あの日、僕は初めて彼女の声を聴いた。
純粋なこんぶ。
第1話
おれは扉の前で、深く深呼吸した。
-大丈夫。今日も、おれは、おれだ。
覚悟を決めて、教室のドアを勢いよく開ける。
「みんな、おはよ!」
すると、いつものグループが、笑いながら振り返った。
「よっ、京介!」
クラスのリーダー、深野が声をかけた。おれは、ほっとして歩みを進めた。
一歩前を行くたびに、横から陰湿な目線が絡みついてくる。
その目線は、おれのさまざまな部分に向かっている。着崩したシャツ、流行りの髪型。
クラス内では、主に2つのグループに分かれている。もちろん正解は、陽と陰。
目線の主は、その”陰”のグループのものだ。成績は優秀だが、見た目がさえないやつら。
おれは、ずっと陽のグループに入っていた。なぜなら、陰に分類されたくないからだ。だから、ランチをおごれと言われたらそうしたし、興味のない他人の恋愛事情も、ちゃんと聞いた。だから、おれは-…。
「なぁ、あいつさ…」
…陰口が始まる合図だ。深野の、声変わりした低い声。周りのやつは、にやにやと嬉しそうに笑っている。おれも、そっと耳をそばだてた。
深野は周りの様子を確かめると、目線を、一人の女子に向けた。
「
おれも、つられて向井の方を見る。
(…まあ、たしかに暗いけど。)
向井は、見た目は普通の女子だ。しかし彼女の声を、おれは聞いたことがない。
きっと、クラスの全員も。
まさか注目を一身に浴びているとは知らない彼女は、本を読むことに没頭しているようだった。深野は他の人の椅子から立ち上がると、あるところに歩いて行った。
周りのメンバーは、興味を持った目で深野を見ている。でも、おれはいい意味での興味を持てなかった。
(…嫌な予感がする。)
その予感は的中し、深野は向井の席の近くに立つと、ぞっとするような微笑みを浮かべた。
「ねえ、向井さん」
深野は自分の両手を、彼女の机の上に乗せた。その手が、少しずつその上を滑らせていく。深野は、机だけでなく、彼女の心までもを侵略するつもりなのだ。おれは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「・・・なんで、喋らないの?」
向井は、小さく首をかしげると、わきに置いてあったノートを手に取った。
しかし向井がシャーペンを手にしたところで、おれの目の前を、学年一の美少女が通り過ぎた。
(あー、そこ邪魔。どけ!)
噂でしか聞いていなかった美少女にたいして思う最初のことがこれとは、失礼な話だろう。だが今は許してほしい。おれは彼女が通り過ぎると、すぐに視界に例の二人を映した。そして、おれは目を見張った。
(・・・あれは、どういう状況なんだ?)
深野が、今まで見たことがない、驚いたような、不意を突かれたような表情をしていた。向井が持った、ノートのページを見つめて。
(なにが、書いてあるんだろう。)
「・・・あはっ、」
それが一瞬誰の声かわからず、おれは戸惑った。しかし、すぐにその声が、深野のものだと気づく。深野は、突然せきがきれたように笑い出した。クラスのみんなが、ぎょっとしてそっちを見る。しかし深野は周りも見えていないような様子で、自分がいるところまでやってくると、迷惑なことにおれに肩を組んだ。その時おれは、顔がゆがむのを抑えられなかった。深野はそんなおれの表情を一瞥し、肩を組んでいた手をおろした。その時おれは、自分がまずいことをしてしまったことを知った。しかし、もう遅い。深野は教室のドアをばたん、と勢いよく閉め、廊下に出て行った。
翌日。深野は、いつも通り登校した。
でも、なにかが変わってしまうような気がしたのは、おれだけだろうか。
その日、おれたちのグループの話題は、昨日このクラスに来ていた美少女、華菜についてだった。華菜は同じく陽のグループだ。校則をいくらか破ってはいるが。
今、グループ内は熱い。全員、華菜を狙っているのだろう。いつもは深野に従順なやつらも、盛んに話に加わっている。おれは適当に相づちしながら、目だけは他のクラスメイトに向いていた。筆洗の水を床にこぼして、焦っているやつら。黒板に、無駄にうまい先生の似顔絵を描いているやつら。一人で、本を読んでいる―…
(向井だ。)
周りで喋っている人たちを気にする風もなく、ただ自分のしたいことしている姿に、おれは少し、憧れを持ってしまった。
(・・・って、おれはなにを考えているんだ。)
おれは向井から視線を逸らすと、窓のふちに区切られた、青空を見上げた。
(・・・あ、)
よく目をこらすと、はるか上空を、ハヤブサのような鳥が飛んでいることに気づいた。
-・・・京介。・・・京介!
おれは、はっとして思考を現実に戻した。
「なに、ぼうっとしてんだよ。なあお前、好きなやつ、誰だ?」
深野の声だ。おれは、まだ空を眺めながら、言った。
「ハヤブサ。」
「は?」
(・・・しまった、なにやってんだおれ!)
