第3話

 振り返ると、本屋の前で婆さんに話しかけていた初老の女が立っている。女は不審そうに、孝太郎を眺めている。

「園田さんならいらっしゃいますよ。そこに呼び鈴が」

 促されて、孝太郎は呼び鈴に目をやった。趣きのある門に、グレーの真新しいインターフォンが備え付けられている。こんな大きなものに気づかないなんて。女の目はそう言っている。孝太郎の声は思わず上ずった。

「い、いいんです。おばあちゃんを送ってきただけなんですから」

 女の目つきが優しくなった。


「あらあ、あなたが息子さん」

「えっ?」

「まあま、ご立派な方で。はじめまして。わたくし隣の藤原と申します。いつもここのお宅のみなさんにはお世話になって。そうですか。送ってらしたんですか。うらやましいですわねえ、こんないい息子さんがお近くに住んでいらして」

 どうやら目の前の女は、こちらを婆さんの息子だと勘違いしているらしい。

 孝太郎はますます、どうしていいかわからなくなった。


「いつも、ねえ、おばあちゃん、楽しそうに話してくれるんですよ。毎日曜日には、息子のところに朝ご飯を食べに行くんだって。ほんと、お元気だから、しあわせよねえ」

「いや、あの」

 どう言えば、誤解を解き、それでいて不審がられずに事情を説明できるのだろう。

 孝太郎が言葉に詰まっていると、女ははらりと上品に頭を下げて、

「じゃ、ごめんくださいませ」

と、背を向けて行ってしまった。


 孝太郎は一人残されて、ふたたび、婆さんがくぐっていった門の向こうを覗いた。庭はしんとして、人の気配はない。とても入っていく勇気は出てこなかった。

 出直そう。

 表札を一瞥して、孝太郎は踵を返した。「江田糸乃」という名前をもう一度確認したが、やっぱり心の中では、こう挨拶していた。

「じゃ、また。梅婆さん」



 婆さんの家からぶらぶらと歩き出し、途中、缶ビールを買って鶴岡八幡宮のベンチで飲んでから、孝太郎は家へ向かった。

 いい日和だったから、結局家まで一時間強、歩き続けて、着いてみるとすっかり夕暮れになっていた。

 いかにも初秋らしい、懐かしいような夕日の橙色が、家全体をすっぽりくるんでいる。


 飲んだ缶ビールが体全体に行き渡り、ふんわりと気持ちが良かった。背中に夕日を受けながら、玄関の鍵穴に鍵を刺した。

 家の中は、もう薄暗い。

 

 もうちょっと飲み足りないように思って、孝太郎は台所へ直行した。

 たしか、数本ビールがあったはずだ。

 冷蔵庫を開けると、思った通り、缶ビールが二本だけ、卵のパックの隣に転がっていた。その場でプルトップをつまみ、ほんの少し口に含み、それから居間に行ってソファに体を投げ出した。


 居間は庭に面している。カーテンを開けたままの窓から、薄暗くなった庭が見えた。秋の日は釣瓶落としだな。垣根のせいで、もう庭の大半は薄闇の中だ。梅の木も黒い影となっている。


「――息子か」


 呟きが、静かな室内にぽとりと落ちる。


 梅婆さんに息子と勘違いされた事実が、まだ、孝太郎の心を捕らえていた。考えてみれば、有り得ない話ではなかったのだ。病気による思い込みが、婆さんに見ず知らずの他人の家で朝食を摂るという行動をとらせたのだろう。

 普通なら、すぐに、間違いは正されたはずだと、孝太郎は想像してみる。


 おばあさん、ここはあなたの知っている家じゃないんですよ。目の前にいるのは、あなたの息子じゃないんですよ。


 そうしたなら、婆さんも理解しただろう。嫌でも、承知せずにはいられなかっただろう。

 ところが、ここでは正されなかった。言ってみれば、自分は、婆さんの息子に成りすましたのだ。


 孝太郎はビールを飲み干した。まだ飲み足りないと思う。二本目を冷蔵庫から取り出し、ふたたびソファに横になった。

 もう、電気を点けないと、手元が怪しい。

 庭に秋の夜が降りてきている。静かだった。虫の声もするが、風が出る前触れか、いつもより弱々しい。

 

 このまま一人で年を取るのだ。


 唐突に、この事実が、孝太郎を包み込んだ。

 

 わかっていたことだ。何もたった今気づいた事実じゃない。それなのに、なぜか今夜は、この事実が新しい紙に書かれた挑戦状のように、孝太郎の目の前にある。

 まだ四十を過ぎたばかりだ。これからどんな新しい人間関係が待ち受けているかわからないじゃないか。そう思ったときもあった。けれど、なぜか、期待は期待のまま、いつしか透明になって、年月だけが過ぎていった。


