第4話
南側に面した窓から、明るい光が差し込んでいる。
初秋らしい緩やかな風が、カーテンを揺らしている。
ベッドの脇に置いた文庫本の頁が、はらり。
さっきから孝太郎は、ベッドで横になったまま、警察官の質問に答えていた。侵入者によって床に倒された孝太郎は、肩に軽い打撲――全治二週間の傷を負ったのだ。
孝太郎が意識を取り戻したのは、刺されてから約三十分後だった。向かいに住む主婦が、見つけてくれたという。主婦はすぐに救急車を呼んでくれ、孝太郎をこの病院へ運んでくれた。
向かいの主婦とは、挨拶を交わす程度の付き合いだ。日曜日の夜、しかも十時過ぎに訪ね合う仲じゃない。それなのに、孝太郎の家の呼び鈴を鳴らし、返事がないのを不審に思い、勝手口まで回ってくれたのには理由があった。
チラシだ。
雨に濡れてぐしょぐしょになったチラシが、郵便受けに溜まっていた。彼女は孝太郎の家の郵便物が、夜まで溜まっているのを初めて見た。それで、変だと思ったらしい。
そんな話を、孝太郎はあらためて警察官から聞いた。退院したら、真っ先に挨拶にいかなくてはと思う。
「で、襲ってきた男の顔は見たんですか」
定年が近そうな初老の警察官は、そう言ってから、気の毒そうに孝太郎を見た。
「見てません。相手は黒いマスクをしてましたから」
なるほど、なるほどと、頷く。
「身長はどれくらいでしたか」
「さあ」
正直、まったくわからなかった。とにかく気が動転してしまって、黒いマスクしか憶えていない。
「ほんとに、襲ってきた男に心当たりはありませんか」
「もちろん、ありませんよ。どうして」
「男が何も盗まず逃げ出してるんでね。強盗が目的ならば、あなたが気絶した隙に金品を物色するんじゃありませんか」
「それは、僕の投げた醤油が目に入って」
「そうですねえ。そうでしょう。でも、ちょっと間抜けすぎるんですなあ」
「じゃ、おまわりさんは、犯人は僕に恨みを持っていたというんですか」
「――どうも、プロの犯行とは思えませんからねえ」
孝太郎は新たな恐怖に襲われた。言われてみれば、おかしい話だ。醤油の瓶を投げつけられたくらいで、すごすごと引き下がる悪漢がいるだろうか。
「最近、何か変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「というのは、こういう犯行の前には、必ず何か前兆があるものなんですよ。それに飽き足りなくなった犯人が、とうとう犯行に及ぶというケースがよくある」
何も思い当たらなかった。会社でも友人付き合いでも、これといった変化はない。誰とも喧嘩はしてないし、無言電話を受けた記憶もなければ、何者かに家を覗かれた覚えもない。
と、孝太郎はハタと思い当たった。
梅婆さん。
奇妙な出来事と言えば、あの婆さんがやって来て、いっしょに何回か朝食を食べたことだ。
「何か思い当たるんですね」
「いえ、何でもないんです」
「隠さず言って下さいよ。そうでないと」
「いえ、ほんとに何でもないんです」
懸命にさりげない風を装ったが、警察官の目は鋭く孝太郎に注がれる。
「イタタタ」
しょうがないので、肩を押さえて芝居を打った。
「まだ、痛むなあ」
実際、触ると肩はひどく痛む。
ようやく警察官は腰を上げた。
「何か思い出したら、すぐに知らせて下さい。いいですね」
はいと、歪んだ表情のまま、孝太郎は返事をした。肩の痛みといっしょに、良心がチクリと傷んだが、婆さんのことだけは話せないと思う。婆さんのためだけじゃない。自分のためにもだ。
相手は警察官だ。見ず知らずの老人と、毎日曜日、朝食を共にしていると知られたら、咎められるんじゃないか。この気分は、小さな子どもを騙して自分の家に上げるのと、ちょっと似ている。
いつしか秋も深まって、孝太郎の肩の痛みもすっかりなくなった。
依然、犯人は捕まっていなかった。隣近所で襲われた家もないし、怪しい人物の目撃情報も出てこない。警察のほうでも、孝太郎のまわりに怪しい人物がいないと調べ上げて、捜査は行き止まりになっている。
そして、孝太郎の恐怖も薄らいでいた。事件後によく見た怖い夢も見なくなったし、近寄れなかった勝手口にも、今では何の抵抗もない。
事件以来、警察官が、ときどき顔を見せに来てくれるのも、恐怖を忘れる要因になった。自主的に見回ってくれるあの取り調べのときの警察官に、孝太郎は感謝以上の気持ちを持っている。
