第2話

 卵の黄身を箸で潰して、どろりとしたところをそのまま喉に流し込んだ。味噌と黄身が曖昧に重なって、なんともいいようのない旨味が口の中に広がる。


 孝太郎の好きな味噌汁の飲み方だ。いや、好きだった飲み方と言ったほうが正確だ。

 

 半熟卵を入れた味噌汁など、何年口にしていなかっただろうか。自分で作ろうと思えばすぐに出来るが、一人分の味噌汁というのは、意外に煩わしい。小鍋に湯を沸かすと、つい多めになって余らせてしまう。この余らせるというのが、妙に癪に障るし、惨めな気持ちになる。


 だから、味噌汁は滅多に作らなかった。どうしても飲みたくなったときは、会社の帰りに、コンビニでインスタント味噌汁を買ってくる。浅蜊や豆腐など、味も悪くないと思っていた。むしろこうして今すすっている汁よりも、出汁も味噌もうまく出ている。

 といって、もし、卵入りの味噌汁が売っていても、自分は買わないと思う。味噌汁に卵を入れて飲むというのは、ありきたりな日常の、華やぎのない、けれど穏やかで堅実な生活とともにあるもので、家族のために作られた夕食の残りといっしょに朝の食卓に並んでこそ、おいしく感じるのではないか。

 

 一人で暮らすようになってから、知らず知らず、こんなつまらない小さなこだわりを、自分の中に積み重ねてきた。そんなこだわりは、いつしか、なくてはならない心の支えになっていたのかもしれない。


 卵を飲み下し、ご飯を口に運ぶと、孝太郎は味噌汁の入った椀を置いた。それから、茄子の漬物に箸を伸ばす。すると、婆さんも続いて茄子の小片をつまみあげる。

 味噌汁の湯気の向こうに、婆さんのしわくちゃの顔があった。奇妙なほど落ち着きはらった態度で他人の家の台所へ入り込み、鍋はここだったか、米はここかとぶつぶつ言いながら支度をしていたときに比べると、人が変わったようにおとなしくなっている。

 といっても、途中から、この図々しい婆さんに付き合うのも悪くないと思い始め、ほとんどの支度をしたのは孝太郎のほうだった。たまには誰かといっしょに朝食を摂るのもいいじゃないか。ふとそんな気になったのだ。

 その相手が、突然現れた、しかも高齢の老婆である事実に、孝太郎は苦笑してしまう。人が見たら、さぞ笑うだろう。うらぶれた独身男が、老い先短そうな老人に押しかけられて、いっしょに仲良く味噌汁をすすっている。


「おばあさんの、おばあさんの家はこの近くなんでしょ」

 思いついて、孝太郎は尋ねた。迷子の子どもを預かったような気持ちになっている。

「息子さん夫婦とでもいっしょに暮らしているのかな」

 婆さんの返事はなかった。ただくちゃくちゃとご飯を噛んでいる。

 その表情に、孝太郎には思い出す人がいた。父方の祖母が、もう三十年以上前に亡くなった人だが、今、目の前にいる婆さんと同じ表情をしていたのだ。昭和はじめ生まれのその祖母は、丈夫な人だったが、最期には惚けた。ぼんやりした表情で、亡くなる前の二、三年を過ごしていた記憶がある。


 そうか、そうなのか。


 孝太郎は合点がいった。この婆さんが昨日雨の中でこの家を覗き込んでいたこと。  

 今朝、勝手に庭に入り込んで、梅を拾っていたこと。

 

 食事が終わったら、近所の人に尋ねてみよう。そして、ちゃんと家まで送り届けてやらなくてはならない。

 面倒でもなんでもなかった。そう遠くから来たとは思えない。しかも、今日は日曜日だ。この旨い味噌汁のお礼と思えばなんでもない。

 

 居間の壁に掛かった時計が、十時のチャイムを鳴らした。

 ボーン、ボーンと、今どき古臭い音だ。

 婆さんは、それが合図であったかのようにゆっくりと立ち上がった。


「おばあさん、帰るの?」

 まだ食事は終わっていなかった。孝太郎はもちろん、婆さんも白いご飯が茶碗に半分ほど残っている。

「ちょっと待って。送っていきましょう」

 振り返らない婆さんに、孝太郎は仕方なく腰を上げた。

 来たときと同じように、婆さんは庭へ出て行く。どうやら玄関から出て行くというのは、頭から抜け落ちているようだ。

 庭用のスリッパで表を歩くのは気がひけるから、孝太郎は玄関に回って靴を履いた。ちょっとぐらい遅れたところで、老人を見失うわけがない。

 ところが靴を履き終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。

「すみません、宅急便なんですけど」

 こんなときに仕様がないな。

 荷物を受け取り、表に飛び出してみると、もう、婆さんの姿はなかった。

 

 静かな住宅街に人通りはなく、蝉の声だけが響いている。



 梅婆さん。

 孝太郎は日曜のたびにやって来る婆さんを、いつしかそう呼ぶようになっていた。

 

