日曜日の客

popurinn

第1話

 鎌倉駅の改札を出ると、待っていたのは夕立だった。太い雨脚が、駅前のロータリーに並んだ車や行き交う観光客たちを、責めるように濡らしている。


「まいったなあ」


 孝太郎は空を見上げて呟いた。留守にしてきた我が家の庭に、洗ったスニーカーが干してある。

 

 四十を越してから、健康のために土曜日には裏山を歩くのが、孝太郎の習慣になっていた。洗って干してきたのはそのとき履く白いスニーカーで、今日は歩いたあとじゃぶじゃぶと洗い、母親が昔やっていたとおり、歯磨き粉で真っ白にしてきた。

 いつもなら家まで散歩がてら歩くところを、傘を持たない孝太郎は、仕方なくタクシー乗り場の長い列に加わった。雨脚がかからないように避けて蛇行した行列は、自動改札機が並んだところまで続いている。


 行列の尻っぽに加わり、孝太郎はぼんやり雨脚を見つめた。まだ日が暮れる時刻ではないのに空はすっかり暗くなって、雨の勢いが弱まる気配がない。

 

 今夜中降るんだろうか。

 

 といって、降られて困ることなど何もなかった。何の予定もない土曜の午後だ。まして孝太郎には、ひどい降りの中を出かけて行ったと、心配してやるような家族はいない。

 

 孝太郎は親から譲り受けた一軒家に一人で暮らしている。もう、十二年になる。一人になるまでは、母といっしょに暮らしていた。その母がなくなってから十二年だ。  

 父親は、孝太郎が高校生のとき他界している。兄弟はいない。

 

 一人で暮らす十二年というと、途方もなく長いように人には思われがちだが、孝太郎は特別さびしいとかやりきれないとか、思った覚えがなかった。もともと静かに一人で過ごすのが好きだったのかもしれない。

 もちろん、付き合った女性の一人や二人はいたが、一緒に暮らそうと思えるほどの相手には巡り会えなかった。そうするうち、一人でいるのが自然になっていったのだろう。そんな孝太郎を、会社の同僚や古い友人は変人扱いするが、自分では特別めずらしい暮らしをしているとは思えななかった。子どもの頃から住み慣れた家に、ただそのまま暮らしているだけだと思う。

 

 今夜は面倒だから、うちにある残り物ですませるか。

 

 タクシーにようやく乗り込み、ひと心地ついてから、孝太郎は夕食の思案をした。冷蔵庫の中身を思い浮かべる。

 気軽にふらりと雨宿りできるような馴染みの店を、孝太郎は持たない。こんなときのために、そんな店があれば便利だと常々思っているのだが、そうそうしっくりくる店は見つからなかった。女の子のいる店は華やかで楽しいが、ときどき、どっちが客かわからないくらい、気を遣わされる。といって、夫婦二人でやっているような店は、地元の知り合いが集まり過ぎて面倒臭い。

 

 降りは激しくなったものの、真夏は観光バスが少ないせいか、タクシーはすんなり若宮大路を抜けてくれた。それから朝比奈方面へ。途中、前を走る車がコンビニの前で止まり若干モタついたものの、あとはスムーズに進んだ。報国寺の手前で左に折れ、辺りが暗くなったかのように古い塀が続く小道を進むと、四つ角が見えてくる。

「ここ、ここでいいよ」

 孝太郎は声を上げた。家はもう少し先だが、いつも三十メートルは手前で降りる。道が細いために、以前乱暴な運転手が、孝太郎の家の門扉を傷つけたからだ。手前で降りておけば、タクシーは悠々方向転換ができる。


 タクシーを降り、孝太郎は雨の中を駆け出した。


 静かだ。

 俯いて水たまりを避けながら走る自分の足音が、夕暮れの雨に染み入っていく。


 門扉の前で、郵便受けに突っ込まれたチラシに目がいった。どうせすぐに捨ててしまうのだから濡れていたって構わないが、うっちゃっておける性分じゃない。雨がシャツの襟元に滲むのを感じながら、郵便受けに腕を伸ばした。