見回りの警察官と、相手に時間があるときは、事件以外の話をするときもある。昨日の夜も、二人で骨董の話から古い刀の話になった。孝太郎の祖父が錆を集めていた話をすると、相手も、刀剣見本市があると出かけるほどに刀が好きだという。古い刀はどれも高価だから、購入したことはないが、
「見るだけはタダですからな」
と、笑った。
そんな話をしたせいか、昨日警察官が帰ってから、しきりに梅婆さんが思い出された。
孝太郎が梅婆さんの家まで後をつけて以来、婆さんは顔を見せていない。
まさか、寝たきりになったんじゃ。
そう思うと、かいがいしく朝食を作ってくれた姿が思い出されて、いたたまれない気持ちになってくる。
様子を見に行ってみよう。
痛みはなくなったものの、会社を早退して通院は続けている。
病院へ行ったある日の帰り、孝太郎は婆さんの家のほうへ足を向けた。
途中、鎌倉では有名な和菓子屋に寄って、箱詰めのサブレーを買った。今度こそ、家人に会って、二人の関係を説明するつもりだ。その際に、手ぶらでは気が引ける。
いそいそとサブレーの袋を手に歩き出したが、肝心の二人の関係の説明をどうするか。
「梅だな」
ようやく思いついたのは、駅前から静かな住宅街へ入ったときだった。
孝太郎は、婆さんがポケットに入れて持ち帰った梅が、その後どうなったのかを知らない。
家人は知っているはずだ。おそらく、その梅はどうしたのかと、誰かが――息子か孫かが、婆さんに尋ねたはずだ。
初夏の頃、うちの庭で婆さんが梅を拾っているのを見かけたと、そう言えば不審がられずにすむ。婆さんに会わせてくれるんじゃないか。
考えがまとまったとき、孝太郎は婆さんの家の前に来た。
四時になったばかりだというのに、もう日が弱くなっている。
あとひと月で冬至が来るのだ。
開かれていた門の脇に立って、インターフォンを押した。インターフォンは、ポロロンと軽やかな音をさせたが、返事はない。
もう一度押してみた。
やっぱり、ない。
すると、庭の奥から、突然、音楽が聞こえてきた。
なんだ、やっぱり誰かいるんじゃないか。
孝太郎は門の中へ足を踏み出し、声を上げた。
「すみません。どなたかいらっしゃいませんか」
音楽に負けないよう、大声を出した。が、ちょっと大きすぎたようだ。
「なんだよ、聞こえてるよォ」
若い、けれどどこかけだるそうな声が返ってきた。
孝太郎は表札を頭に思い浮かべながら、叫んだ。
「江田糸乃さんは、いらっしゃいますか」
返事の代わりに聞こえてきたのは、さらに大きくなった音楽と、エンジンを吹かす音だった。
孝太郎は庭を進んでいった。車のエンジンをかけながら話されるようじゃ、ますます声を張り上げなくてはならない。
どうやら右手が玄関のようだが、エンジンの音は左手から聞こえてくる。左手は裏庭らしい。
回ってみると、玉砂利はなくなり、黒土の庭になった。広い裏庭だ。半分が畑にされている。
畑の隅に、トタンの小屋があった。その向こうに、銀色の車が見えている。
ふいに、若い男が、車の助手席から首を出した。
「あの、すみませんが、江田糸乃さんは」
男があっと声を上げた。そして車から飛び出すと、そのまま逃げるように家の中へ入っていく。
なんだ、あの野郎は。
もう一度声を上げようとしたとき、孝太郎は気づいた。男がサンダルを蹴って駆け上がった縁側に、スニーカーがある。
水色のスニーカーだ。
走り寄って近づいて、孝太郎はスニーカーをじっと見た。醤油の染みがある。べったりと孝太郎の記憶のままの染みが付いている。
――さっきの男が、自分を襲った犯人?
きっとそうだ。そうでなくて、こちらの顔を見た途端逃げ出すだろうか。
孝太郎の体に、忘れていた恐怖が蘇ってきた。
警察に知らせなくては。
そろりと忍び足になって、孝太郎は後ずさった。
一歩、二歩。そして四歩目で、小さな石に躓いてしまった。
「イテッ」
全身に汗が溢れ出す。
孝太郎は走り出した。
うろが来るとはこんな状態を言うんだろう。何も見えないし、何も聞こえない。ただ、ただ夢中で、走った。ひたすら走った。
気がついたときは、駅前のロータリーに来ていた。
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