サイドメモリー 由夢とのテニス練習

 少しさかのぼり、時は七月半ばの三連休の初日。平井ひらい谷山たにやまと仲違いをしてしまった日の翌日のこと。


 日課である由夢ゆめとのジョギングを済ませ朝食を摂って洗い物を終えた俺は、由夢の部屋を訪ねた。


 ノックするとラフな部屋着に戻った由夢がドアを開ける。毎度のことながら部屋からほのかに甘い香りが漂っていた。


「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいか?」


「えっちなこと?」


「朝っぱらからそういう冗談はやめてくれ。母さんたちもいるんだぞ」


「ふぅん。夜半で二人きりならいいんだ」


 由夢は口許に手を添えて、弧を描く唇を細い指で撫でながら煽るような目で見上げてくる。


 そのませた仕草に俺は思わずため息をこぼした。


 まったく、隙あらばからかおうとしてくるな……。


 頭を押さえていると由夢は「冗談だよ」と小さく笑う。当たり前だ、冗談じゃなかったら余計に困る。


「それで、なにをお願いしたいの?」


「ああ。ちょっとテニスの練習に付き合ってくれないか?」


 用件を伝えると由夢は一瞬ぽかんとしてからじとーっとした目を向けてくる。


「私におにーさんの相手が務まるわけないじゃん」


「ああ違う違う。やってほしいのは玉出しだ」


 慌てて補足すると由夢は納得したようで「なるほどね」とうなずいた。


「ちなみに今日、気温高いと思うんだけど」


「ちゃんと小まめに休憩挟むし、後日お礼もするから頼む!」


 手を合わせて頭を下げると、なぜか頭を撫でられた。


 これは、いったいどういう意味なんだ……?


