第5話 最終回

 警察に知らせるべきか、それともこのまま黙って見過ごすか。

 

 売店のすぐ脇に設置されたベンチに座ったまま、孝太郎は思案に暮れている。

 

 梅婆さんの家の庭を飛び出したときは、あの男が犯人と確信していた。だが、冷静になって考えてみると、なんだか心もとない。

 あれは、本当に醤油の染みだろうか? 

 頭の中にいつも醤油の染みがついたスニーカーがあったせいで、ただそう思えただけなんじゃないだろうか。

 

 正面に見えている交番を、孝太郎はうらめしく眺めた。入る勇気は出てこない。もし、こちらの勘違いで、正しく暮らしている市民を、犯人呼ばわりしてしまったら。

それだけはできない。

 そう思ったとき、頭上で孝太郎を呼び止める声がした。

「やっぱり、あなたでしたか」

 顔を上げると、心配そうな表情で、いつもの見回りの警察官が立っていた。

「失礼ですが、さっきからずっと眺めてたんですよ。なんだか、深刻な雰囲気で地面を見つめてらっしゃったから」

 孝太郎は返答に困った。咄嗟に顔色が変わっていくのを、自分でもどうしようもない。


「何かあったんですか」

 いつもと同じ、優しい物言い。だが、こちらの動揺を、じっと観察している目つき。

「何でも、ありません」

「ほんとですか。何かお困りでしたら」

「だいじょうぶですよ。ちょっと睡眠不足で」

 依然、警察官は、不審そうにこちらを見ている。

「じゃ、失礼します」

 無理矢理立ち上がり、孝太郎は歩き出した。警察官の視線が、ぴったり背中に張り付いている気がする。


 有難いことに、ロータリーに、孝太郎が乗りたいバスが入ってきた。

 駆け出して、バスに乗り込む乗客の列に加わる。

 振り返らず、孝太郎はバスに乗り込んだ。



 冷蔵庫から残りもののカレーが入ったタッパウエアを出し、孝太郎は水道の蛇口の下へ置いた。蛇口をひねって、水を細めに出す。

 こうしておかないと、電子レンジで解凍させる際に、時間がかかりすぎてしまう。


 風呂場に入り、浴槽に蓋を半分だけ被せ、湯を入れた。洗う必要はない。風呂洗いは出るときに済ませてしまう。おかげで、いつだって浴槽はピカピカだ。

 湯が張るのを待つ間に、隣の洗面所で髭にカミソリを当てた。電気カミソリは剃り味が気に入らないから、カミソリしか使わない。シェービングクリームを泡立てて顎にのせ、刃を当てる。


 刃を動かしながら、孝太郎は梅婆さんの家を思い返す。逃げた男の顔も、染みの付いた水色のスニーカーも。

 あの男に間違いないのだ。

 ほんとうは確信しているのに。


 泡の付いた口からため息が漏れた。後悔は、帰りに声をかけてくれた警察官を思い返すと、余計に募る。

 だが、これでよかったのだとも、思う。もし犯人だとしても、同じ鎌倉市内の住人同士。いつ仕返しをされるかわかったもんじゃない。

 黙ってれば、見過ごしてやったのによ。

 男が言いそうなセリフだ。だって、あの男、ワルそうな感じがした。

 

 そう思ったとき、硝子が割れる音が響いた。ビクンと体を震わせてから、固まる。

 

 まただ! また誰かが自分を襲おうとしている!

 割られたのは、庭に面した居間の窓のようだ。

 

 孝太郎は洗面所を飛び出した。風呂場の窓は、外側に格子の鉄枠がはめ込まれているから、逃げ出せない。廊下を走って、玄関から逃げ出すしかない。

 侵入者の影に怯えながら、孝太郎は狭く短い廊下を走った。

 ドタドタッと乱暴に床を踏み鳴らす音が追いかけてきた。あわわと呻きながら、ようやく玄関にたどり着く。

 タイルの三和土に足を踏み出したときだ。影が孝太郎の前へ回り込んだ。


「あっ」

 やっぱりそうだった。今日、梅婆さんの庭で見かけた男!

