、ちょっといい? ホットコーヒーとホットケーキ二つ」
「あらあら、お友だちも一緒なの」
「そう」
やけに親しげだ。
女性が厨房に引っ込んだ後、真崎が説明してくれた。
「俺のおばさんなんだ。母の姉、中学生のとき、夏休みだけアルバイトさせてもらったんだ」
「今年は高校もこの街だから、夏休み期待してたんだけど」
「おばさん、地獄耳」
真崎は笑って、
「僕は水泳部に入ったからさ、夏はもう手伝えないよ」
「最近前よりたくましくなったもんね。すっかり大人だ」
「あと二年で大学生だし」
「早いもんだね」
聞きながら不安になった。
進学。
真崎はどこを狙っているんだろう。東京の大学?
「ここのホットケーキはね、甘すぎなくていいんだ。……っと、おばさん、こいつのために、特製ジャムたっぷりね」
「はいはい」
真崎が言うと、にこにこしておばさんが答える。アルバイトもしていたくらいだから、けっこう仲がいいんだろうな。
「僕が甘党って……よく分かるね」
まだ涙が残っていて、しゃくりあげないように気をつけながら、僕は小声で訊いた。
「だって、購買部でよくプリン買ってるじゃないか」
「あ」
「薫のことなら、ずっと前から見てるよ」
ずっと前から? 僕も見てた。ずっと前から。真崎がいつも決まった野菜ジュースを飲んでるのも知ってるし、電車のなかで立ったまま寝るのが得意なことも。
野菜ジュースって本当は栄養ないんだよ、ってつい言いたくなるのを我慢してた。
こんがりとした匂いがして、ホットケーキと飲み物が来た。
「洋ちゃん、今日は男の子?」
「へ?」
「ここでアルバイトしてたとき、彼女がよく来てたじゃない」
真崎は迷惑そうに眉を寄せた。僕は何か話のとっかかりが欲しかった。
「その子、どんな子?」
つい訊いていた。
「う……ん」
話しにくそうな真崎の顔。それはそうだろうな、と思いつつも食い下がる。
「教えてよ、君のこと、いろいろ知りたいんだ」
つとめて明るく言った。
「ぴんとこなかった、というのは言ったよね。でも、いい子だったんだよ。ただ、少し嫉妬深かった」
「真崎と他の女の子とのことに関して?」
「だけでなく、俺と関係ない女の子のことも。何かと妬んでるのが一緒にいて表情や言葉の端々から見られるんだ」
「う……ん。女の子にありがちだね」
「そのうち、気づいちゃったというか。俺とつき合ってるのも、この子にとってはステータスの一つなんだって」
女の子には残念ながら、そういう感覚でカレシを選ぶ人は多い。女の子とのつき合いは長かったから、よく理解できる。
「自分でいうのもなんだけど、中学で俺、わりともてて人気あったから」
「分かるよ」
「俺はお飾りじゃないから、そう思って別れることにしたんだ。泣いてたけど、どうしても同情が湧いてこなかった。かわいそうなことしたけど」
少し沈黙が降りた。ホットケーキが冷めないよう、僕はスプーンでジャムをのせて、フォークでつつき、一口口に含んだ。何だろう、素朴な感じのあんずジャム。美味しい。
「二人目は?」
ホットケーキを頬張りながら、迷わず僕は聞いた。
「二人とつき合ったんでしょ」
真崎の表情が少し緩んだ。
「あの子は素直で、明るい子だったよ」
「じゃあ、何で別れたの?」
「俺の……何というか、内面を知ろうとしてくれなかった」
情けなさそうに真崎は答える。
「俺、けっこう甘ちゃんなんだよ。ただ明るい子と楽しい話をして、それをずっと繰り返してるのがしんどくなってきちゃって。彼女の気持ちは疑わなかったけど、でも、俺でなくてもいいんじゃないかな、と」
二人の女の子には申し訳ないけど、真崎の気持ちはすごくよく分かる。こんなによく分かる僕だから、真崎は僕を選んでくれたのかな。僕もずっと真崎に惹かれていたのかな。
急に倫子ちゃんの真剣な眼差しが脳裡を過った。
つらいけれど、僕は感じる。倫子ちゃんは、こういう真崎のことを絶対理解できるし、親身になれる。もしかしたら、僕よりも。そう、人間としては倫子ちゃんのほうがずっと偉い。それが分かっていながらも僕は、やっぱり真崎を倫子ちゃんに奪われたくはないとも感じた。こんな感情、初めてだ。僕は戸惑う。大好きで、いつも一緒にいて、頼り切っていた親友。そんな彼女の弱いところに僕は踏みこまざるをえなくなった。倫子ちゃんのほうが、僕より真崎にふさわしいと確信しているのに、僕は真崎から離れられない。
胸が苦しくなる、って本当にそうなんだと初めて知った。
「真崎、えと、僕以外の女の子──変な言い方だけど、女の子でも、気になった子っていなかったの」
「どういう意味?」
「えっと」
真崎が少し怒った顔になる。
「まだ分からないの。俺は薫が好きなんだよ。男が好きなんじゃなくて、好きになったのが薫なんだよ」
また涙が頬を伝うのが分かった。熱い。涙って熱い。
「でも」
真崎は不安そうだ。
「もし、薫が、あの、同性ってことが負担なら」
「違う!」
そんなわけはない。僕は女の子のときも、男になってからも、真崎が好きだ。
厨房の中でおばさんがしんとしている。他にお客さんはいない。聞こえてるのかな、聞こえてるんだろうな。真崎は、きっとそれでもいいと思っているんだ。
ドアが開いて、ベルが鳴った。
「こんにちはー」
他の高校の男女のカップルが入ってきた。傘の水を外で切って、傘立てに差す。雨の匂いがまた立ちのぼった。
「あら、雨大変だったでしょう」
厨房から出てきたおばさんが笑顔で話しかける。常連さんらしい。
「すっごい雨だよ。でも、小降りになってきた」
セミロングでセーラー服の女の子がはきはきという。
「今日は長居しまーす。勉強しようと思って」
制服のシャツの男の子がおどけたように言った。
真崎の視線が少し怖くて、その光景に目を向けていた。
でも、僕は倫子ちゃんのために、決めるべきだと思った。
「真崎」
真崎の眼を見た。きれいな眼。嘘のないはっきりした顔立ち。
真崎なら、きっと大丈夫。
「頼みがあるんだ」
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