 梅というのは本名じゃない。名前がないのは不便だから、梅の木の下で出会ったのを記念して、孝太郎が勝手にそう呼んでいるだけだ。もちろん、婆さんには何度も名前を訊いた。そのたび婆さんは、困ったような迷ったような奇妙な顔つきになった。

 婆さんのそんな顔は見たくない。

 結果、梅婆さんになった。


 決まって日曜日。

 今日で六度目になる。季節も盛夏から初秋に変わった。

 

 毎度、庭でその日の挨拶を交わし、いっしょに朝ご飯を囲んでいる。もう今では、孝太郎が手伝わなくても、鍋や米がどこにあるのかを婆さんはすっかり覚え込み、まるで長年使い慣れた台所のように振舞っている。

 そんな日曜日を、孝太郎はいつから楽しみに感じるようになっただろう。

 

 一人暮らしの老人の家を、子どもや孫が訪ね、老人の気持ちを慰める話はよく聞くが、反対というのはあまり聞かない。しかも、見ず知らずの他人同士であれば尚更だ。

 

 こんなことをしていちゃよくないな。

 

 孝太郎はそう思う。うまく説明できないが、世間一般の常識では、よくないんじゃないか。


 もし相手が婆さんでなく、たとえば二十代の弾むような調子の女の子だったら、誰もが納得し、応援すらしてくれるだろうが、相手が八十過ぎの老人であると知れたら……。

 結果、孝太郎は、こうして見ず知らずの老人と、毎日曜日、朝食を摂ることに、後ろめたさを感じるようになった。その慎ましすぎる静かな時間を心地よく感じることに、年をとるにつれ孤独を好むようになった自分の性癖を見る気がするのだ。

 会社でも趣味の仲間うちでも、このところ、頓に新しい人間関係を嫌い始めている。このまま進めば、そのうち必ず世間とうまく折り合っていけなくなるに違いない。そんな予感が孝太郎の中にある。まして自分には、無償で世間との橋渡しをしてくれる家族はいない。

 


 今日こそは、婆さんの家を突き止めて、家族に話そう。

 

 孝太郎は布団から出て、呟いた。時計を見ると、そろそろ八時になろうとしている。婆さんが来る時間だ。

 洗面所で顔を洗っていると、階下の台所から、このところ馴染みになった物音が響いてきた。ペタペタと短い間隔で歩く音、棚から鍋を取り出す音、蛇口から水が流れる音、米を研ぐ音。婆さんだ。

 急いで顔を洗い終え、孝太郎は階下へ下りた。


「おはようございます」

 いつものように、婆さんの横顔に声をかけた。ちょっぴりはにかんだような笑顔が返ってくる。


 回を重ねるうち、孝太郎には、この婆さんを、なんとなく掴めてきたように思う。鶏肉とメロンが好物であることのみならず、どんな人生を送ってきた人なのか、孝太郎なりに想像できるようになった。


 たとえば、婆さんは無口だ。若い頃から、おしゃべりが苦手だったのではと思える。要件以外はしゃべらない習慣のようだ。朝の挨拶ですら、決まって笑顔だけだ。

 そして婆さんは、よく体を動かす。もちろん老人であるから、緩慢な動きなのは否めないが、動作の中に、体を動かすことを億劫がらない明るさがある。


 おそらくこの人は、人生のほとんどを、黙々と正直に働いてきた人なのではないか。といって、背中は曲がっていないから、嫁ぎ先は農家ではなかったのだろう。

 そんな想像をしながら、孝太郎は昨日買ったマスクメロンを冷蔵庫の中から取り出した。今日で最後になるかもしれないと、種類があるうちから、値の張るほうを買ってきた。切ってみると、身がしまっているし、いい香りだ。


 皿によそって、テーブルに並べた。そろそろご飯が炊ける時間だ。

 炊飯器は、母が生きていた頃から使っているせいか、故障がちで、炊き上がっても電気音は鳴らない。見計らって腰を上げ、婆さんといっしょに給仕をした。婆さんは味噌汁を注ぎ、孝太郎はご飯を盛って、おかずを並べる。

 卵入りの味噌汁は、今日が飲み納めだな。

 味噌汁をすすりながら、孝太郎は思った。

 おそらく同じ鎌倉の住人だろうから、町で婆さんを見かける機会もあるかもしれない。だが、この味噌汁を飲む機会は訪れないだろう。そもそも、この家の外で顔を合わせても、婆さんはこちらの顔を思い出せないだろう。

 

 楽しかったよ。

 

 目の前でくちゃくちゃご飯を噛む婆さんに、孝太郎は胸の中でそっと声をかけた。 

 いっしょに食卓を囲みながら、特別な話をしたわけでもないが、人間の相性というのは、しゃべらなければわからないというもんでもないらしい。

 婆さんもきっと楽しかったはずだ。そう素直に孝太郎には思える。

 

 孝太郎は強引に婆さんの茶碗を下げて、メロンの皿を置いた。いつも婆さんは、食事の途中でふいと帰ってしまう。黙っていたら、せっかく買ったメロンを食べてくれないだろう。