 男の腕が、振り上げられた。何か金属製らしき物体が、孝太郎めがけて落ちてくる。咄嗟に身を翻して、よろけた。バン!と下駄箱に物が当たる。

 身が縮んだ。金属製の塊はスパナだった。

 そのスパナが、ふたたび振り上げられる。

「わああぁああ」

 孝太郎は避けて、思い切り玄関のドアにぶつかった。

 と、ふわりと体が軽くなり、タイルの上に倒れこむ。

 玄関のドアが、外側から開いたようだ。同時に頭の上で、怒声が響く。


「やめろ!」

 叫んだのは、今日、駅前で声をかけてくれた警察官だった。警察官は孝太郎を飛び越え、家の中へ侵入者を追いかけた。

 ドタドタと二人が走る音と、物が割れる音、硝子が砕ける音。途中から、足音が多くなった。表に停まったパトカーから、別の警察官が駆けつけたようだ。


 助かったんだ。


 安堵が孝太郎の全身に広がっていった。同時に、右半身の疼きと、戸外のタイルの冷たさを感じた。

 寝転がったまま、孝太郎は、目の前に落ちてきた枯葉を眺めた。枯葉は虫に食われて、穴が空いている。



「様子が変だと思ったんですよ」

 孝太郎の家を見回ってくれた警察官は、挨拶に行った交番で、そう言って顔をほころばせた。

 観光客の対応で人の出入りが激しい交番で、スチール椅子に座り、孝太郎は恐縮している。

 二度目に襲われてから、一週間が経った。犯人から逃げて転んだ際の右半身の疼きも消え、来週からは仕事にも復帰する予定だ。

「売店の脇のベンチで話したとき、おかしいなあと思ったんですよ。何か隠しているなと。こちらもプロですからね。わかりましたよ、なんとなく」

 売店の脇のベンチは、この交番からよく見えた。今は、学校帰りらしい小学生が、缶ジュースを飲んでいる。


 つくづく運が良かったと、思う。もし警察官が孝太郎の様子を不審に思い、後をつけてくれなかったら、自分は殺されていただろう。

 やはり、侵入者は、婆さんの家にいた若い男だった。庭で孝太郎に顔を見られ、もう一度襲うことにしたらしい。

 

 男の名は、園田慎吾。婆さんと同居する園田夫婦の息子らしい。

 

 孝太郎の記憶では、表札に慎吾という名はなかった。それもそのはずで、慎吾は静岡市でカラオケの店員をしているのだが、競馬で作った借金で闇金に手を出し、逃げるようにあの家へ帰ってきたのだという。

 

 あの家は見た目通り、かなりの資産家だ。資産は十七年前に亡くなった梅婆さんの夫が残したものだが、今では、資産の大半を占める土地家屋は、梅婆さんの名義になっている。

 ということは、もし梅婆さんが死んだら、財産は当然息子夫婦のものになるが、ところが、息子夫婦は実の親子ではなかった。といって、養子縁組をしたわけでもない。元は遠い親戚で、夫が死んでから身寄りのなくなった梅婆さんが、ちょうどその当時、住む家に困っていた二人を同居させたのだ。表札にあった、園田洋一、和子というのが、その夫婦だ。

 

 となると、婆さんが死んだ場合、財産は誰のものになるか。婆さんには身寄りがいないため、園田洋一と和子は、自分たちに分けてくれるよう頼んでいた。ところが最近になって、

「自分には息子がいる」

と、婆さんが言い出したものだから、夫婦と婆さんの仲は険悪になった。

 といっても、洋一と和子は、長い間の恩を思い、腹を立てないよう努めていた。二人は人のいい、年金生活者でしかない。が、借金を抱えて突然親を頼ってきた、息子の慎吾は違った。梅婆さんの財産は、自分たちが貰うべきだと主張したという。

 

 やがて慎吾は婆さんの行動を監視するようになった。そして、毎日曜日、朝ご飯を食べに行く息子の家を突き止めた。


「慎吾はあなたを殺せば、梅婆さんも諦め、財産が自分たちに入ると思ったんですな」

 

 そう言われると、肩身が狭い。自分が最初から、婆さんの勘違いを正しておけば、こんな事態にならなかっただろう。

 孝太郎が何か隠していると、警察では気づいていたらしい。だからこそ、三日に開けず、孝太郎の家に見回りに来てくれたのだ。

「ほんとうにご迷惑をおかけしました」

 頭を掻きながら言い、いちばん訊きたかったことを口にした。

「で、僕のところに来ていた梅、いや、おばあさんですが、今はどうしてらっしゃるんでしょう」

 警察官は眉を曇らせた。

「あまり体の具合がよくないようですよ。この事件が起きる前から臥せっていたようで」

「そうですか。元気じゃないのは心配ですが、この事件がきっかけで臥せったのでなければ、まだ救いがあります」

「そうですな。老人にとって、自分の遺産問題で孫同様の男が事件を起こしたとなると、かなりショックでしょうからな」

 

 それにしても、なぜ、婆さんは、孝太郎を息子と勘違いしたのだろう。

 疑問を口にすると、警察官はさびしそうな表情になった。

「それなんですが、婆さんは昔、住んでいたらしいんですな。お宅とそっくりの家に」

 園田夫婦から事情を聞いたところによると、婆さんがまだ新婚の頃、静岡の田舎で、孝太郎の家とそっくりな家に住んでいたという。その家には、これもまたそっくりな梅の木があったそうな。

「しかも、当時まだ息子が生きていたらしいです。戦死したようなんですが」

 