 と、そのとき。


 孝太郎は人の気配を感じて路地の先へ顔を向けた。


 家の前の道は、三軒家が続いたあとに行き止まりとなり、裏山へ続く小道になっている。鎌倉を訪れる観光客も知らない、住宅街のどん詰まりだ。

 そんな場所に、人がたたずんでいる。一見して、この辺りの住民ではないとわかった。この土地に生まれたときから暮らしている孝太郎には、住人と観光客の区別はたやすい。


 小さな婆さんだった。八十は越しているだろうか。ビニール傘をさし、地味な色の服装で、たたずむ姿が雨に滲んでいるように見える。

 近所の誰かが、田舎の母親でも引き取ったのだろう。孝太郎は一瞥しただけで、それ以上は気にかけなかった。スニーカーを思い出したからだ。素早くチラシを抜き取って門をくぐり、庭に駆け込んだ。


 この家の庭は、生前孝太郎の両親が庭いじりが好きだったせいで、なかなか凝った造りになっていた。ほぼ長方形をした庭は、道側が高くなっていて、こんもりとした樹木で覆われている。門扉脇から庭へ入ると、飛び石がししおどしのあるモミジの木の下まで続き、枝先は堂々とした灯篭にかかる。

 そんな庭だが、今ではすっかり雑草がはびこって、昔の風情はない。苔むした庭石を頼りに進んでいくと、足元で白く円い花が可憐な顔をこちらに向けているが、これは母が懸命に抜いていた雑草の一種だろうと思う。

 

 スニーカーを手にして玄関前まで戻ってくると、履いていた革靴は泥まみれになってしまった。それでもスニーカーを救えた思いで満足だ。

と、孝太郎はふたたび背後に人の気配を感じた。

 さっきの婆さんが、門扉の間からこちらを覗いている。


「――なんか、用ですかね」


 降りしきる雨の音にかき消されたのだろう。婆さんから返事はない。

 孝太郎は構わず家の中に入った。

 靴を脱ぎ、ふと気づく。玄関の三和土が濡れた。慌てて洗面所へ行き、雑巾を手に戻ってきた。いつもしっかり干してある雑巾は、気持ちよく雨の雫を吸い込んでくれる。

 ようやくひと心地つき、孝太郎はゆっくり廊下を進んでいった。



 翌日眩しい朝日の中で、孝太郎は目を覚ました。昨日の土砂降りが嘘のような、清々しい朝だ。

 午前八時。部屋の中はすでに日中のように蒸し暑い。


 孝太郎は起き上がり、大きく伸びをすると、窓際に立った。

 立て付けがよくない窓をいつもの要領で開けた。ギスギシュッと、嫌な音がする。その窓に、古い梅の枝が伸びてきている。


 そういえば、この季節になると。

 梅の枝を向こうへ押しやりながら、孝太郎は懐かしい思いに囚われた。

――今年は案外大きいのが取れたよ。

 生前の母の声だ。毎年今頃になると、梅酒を作るために、母は庭に落ちた梅を拾っていた。

 孝太郎は酒が強いほうではないが、この母の造った梅酒だけは何杯も飲めた。甘さがちょうど良く、市販のものよりもアルコール度が弱いせいだったかもしれない。

――孝ちゃんがそんなに喜ぶんなら、スーパーで梅を買ってきて、もっとたくさん作ったっていいんだけどね。

――そうしてくれよ。何杯あったって困らないんだからさ。

――でもね、やっぱり、だめよ。梅が違うとうまくできないから。

 

 梅が違う。よく母はそう言った。家の梅が特別だという話は、母以外に誰からも聞いた覚えはないし、見た目も、隣近所にある梅の木と変わりがあるようには思えなかったが。

――おふくろがそう言うなら、そうなんだろう。

 素直に同意していたものだ。いや、本当はどっちでもよかったのだろう。梅酒を飲むということは、そこに母がいたということで、氷を入れたグラスに梅酒を注いで口に運ぶとき、夏のはじめに庭に落ちた梅を拾う母の姿や、交わした会話もいっしょに飲み込んでいたのかもしれない。穏やかで満ち足りた暮らしを、いっしょに飲んでいたのだろう。

 

 こんな気持ちを人に言ったら、また変人扱いをされるに決まっている。わかっているから、口にしたことはない。四十を過ぎて独身でいる男が、死んだ母親の思い出を大切にしているというのは、それだけで世間は奇妙なことのように思う。

