第3話
翌日眩しい朝日の中で、孝太郎は目を覚ました。
昨日の土砂降りが嘘のような、清々しい朝だ。
午前八時。部屋の中はすでに日中のように蒸し暑い。
孝太郎は起き上がり、大きく伸びをすると、窓際に立った。
立て付けがよくない窓をいつもの要領で開けた。
ギスギシュッと、嫌な音がする。その窓に、古い梅の枝が伸びてきている。
そういえば、この季節になると。
梅の枝を向こうへ押しやりながら、孝太郎は懐かしい思いに囚われた。
――今年は案外大きいのが取れたよ。
生前の母の声だ。毎年今頃になると、梅酒を作るために、母は庭に落ちた梅を拾っていた。
孝太郎は酒が強いほうではないが、この母の造った梅酒だけは何杯も飲めた。
甘さがちょうど良く、市販のものよりもアルコール度が弱いせいだったかもしれない。
――孝ちゃんがそんなに喜ぶんなら、スーパーで梅を買ってきて、もっとたくさん作ったっていいんだけどね。
――そうしてくれよ。何杯あったって困らないんだからさ。
――でもね、やっぱり、だめよ。梅が違うとうまくできないから。
梅が違う。
よく母はそう言った。
家の梅が特別だという話は、母以外に誰からも聞いた覚えはないし、見た目も、隣近所にある梅の木と変わりがあるようには思えなかったが。
――おふくろがそう言うなら、そうなんだろう。
素直に同意していたものだ。
いや、本当はどっちでもよかったのだろう。
梅酒を飲むということは、そこに母がいたということで、氷を入れたグラスに梅酒を注いで口に運ぶとき、夏のはじめに庭に落ちた梅を拾う母の姿や、交わした会話もいっしょに飲み込んでいたのかもしれない。
穏やかで満ち足りた暮らしを、いっしょに飲んでいたのだろう。
こんな気持ちを人に言ったら、また変人扱いをされるに決まっている。
わかっているから、口にしたことはない。
四十を過ぎて独身でいる男が、死んだ母親の思い出を大切にしているというのは、それだけで世間は奇妙なことのように思う。
「コーヒーでも飲むか」
独りごちて、孝太郎は窓を離れた。
普段はインスタントコーヒーを飲んでいるが、日曜日は豆を挽いて特別な味を楽しむことにしている。
と、そのときだった。庭から歌うような声が流れてきた。
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