おれは、自分の失策に気づき慌ててごまかした。
「・・・あ、ちがう。間違えた。えっと・・・朱雀。朱雀小鳥。」
おれは、好きな女子がいないから、陽のグループの人物の中で、適当に名をあげた。しかし、またもや自分が鳥の思考に影響されてしまったことを知る。
でも幸い、深野は納得したようにうなずいた。
「・・・よし、今日放課後・・・、」
深野の声が、途中で途切れ、目線が教室の前方に向けられた。扉を開けて入ってきたのは、例の美少女だ。彼女はクラスの陽グループの方に行くと、一緒になってしゃべりだした。
(最近、よく来るな。)
たしか昨日も来てなかったか、と思いながら、おれは周りに合わせて、興味がある風をよそおい適当にそっちを見た。男子はそっちに興味の目線を、女子は侮蔑の表情を向けている。
彼女は友人と適度にしゃべった後、そちらに優雅に手を振り、ドアのそばまで行った。そのまま教室から出るのかと思いきや、彼女は振り返った。
-・・・こっちを見て。
美少女はその澄んだ美しい目をこっちに向けると、微笑んだ。おれはその目線をいぶかしげに思い、後ろを振り返った。しかし、誰もいない。
(・・・まさかな。)
おれはこのグループで目立つ方じゃない。多分、他のメンバーを見たつもりだろう。
そう、思っていた。
要点から行こう。おれは、その次の日、告白された。
-誰に?
(言わせんな。華菜だよ。)
なぜよりによって、学年一の美人に告白されたのかは、おれもわからない。ただわかるのは、顔を赤らめながらこちらを見つめる華菜を見るに、これが夢じゃないということだ。おれは、断ろうとして口を開いた。しかし、寸前で思いとどまる。
(もし、華菜と付き合えば・・・、)
自分は、今のグループ内で、少し外れている、と感じることがあった。しかし、おれが学年一の美人と付き合ったとなれば、話は変わる。おれは、胸が高鳴るのを感じながら、また新たに口を開いた。
おれが華菜と付き合ったという噂は、すぐに広まった。おれは、胸に期待を抱きながら、教室のドアを開いた。いつも通り、メンバーに挨拶する。しかし、何も反応はなかった。
(聞こえなかったか?)
再度口を開こうとしたが、その前に深野が振り返った。その目線に、おれの体が強張る。怒りと、なんでお前が?と問いただすような目線。おれは、反射的に逃げ道をつくった。
「・・・あ、ごめん。ちょ、トイレ行ってくる。」
おれは、速足でドアへと戻り、廊下をダッシュした。おれの脳が、状況についていけていない。でも、心のどこかでは、わかっているような気がした。
深野が華菜を好きなのは、明らかすぎるほど明らかだ。そして、華菜を好きなのは、深野だけじゃなく、他のメンバーも。
(おれの、馬鹿っ・・・!)
今すぐ、華菜に別れを告げようかと思った。彼女に、いくらでも相手はいるだろうから。でも、そうしてももう遅い。付き合ったという事実は、消えないのだから。
おれは、自分の居場所が、耳の横で騒々しい音をたてながら、崩れ落ちていくのを感じた。叫びたくなるのを必死にこらえ、勢いのまま学校を出る。そこで、おれは足をとめた。しかし、戻ってもなにもない。おれは新しくおろした靴が汚れるのも気にせず、やみくもに走り続けた。
どれだけ走ったのだろうか。疲れたおれは、肩で息をしながら、うつむいて歩き出した。子どもの笑い声が聞こえる。いらついたおれは、思わず耳をふさいだ。そして色褪せたように見える視界に、なにか白いものが映り、そっちを見たおれは、はっと目を見開いた。軽トラが、猛スピードでこっちまで走ってくる。まずい、と思った。嘘ではない現実に、ぎゅっと目をつむる。しかし、聞こえてきたのは、ブレーキの甲高い悲鳴と、耳が裂けるほどの、怒鳴り声だった。
「あぶねえな!テメエ!」
男性の声だった。おそるおそる開いた両目が、軽トラの運転席に乗った、50代くらいの男性を映した。男性はおれの姿を見、はっとしたように息をのんだ。そりゃそうだろう。他の人から見たおれは、なにがあったのかと思うくらい、やつれているだろうから。おれの姿を見た男性は、少しバツが悪そうな表情をすると、気をつけろよ、とおれに言い残し、またアクセルを踏んだ。
いつのまにか、あたりが暗くなっていた。右方には、公園が見える。おれの耳に、今日聞いた子どもの声がよみがえってきた。いつのまにか、一周してきたらしい。
おれは引き寄せられるように、そっちへ歩いて行った。痛む足を引きずって、ようやく、おれはブランコにたどり着いた。なぜ、おれがこんな子どもじみたものを選ぶかはわからない。でも、今更恰好をつけても、意味が無いような気がした。
おれはところどころ色褪せたブランコに腰掛け、空を見上げた。夕日が、沈みかけている。しかし、帰る気はなかった。自分は、これからどうすればいいのか。深野たちとまた仲良くなれるとは思わなかったし、たとえ、陰のグループに堕ちたとしても、そこでも多分、馴染めないだろうと思った。おれは、大きなため息をついた。一緒に、涙が零れそうになり、あわてて目をしばたかせる。
-全部、吐いちまえよ。
おれの耳に、ある人の言葉が響いた。それでもおれは、泣くまいと息をしきりに吸い込んだ。
-だから、泣いていいんだって。
(誰だ・・・?)
知っている。この声を。おれはいつのまにか、顔に自分の両手をあて、うめき声を漏らしながら、泣いていた。涙が零れたのなんて、いつぶりだろう。周りの目を気にするようになってからは、泣き方さえ忘れてしまったと、思っていたのに。でも、この公園には誰もいなかった。おれは今までの負の感情全てを出し切るように、涙を流し続けた。どれくらい、そうしていたのか。涙が枯れ果ててきたころ、おれの足元に、影が差した。
(だれだ・・・?)
おれは涙にぬれた顔をあげ、目になにかを映した。
その日、僕は初めて彼女の声を聴いた。
あの日、僕は初めて彼女の声を聴いた。 純粋なこんぶ。 @zack0724
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