 突然のことに動揺していると由夢は「わかった」と言った。


「二言は許さないからね」


「するつもりはないよ。ただ、お手柔らかに頼む」


 顔を上げてからそう言うと、由夢は「んー」と唸ってから小さく笑った。


「そのときの私次第かな」


 ……由夢のことだ、からかいはしつつもちゃんと良識的な内容にしてくれるだろう。


 俺は諦めて由夢の判断を信じることにした。



   ◇   ◇   ◇



 二度手間になってしまったが動きやすい格好に着替え、俺と由夢は電車に揺られ運動公園までやって来た。


 事務所でラケットとボールを借りてコートに移動する。連休だからか人がそれなりにいて空いているか不安だったが、無事一面を確保できた。


 軽くストレッチをしてからベースラインの中央に立つ。


「それじゃ適当に左右に出してくれ」


 ネット際に立つ由夢に声をかけると、由夢はうなずいてからラケットでぽーんとボールを打ち出す。


 経験がないと言っていたにもかかわらず、ボールはきれいに弧を描き、向かって右手、ベースラインから五歩前くらいの位置にバウンドした。


 初心者がラケットで打ち出したにしてはいいコントロールなので、やはり運動神経は悪くないのだろう。


 細かなステップで位置を調整して、フォアでストレートに打ち込む。ボールはネットを越えて右サイドを跳ねた。


 続けて今度は左サイドにボールを出してもらい、両手のバックハンドでこちらもストレートに叩き込む。


 うん、つい最近平井の練習相手をしたばかりだし基礎は問題なさそうだな。


 もう二球出されたボールを、落下地点を意識しながら打つ。今日はポジショニングの調子がいいようで、毎度スパンッと小気味よい音が鳴る。


 四球目を打ったところで、由夢と一緒にボールを拾う。


 本当は部活みたいに何十球もあればスムーズにできるのだが、その規模のレンタルは団体しか取り扱っていないらしい。


「おにーさんって、実は結構スポーツ得意?」


「いや、基本的にはどれもそこそこできるくらいかな」


「にしては素人目でも動きがきれいに見えたけど」


「テニスに関しては、練習付き合ってる相手がめちゃくちゃ強いからなぁ。おかげで他のスポーツよりはできるとは思う」


 平井は中学の頃から県大やジュニア大会に出てベストエイトくらいに入る実力者だ。


 高校でも衰えず、去年は一年生ながらインハイで好成績を出している。


 そんなやつの練習相手は、並み程度の実力じゃ伴わない。だからテニスだけ必然的に動けるようになったのだ。


 まぁとはいえ運動が得意なわけでもないので、相当対平井に特化しているが。


「ふぅん。大変だね、優等生って」


「ははは、そうかもな」


 それから何回か普通のショットとコントロールを確認してから、ついに本命の練習に入る。


「由夢、今度は頭を上を越えるようボールを打ち上げてくれ。アウトになってもいいから」


 俺はサービスラインに立ち玉出しについて指示をする。


「あと、ボールを出したらすぐネットに隠れてくれ。さっきと違ってコースをコントロールできないから」


「わかった」


 由夢はうなずいてから要望どおりロブを上げる。ボールが頭上を過ぎたのを確認して俺は振り向き着地点に走る。


 ただの練習なのでアウトになってもいいのだが、由夢が出したボールはベースラインギリギリに入っていた。


 足の位置などを確認しながら、ボールが二回目のバウンドをする寸前にラケットを振るう。


「~~っ!?」


 ボールをラケットで捉えたものの、向きが悪くすぐにコートをバウンドして足に当たった。


 それだけなら大した痛みではないのだが、振る勢いが強すぎてすねに思いっきりラケットを叩きつけてしまう。


 あまりの激痛に思わず膝をつき、声にならない悲鳴を上げる。


「おにーさん、大丈夫?」


 抑揚のないハスキーがかった声に心配の色をにじませながら、由夢がこちらにやって来る。


「だ、大丈夫……」


 そう返したもののすぐには起き上がれそうにない。


 いや、こうなる予想はしていたし覚悟もしてきたけど……痛すぎる……っ!