 婆さんはメロンに興味を示した。孝太郎も頬張りながら、

「おいしいでしょう?」

 婆さんは嬉しそうにこっくりと首を縦に振った。こちらの気持ちが通じている笑顔だと、孝太郎には思える。

 

 婆さんは、メロンを、箸で食べた。果肉を上手に箸で切り刻んで、漬物を食べるように一切れずつ口へ運ぶ。

 最後の一切れを頬張ると、婆さんは立ち上がった。孝太郎も急いで立ち上がる。もう、何度も見送っているから、順序はわかっている。婆さんが庭先へ出るのを尻目に、孝太郎は玄関から靴を取ってきた。

 

 婆さんの後から庭へ下り、急いで窓に鍵を掛け、表に出た婆さんを追った。今日は宅配便に邪魔されることもなさそうだ。

 

 このところ涼しくなって、朝夕は過ごし易い。特に今朝は澄んだ青い空が広がって、吹く風もさわやかだ。

 日曜日の朝の、どこかしんとした住宅街を、婆さんは慣れた様子で歩いていく。

 住宅街を抜け、車の往来が激しい通りに出た。

 依然、婆さんは立ち止まらなかった。

 

 思ったより遠くに住んでいるようだ。

 

 もう、優に、十五分は歩いている。孝太郎には気にならない距離だが、老人にとってはどうか。

 婆さんの足取りに疲れは見えなかった。観光客たちの間を上手にすり抜け、悠々と進んでいく。

 

 いつしか、駅前のロータリーにたどり着いた。

 まさか、電車に乗るつもりじゃ。

 と、婆さんは、ロータリーの右手にある通路に入っていった。線路の下をくぐって、駅の向こうへ出る通路だ。

 裏駅側に出ると、婆さんは紀ノ国屋スーパーのほうへ進んだ。迷いはない。ところが、ふと、本屋の前で立ち止まった。


「あらあ、おばあちゃん」

 声を上げたのは、本屋から出てきた初老の女だった。

「今朝も行ってきたの?」

 どうやら、婆さんが毎日曜日出かけるのを知っているようだ。

 孝太郎はそっと婆さんの横へ進み、雑誌を眺めるフリをして、二人の会話に耳をそば立てる。

「元気ねえ。うらやましいわあ」

 よく通る声だ。初老だと思ったが、もっと若いのかもしれない。


「息子さん、元気だった? そう、よかったわねえ。じゃ、また後でね。田舎から葡萄が届いたから、後で届けるわね」


 孝太郎は耳を疑った。


 今、なんと言った? 婆さんに、あのおばさんは、なんと言った?


 息子とは、誰のことだ?


 婆さんが歩き出したので、孝太郎も慌てて雑誌を元に戻し、歩き出した。何か、釈然としない思いに掴まれたままだ。

 スーパーの横を通り過ぎて、婆さんは更に進み、信号から二本目の路地を右に折れた。孝太郎も従う。

 細い道の両側には、それぞれ趣向を凝らした塀が続いていた。婆さんはまったく気づく様子はないから、首筋の肌に後ろに浮かび上がっている、焦げ茶色のシミを認められるほどまで、近づいている。近づいているというよりは、寄り添って歩いているといったほうが正しい。

 

 実を言うと、途中から、婆さんの足取りが危なっかしくて見ていられなくなったのだ。年の割にはしっかりしているのだろうが、どこか、雲の上を歩いているようなもどかしさを感じる。

 やがて右側が、趣きのある竹の塀になった。ずいぶん、長い。大きな屋敷だ。

 その屋敷に、婆さんは吸い込まれていった。表札には、園田とある。そして、その下に、洋一、和子、ゆきえとあり、もう一つ、苗字の違った名前があった。

 江田糸乃。

 

 さて、婆さんの名前はどれだろう。孝太郎は表札の文字を見つめた。

 素直に考えて、戸主は園田洋一だろう。とすると、和子はその妻で、ゆきえというのがその娘か。

 婆さんの年齢を考えると、親が生きているはずがないから、江田糸乃が婆さんの名前だろう。糸乃などという時代がかった名前も、婆さんにふさわしい。

 園田洋一というのは、婆さんの親戚なんだろうな。 

 想像するに、婆さんは年老いて、縁者をみんな亡くしてしまい、甥にでも世話になっているのかもしれない。

 もしかすると、婆さんは、人も羨む楽隠居の身分なのかもしれない。そう思えるほど、目の前の屋敷は裕福そうだった。植えられた松は手入れが行き届いているし、玄関まで敷き詰められた白い玉砂利は輝いている。

 

 さてどうしたものかな。

 

 婆さんの姿が見えなくなると、孝太郎は門扉の陰に身を寄せた。このまま呼び鈴を鳴らして家人を呼び出し、事情を説明するか。

 それとも、このまま帰り、また出直すか。

 そう思ったとき、

「園田さんにご用ですか」

と、背後で声がした。



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