 努力が足りなかったのだろう。そう思う。新しい人間関係を紡ぐというのも、たとえば歌が上手いとか、速く走れるとかと同じように、向き不向きがあると知った。

 知ってしまうと、気持ちが萎えた。才能がない事柄に情熱を傾けられるのは、せいぜい三十代半ばまでだ。それからは、ありのままの自分を受け入れるようになった。もともと一人でいるのが苦痛じゃないし、趣味といえば、仲間のいらない読書や釣りだったから、不自由は感じなかった。開き直ってみれば、かえって道幅が広くなったような余裕も生まれた。


 ところが、今夜の寂寥感はなんだ。

 今夜のさびしさは、孝太郎をしっかりと鷲掴みして、戻れない暗闇に引きずりこんでいくような凄さがある。

 

 梅ばあさんの惚けた横顔が、蘇った。そして、その傍らで、一人遊びを続けた自分の姿が、道化のごとく滑稽に思える。

 

 まだどこかに酒があったはずだ。

 

 孝太郎は起き上がり、台所へ立った。電気を点け、棚を覗いた。普段飲まない孝太郎の家に、酒は常備されていない。それでも、半分残ったウイスキーのボトルがあった。いつだったか、会社の景品で貰った。半分になるまでも、かなり時間をかけたはずだ。

 迷わず孝太郎はその瓶を取り上げた。それからグラスに氷を用意し、コクコクッと勢いよく煽る。途端に火柱が立つように、酔いが体をめぐっていく。

 更に孝太郎はグラスにウイスキーを注いだ。逃げ出したい気持ちだ。

 三杯目も一気に飲む。四杯目は喉につかえたが、気持ちは落ち着いてきた。

 代わりに、足元が怪しくなった。ずるりと背中がもたれた棚を滑った。しゃがみこむと、体が楽になった。ビニールクロスの床が冷たいが、ひんやりと気持ちよくもある。流しの扉やゴミ箱や、隅に立てかけてある箒とバケツ。そんなものを眺めながら、また煽る。こんな飲み方は初めてだった。

 

 ふいに流しの上の窓を叩く、かすかな音が耳に響いた。

 音の粒は次第に数を増して、やがてサアッという響きに変わった。


「――雨か」


 風が木々を揺らす音がする。裏庭の窓を叩く音も。

 勝手口に近い場所で、聞き慣れない音がした。ガサゴソと、何か者が動く音だ。

 猫だろう。そう思った。弛緩した神経に、物音はぼんやりと響く。

 どうにでもなれと思った。物音が、なんだ。


 だが、人の足音を思わせる粘りのある音が聞こえてきたとき、孝太郎の酔った体に、ザワっと恐怖が走った。

――誰かが、庭にいる。

 そう思っても、意識は朦朧としたまま、気持ちの緊張に体がついていかない。

 まいったな。酔い過ぎた。

 体をひねって、壁の時計を見た。いつのまにか八時になっている。

 

 行動を起こさなければ。こんな時間に他人の家の敷地を歩くのは、泥棒か、そうでなくても不審な人物に違いない。

 警察に通報しなければ。

 腕力にはまったく自信がない。何者かと対峙するのは絶対に無理だ。

 床に手をついて腹ばいになり、そろそろと膝を前へ動かした。スマホをどこへ置いたか懸命に思い出す。

 

 勝手口のドアノブが、ガシャガシャ鳴り出した。磨り硝子が嵌め込まれた勝手口のドア越しに、黒く人の影が見える。

 通報どころじゃない。逃げなくては。

 慌てて立ち上がったが、ふらついて、ふたたび膝をついてしまった。と、背後で硝子が割られる音が響く。

 腹ばいのまま、恐怖で体が硬直し、動かなくなった。喉がひりひりする。声が出ない。

 

 とうとうカチリと、錠が外される音がした。

 もう猶予はない。

 孝太郎は懸命に周りを見回した。室内用の小さな箒と塵取り。プラスチックのゴミ箱と雑巾。床にあるのはその程度だ。日頃から几帳面な孝太郎は、床に物を置かない主義だ。

 棚を見上げても、手が届く範囲に、武器になりそうな物はなかった。包丁もしまわれているし、さっき飲んでいたウイスキーの空便ですら、分別ゴミの箱に捨ててしまった。

 駄目だ、やられる。

 そう思ったとき、ちょうど手の届く位置に、醤油の瓶が見えた。卓上の小さな瓶だ。武器にするにはあまりにも無様だが、無いよりはましだ。

 

 その瓶を引っ掴んだとき、侵入者と鉢合わせになった。黒い覆面を被った男だった。目と鼻と口に穴の開いた、悪役プロレスラーが被るお決まりの覆面だ。

「あわあぁぁあ」

 孝太郎は醤油の瓶を男めがけて投げつけた。狙いも何もない。子どもが親に駄々をこねたときのように、ただ腕を振り回しただけだ。

 ところが、それがうまく命中したらしい。

「ぅうう」

 逃げ出そうとした男が孝太郎にぶつかり、孝太郎は床に倒れた。

 

 誰か、――助けてくれ。

 

 ふいに意識が遠のいていった。

 孝太郎が最後に見たのは、割れた醤油の瓶と、逃げていく侵入者の、醤油で汚れた水色のスニーカーだった。



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