願い
「ほら、パパを起こしてきて」
「はーい」
仕事の帰りが遅く、せっかく寝付いた子供を起こしてしまうからと妻、子供たちと俺は別々の寝室で寝ている。休日の朝、少し前に目が覚めていたものの、妻と子どもたちのそんな会話が聞こえてきたので、狸寝入りを決め込んだ。鼻腔をくすぐるのは微かに漂ってくるコーヒーの香り、朝食の準備ができたのだろう。そしてすぐにドタバタと近づく二つの足音が枕から伝わってくる。
「パパ、もう朝だよー」
「だよー」
ついこの前まではまだ赤ん坊だったのに、随分とおしゃべりになった長女と、まだ舌っ足らずで姉の言葉尻だけを真似する次女が勢いよく扉を開けて、俺に飛び込んでくる。
「ご飯たべよう」
「たべよー」
「おはよう。二人とも朝から元気だな」
満面の笑みで起こしに来た二人の子供たち。ご飯だと言っているのに布団に潜り込んで抱き着いてくる。じんわりと広がっていく暖かな子供の体温。子どもの頃に与えられてきた幸せとは違う、自分で積み上げてきた幸せがそこにはあった。
そう、あの日までは。
あれはまさに青天の霹靂だった。この世界中の負の感情が一気に押し寄せてきたのではないかという錯覚に陥るほどの衝撃は突如として俺の平穏を壊した。知らない番号からの着信。電話の向こうの声が伝えたのは、妻と子どもたちが交通事故に遭って病院に搬送されたというものだった。
妻が庇ったおかげで子どもたちはほぼ無傷だったが、打ち所が悪かった妻は外傷がほとんどないのに意識不明。名前を呼び続けても妻が目を覚ますことはなかった。あの日の記憶は曖昧で、どうやって病院から子どもたちを連れ帰ったのかも覚えていない。気がついた時には眠る子供たちの顔を見ながら、どうしようもない無力感と悲しみで一人声を出さずに泣いていた。
一晩中泣いて、泣いて、泣いて。朝日がカーテンの隙間から差し込んできて。
並んで眠る我が子二人の顔を見つめて俺は決めた。妻の目が覚めるまで、妻の分まで精一杯我が子たちを愛そうと。
どちらかといえば仕事人間だった俺は会社に事情を話して残業の少ない部署に変えてもらい、勤務体系も特殊なものに変更してもらった。急な部署異動や社内の体制変更で当時の上司はじめ同僚や後輩たくさんの人に迷惑を掛けた。
それでも一人では手が回らないところ、特に幼稚園のお迎えは近くに住む妻の姉家族にかなりお世話になっている。
寝る間を惜しんで家事に、育児に、仕事に精いっぱい努力してきた。全ては妻がいつか目が覚めると信じて。俺がどれだけ頑張っても子供たちには寂しい思いをさせてしまう。だからこそ敢えておどけてどんな時も笑顔を絶やさないようにやってきた。
妻がいない生活に慣れたとは言えないが、子供たちもそれぞれに順応しようと頑張っている。長女はよく「ママに早く会いたい」と言い、次女は「ママが戻ってきたらおもちゃを見せるの」と話す。その無邪気さに救われることもあれば、胸が痛むこともある。
「パパなんでお仕事の服着てるの?」
「今日はパパお仕事になっちゃったんだ。お昼には帰ってこられるからそれまで叔母さんの家でいい子にしてるんだよ」
「えー、今日ママに会えないの?」
「なんでなんで?」
「ママにはお仕事終わったら会いに行こう。ほら二人とも準備して」
毎週土曜日は午前中から妻が入院している病院へ子供たちと行っているのだが、同僚の穴埋めで今日は急遽出勤になってしまった。ぐずる子供たちを義姉の家に預け仕事へ向かう。寂しい思いをさせないように、なんて息巻いていても、この一年で子どもたちにどれほど辛い思いをさせただろうか。
次女はまだ小さいため、何度も母親のいない現実を受け入れようとしながらも、毎晩のように「ママは?」と尋ねる。長女はもっと理解している分、静かに涙をこぼすことが多く、そんな二人の姿に胸が締め付けられる。
仕事に向かう道中、いつもとは違う土曜日で人が少ない通勤電車。少しだけ物悲しい気持ちになってしまい、その悲しさがどうしようもないやるせない気持ちになっていく。
本当に妻は目覚めるのか。父親として俺はちゃんとやれているのか。会社のお荷物になっていないのか。本当に子供たちを妻の分まで愛せているのか。ママに会いたい、そうぐずる子供たちを、どうしようもない自分の無力さを棚に上げて、醜い感情が沸き起こることもある。俺は本当に子供たちを愛しているのか。
全てを投げ出したらどれだけ楽になるだろう。そう思うたびにスマホの待ち受けにしている妻と子供二人の笑顔にハッとさせられる。
取り繕った笑顔を張り付けて業務をこなし、そのまますぐに子どもたちを迎えに行く予定だったのを変更して一人病院へ向かうことにした。情けない俺に喝を入れてもらいたくて、あの笑顔の残滓を少しでも感じたくて。
しかし予想外なことに病室には子どもたちと姪っ子、そしてその友人たちがいた。どうやら先日隣人と話していた嗅覚と脳の繋がりについてのことで、娘たちが姪っ子に頼んで妻の記憶に残る香りを探したらしい。
ラベンダー。子どもたちが投げ捨ててしまったラベンダーを親切な方が拾い集めてくれたものが私の手にある。柄にもなく花畑でのプロポーズなんてしたのは若気の至りだ。それを姪っ子に妻が話していたと思うと、少しだけ気恥ずかしい思いがこみ上げてくる。
だが、そんなことで照れている場合ではない。今は父親としての自分の出番だ。
「ごめんな寂しい思いをさせて」
私に気が付いた娘たちが抱きついてきた。小さな花束を妻の枕元に置き、右手で長女を、左手で次女を抱き上げ、強く強く抱きしめた。
開け放たれた窓のカーテンが大きく揺れた。なるほど、あそこからラベンダーを投げ捨てたのか。迷信に近いようなそんな奇跡に縋るほど、娘たちは母親を求めている。そんな今の状況が情けなくて、辛くて、悲しくて。
ユカリ、目を覚ましてくれよ。
今まで何百回、何千回、何万回も心の中で強く想ったその願い。俺だけじゃないはずだ。お前の両親や姉妹、友人、そして子供たちだって。
「パパ苦しいよ」
あまりに強く抱きしめてしまったからか、娘たちからの非難の声にはっとする。そっと二人を下ろすとほぼ同時に、ふわっと温かな風が窓から吹き込んだ。その風で芳醇な香りが病室に舞う。その香りの発生源である小さな花束へと目をやった俺は、その光景ですぐに視界が涙でゆがんだ。
「ユカリ!」
崩れ落ちるように妻に抱き着いた俺の行動に驚いた娘たちも妻に駆け寄る。この一年ずっと閉じられていたその瞳がゆっくりと開いていく。どれだけこの瞳に見つめられることを願っていただろう。
「懐かしい」
かすれた声で彼女が言葉を発した。
「あの花畑で、あなたに思わず抱きついたときと同じ匂いがしたの」
未だ定まらないその視線はやがて俺のことをとらえた。そして子供たちを見ると俺が願い続けてきた優しい笑みを浮かべる。
「お寝坊なママでごめんね」
ポイ捨てが嫌いな男 広川朔二 @sakuji_h
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