 練習するにあたって少しだけ実戦で使われた動画も見てみたのだが、ハイスピードな試合のなかでプロは使用していた。


 由夢が出したボールより何倍も速いボールに、万全とは言えない姿勢から追いついて股を抜く。


 その光景は思わず感嘆してしまうほどだったが、今試してみてその一瞬に集約された技術の凄さを改めて実感した。


「念のため冷やしたほうがいいんじゃない?」


「そ、そうだな……」


 壁際に移動して、途中で買った冷たいお茶を氷のう代わりに当てる。


 その間に俺は練習動画を見直しながら先ほどの自分の動きと照らし合わせ問題点を洗い出す。


 打点の高さは意識できていたけど、前後の位置が悪いな。目で見ることに集中してたせいで体の前で打ってる。


 股抜きショットとは言うが、よく見ると厳密には股下、なんなら体より少し後ろでボールを捉えていた。


 打ったボールで股を抜くのではなく、股を抜いて打つ。他のスポーツの股抜きのイメージに引っ張られすぎたかもしれない。


 足運びも、股抜きを意識しすぎて変になってたな。打つ直前に足を広げる感じか。


 課題が多すぎて習得するのはなかなかに苦労しそうだ。


「ね、このひとりでやる練習法はやらないの?」


 俺のスマホを覗き込んでいた由夢が尋ねてくる。


「俺の経験則だけど、このやり方だとなんていうか本番のときに動けないんだよな」


 由夢が指したのは、自分でボールを落として股抜きをするというもの。


 丁寧に手順を踏んでいてわかりやすいが、俺はどういうわけだか実戦に近い方法でないと動けないのだ。たぶん、動きの応用が下手なんだと思う。


 たくさん時間を費やせばクリアできるのだろうが、三日後の火曜日に間に合わせる必要があるので実戦想定のほうがいい。


 実際、ロブを目で追って着地点を見定めるという工程もあるので由夢に出してもらうほうがいいと思う。


「よし、痛みも引いたし再開するか」


「ん、わかった。あまり怪我しないようにね」


「善処するよ」


 なんて言ったが、夕方ごろには俺の脛にはいくつかアザができる結果となった。


 ただ、最初に比べて思いっきり走り抜けるようにはなれたので少しは上達できたとは思う。


 これ以上は帰りが遅くなるしそろそろ切り上げるか。っと、その前に。


「せっかくだし、帰る前に軽くラリーでもしてみるか?」


 せっかくラケットを借りたというのに、由夢には玉出しばかりさせていたので申し訳ない。


 由夢は「んー」と唸ってからうなずいた。


「ただ、ちゃんと振れるかわかんないけど」


「玉出しはきれいにできてたから、その要領で問題ないと思うよ」


 俺は由夢が取りやすい位置を狙ってアンダーでボールを軽く打つ。


 由夢は見よう見まねな様子で構えてぽんっとボールを打ち返してきた。


 スイング等は崩れているが、ちゃんと俺のほうに返してきている。俺の思ったとおりだ。


「そうそう、その調子。やっぱちゃんと打てるな」


「ん」


 あまり露骨には見せないものの、由夢は若干頬を綻ばせた。


 由夢のペースに合わせてゆっくりとラリーを繰り返す。


「……ね、左側でも打ってみたい」


 ちょうど俺がバックハンドで返したタイミングで由夢が呟いた。


「わかった」


 個人的にはバックハンドは距離感が難しいのでいきなりやっても空振りしそうなのだが、由夢のチャレンジ精神を尊重してバックサイドに気持ち遅くボールを出す。


 由夢は俺がやるように両手でグリップを握り、ボールをよく見てラケットを振るう。


 しかし予想どおりフォアよりもフォームはガタガタで、思いっきり空振りした。


 由夢は困惑した様子で握っているラケットに目を落とす。


 あー、そういえば玉出しのときにフォアの持ち方は教えたけど、バックハンドの握り方は教えてなかったな。


 俺はネットにラケットを立てかけてから由夢のところへ向かう。


「ごめんごめん、まずは持ち方教えないとだな」


 俺は由夢の背後に回って、左手でラケットのシャフト──グリップ上の二股に別れたところを持つ。


 由夢にグリップから手を離してもらい、ラケットの向きを縦にする。


「まず右手はフォアと違って、ラケットに対して垂直に握るイメージだ。手を離して指を伸ばしたときに、ラケットの面と垂直になるといいな」


 一度握って見せてから由夢にグリップを明け渡す。


「こんな感じ?」


 由夢は俺がしたようにグリップを握る。


「そうそう、そんな感じ。だけどちょっと角度がズレてるな」


「──っ」


 微調整するために由夢の手の上から俺もラケットを握る。左手でもラケットの角度を調整して、ひとまず右手は問題なさそうだ。


「で、左手はフォアのときの右手と同じで、手の向きがラケットの面と水平になるように横から握る」


 由夢が手の位置を決めあぐねていたので、左手も覆うようにして握り方を補助する。


「両手のバックハンドはこうやって握るんだ。なんとなくわかったか?」


「……おにーさんのへんたい」


「なんで!?」


 握り方を教えていただけなのに、心外な言葉を送られた。


 それを言うなら、今朝のような冗談を言ってくる由夢のほうが変態ではないのか。


 ただ、そんなことを言ったらなにをされるかわかったものではないので口には出さないでおく。


 由夢はため息をついてから「それで?」と説明の続きを促してくる。


「あ、あぁ。それで振るときは、両手で持つからフォアと違って打点が体に近くなるんだ」


 俺は由夢の手を上から握ったまま、バックハンドのスイングをしてみせる。


 ラケットを振るときの腕の動かし方などについてや、ボールを捉える位置について説明しながら何回かスイングを繰り返す。


 ある程度動きに慣れてきたようなので俺は手を離して、由夢の素振りを見る。


 うん、問題はなさそうだな。


「それじゃバックをもう一回試してみるか」


「ん」


 俺は元いたコートに戻りラケットを回収して、由夢のバックサイドにボールを出す。


 呑み込みが早いようで、今度は空振りすることなく打ち返してきた。


 とはいえやはり両手はなかなか慣れないようで、フォアよりはコントロールが悪い。


 それでも今の数分で問題なく打ち返せるようになるのはすごい。少なくとも俺は慣れるのに一時間くらいかかった。


 それからフォアとバックで数回ずつラリーをしてお開きにした。


「フォアとバックで握り方違うけど、早く動きながら持ち変えてるの?」


「そうだな。だから打つ以外のタイミングは左手でシャフトを持つことが多い。すぐに右手の持ち方を切り替えられるようにな」


「ふぅん、そっか」


 なんてやり取りをしながら借りたラケットとボールを返却して、温水シャワーで汗を流した。


「それじゃ今日は帰るか」


 同じくシャワーを終えた由夢と合流してそう言うと、由夢はぽかんとした様子で首をかしげた。


「今日は、って、まるで次があるみたいな言い方だけど」


「あぁ。日曜と月曜も頼む」


 なんせまだ対平井の切り札はなにひとつ使える状態になっていないからな。


 由夢はじとーっとした目で俺を見上げてから、大きくため息をついた。






==========

あとがき


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ダウナー義妹とナイショでおやすみ ~頑張りすぎな優等生は、今日も義妹に癒される~ 吉乃直 @Yoshino-70

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