「コーヒーでも飲むか」

 独りごちて、孝太郎は窓を離れた。普段はインスタントコーヒーを飲んでいるが、日曜日は豆を挽いて特別な味を楽しむことにしている。


 と、そのときだった。庭から歌うような声が流れてきた。



「ひい、ふう、みい」

 孝太郎はふたたび窓に体を寄せた。

 声は軒下から聞こえてくる。

 誰かが庭にいるらしい。

 目を凝らして、梅の枝の隙間を探った。人影がある。緩慢な動きだ。


「まだまだだ。もうちょっとあるといいんだけれど」

 見知らぬ声は、そう言っている。

 怒鳴り声を上げようとして、ふと孝太郎は息をのんだ。見知らぬ声が、生前の母の呟きに重なったのだ。梅を拾いながら、母はよくああして梅の数を数え、数が少ないとこぼしていた。


 まさか。


 孝太郎は我も知らず体を硬くした。


 母のはずがない。母は十二年前に他界している。

 そうだ。母のはずがない。瞬間、子どもじみた空想に憑かれた自分がおかしかった。

――では、誰だ。

 階段を駆け下り、庭用のスリッパを引っかけ、庭に足を下ろした。地面に昨日の雨が残っているせいで、ぬるぬるとして歩き辛い。

 すると、梅の木の下だった。小柄な婆さんがしゃがみこんでいる。


――この婆さんは、昨日の。


 孝太郎に気づいた婆さんは、瞬間驚いたように目を瞬かせたが、ぷいと背中を向け、ふたたび腰を折って地面に顔を近づけた。何をしているのか、薄汚れた前掛けの左右のポケットを膨らませている。

 やがて、孝太郎の存在など忘れてしまったかのように、婆さんは俯いたまま声を上げた。


「これは大きいねえ」

 腰を伸ばし、指先を眺めながら呟く。朝日が婆さんの正面からさして、満足に笑った顔を照らしている。


 梅だ。


 そうとわかると、闖入者にぶつけようとした言葉が、喉元から奥へ引っ込んでしまった。

「さああて。これくらいでいい」

 呟きといっしょに、婆さんが踵を返した。大事そうに両手でポケットを押さえ、勝手知ったような足取りで、庭を悠々と横切っていく。


 庭の隅に、植木に水を撒くために用意された蛇口があった。昨日の朝、スニーカーを洗った場所だ。

 婆さんは慣れた様子で、蛇口の前で腰を屈めた。そしてはじめちょろちょろと、やがて勢いよく水を出し、洗い終えると蛇口の横に置いた網の籠に入れていく。茶色の古びた籠は、もうずっと前からそこにあったかのように、雑草の中にしっくりおさまっている。


 あんなふうに梅を洗ったもんだったな。

 孝太郎は婆さんを咎めるのを忘れ、その姿に見入ってしまった。梅が入れられた籠と同じように、婆さんも風景の中に溶け込んでいる。

「さあ、これでよし、と」

 梅を洗い終えた婆さんは、腰に手を当て伸びをした。それから手早く前掛けで両手を拭き、意外としっかりとした動作で籠を拾い上げた。

 蛇口のすぐ脇に、庭石がある。人がひとり座るのにちょうどいい大きさと円さの石で、孝太郎もときどきそこで足を投げ出す。磨いたようにつるりとしているのは、人に座られて苔むす暇がなかったからだろう。


 婆さんはその石の上に、ちょこんと腰を下ろした。籠を膝の上に置いて、また手際良く前掛けで梅を拭いていく。

 知らず知らず、孝太郎は拭かれていく梅の数を数えていた。三十は優にある。

 

今年はいい出来じゃないか。

 

 ふと孝太郎はそう思った。といって、去年も一昨年も、梅など拾ったわけではない。母が亡くなってからというもの、庭に梅の実が落ちたかどうかさえ、気づかずに夏を迎えていた。

 婆さんがふと顔を上げて、訝しそうに孝太郎を見た。

 と、婆さんが、声を上げた。

「――なんですって? 何か言いましたか」

「朝ごはんは済ませたかと、訊いたんですよ」

 そういえば空腹だったと、孝太郎は思い当たった。言葉に詰まった孝太郎に、婆さんの声がかぶった。


「まだ食べてないんだね」

 どっこいしょと婆さんは立ち上がると、梅の入った籠を抱えて、まっすぐこちらへ向かってきた。

――どうするつもりだ?

 声をかける間もなく、婆さんはあっさりと孝太郎の前を通り過ぎた。そして当たり前のように、家の中へ入っていく。



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