 警察官に礼を言って、孝太郎は交番を出た。そして駅裏側へ回り、梅婆さんの家を目指す。

 一言謝らなくては気がすまなかった。こんな事件の後、家人は孝太郎には会いたくないだろうが、息子のふりをしたことを、謝らなくては気がすまない。

 住宅街を進み、梅婆さんの家に着いた。門は閉ざされ、前回訪れたときより、庭は寂しげに見える。

 孝太郎はインターフォンを押した。一度、二度。三度目に返事があった。孝太郎は名を名乗り、戸惑った相手に、強引に言い放った。


「江田糸乃さんにお会いしたいんですが」

 相手は黙ったままだ。

「お願いします。ほんのちょっと、お顔を見せていただければお暇しますから」

 すると、インターフォンから、途切れ途切れの声が漏れてきた。

「――江田糸乃に――ご用なんですか」

「そうです。江田糸乃さんのお顔が見たいんです」

 インターフォンの電気音が切れた。どうやら婆さんに会わせてもらえるらしい。


「お待たせしました」

 そう言って出てきた相手に、孝太郎はひどく驚かされて言葉を失った。

 それから、じっと相手を見つめてしまう。

 

 なぜか。

 

 すてきな人だ。だから、呆然としてしまったのだ。こんなことは、初めてだった。

「――あの、わたし」

 孝太郎のぶしつけな視線に、相手はうっすらと頬を赤らめた。白い肌だ。細い肩だ。といって、痩せているのではない。丸みがあって、温かみを感じさせる。

 おそらく、三十はとうに越しているだろう。だからこそ、若い女の子にある、明るいが好戦的な勢いがない。どこか引いているような、ひかえめな印象がする。それが好ましい。

 目も良かった。大きくはないのに、黒目がちで澄んでいる。こんな澄んだ目から見つめられたのは、初めてだ。

 

 何か言わなくては。

 

 焦れば焦るほど、言葉が出てこない。こんなとき、相手を惹きつける言葉を、孝太郎は知らない。

 少年のように胸を高鳴らせたまま、ようやく声を上げたとき、自分の声が叫んでいるほど大きくなったのに気付かなかった。


「江田糸乃さんに会わせてください。お願いします」

 すると、相手は、辛そうに俯いて呟いた。

「――何か、おっしゃいましたか」

「――だから、江田糸乃はわたしですがと申し上げているんです」



 よく晴れた日曜日だ。

 孝太郎は換気のために寝室の窓を開けて、青く澄んだ冬の空を見上げた。

 年が明けて、もう二月になっている。

 

 窓の敷居にからまるように、梅の枝が伸びてきていた。その枝に、ふっくらと芽がついている。春が来るのだ。

 今日は、これから、梅婆さんの家へちょっと遅い朝食を食べに行く。いや、梅婆さんじゃなく、ゆきえ婆さんだ。

 自分の勘違いを思い出すと、孝太郎はいまでも苦笑せずにはいられない。表札の名前を勝手に解釈し、江田糸乃を梅婆さんの名前だと思い込んでいた。ところが実際は、ゆきえというのが梅婆さんの名で、江田糸乃は園田夫婦の遠縁の娘の名だった。

 園田夫婦とゆきえ婆さんの苗字が同じなのは、同じ村の出身者に、園田姓が多いだけの話だった。わかってみれば、馬鹿げた勘違いをしたと呆れてしまうが、孝太郎は自分の勘違いに感謝している。

 今日も、食卓には、卵入りの味噌汁が並ぶだろう。もちろん、婆さんが作ってくれるのだ。

 あの事件のあった当時、臥せっていた婆さんだったが、いまではすっかり回復している。以前のように、毎日曜日に出かける元気はもうないが、年を考えれば全快したのも同然だ。

 そういうわけで、毎日曜日、孝太郎のほうが、婆さんを訪ねることになった。

 今では、孝太郎がほんとうの息子でないと、ちゃんと理解している。それでいて、温かく迎えてくれる。

 

 変わらず、婆さんの作ってくれる卵入りの味噌汁はうまい。毎度、孝太郎は楽しみだ。そしてもう一つの楽しみは、食卓に並ぶおかずを担当してくれる、江田糸乃に会うことだ。

 婆さんを見舞い彼女を知ってから、孝太郎の人生は変わってしまった。一人でいることに、ひどく孤独を感じるようになった。住み慣れて満足していた家が、古臭く住み辛いと思えてきた。

 

 この気持ちの変化を、孝太郎は今、素直に受け止めて、前向きに対処しようとしている。

 

 家の鍵を閉め、門扉まで来ると、孝太郎は後ろを振り返って梅の木を仰いだ。

 梅は今年もまたかわいい花を咲かせ、おいしい実をつけるだろう。

 大切な思い出と新しい出来事。その両方を、季節が優しく包んでいる。

                                 了


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