一応のまとめ

何度も繰り返してきましたが、僕のここまでの考えは、「「落書きⅢ」での書き方で言えば、「知覚し記憶したものと、新たに知覚したものを照らし合わせる、その新たに知覚したものもまた記憶されて、という絶え間ない継続の上に意識が現れていると思います。」ということになります。」。また、「落書きⅡ」で書いたように「継続しているということ。一度でも途切れたら、僕はいなくなってしまう気がしています。」というものです。


いま、僕はノートパソコンのディスプレイを視ていますが、或る瞬間の視界の景色と次の瞬間の視界の景色は異なっています。僕の頭部や眼球は、三脚上のビデオ・カメラのようには固定されていないからです。景色の方が変化していることもあると思います。


或る瞬間の視界の景色の記憶と、次の瞬間の視界の景色の記憶にはズレがあるのです。


また、実際には、人間は同時に色々なものを知覚していることも重要です。


この「同時に」については、僕は、本当は同時ではないのかも知れないという気もしています。


目の前の景色について、「知覚し記憶したものと、新たに知覚したものを照らし合わせる、その新たに知覚したものもまた記憶され」た後、大昔に見た似た景色の記憶を知覚(擬知覚?)した後、自身の胃の辺りの動きについて、「知覚し記憶したものと、新たに知覚したものを照らし合わせる、その新たに知覚したものもまた記憶され」る、という風なことが、超高速で繋がり続いているので、それらを「同時に」知覚していると感じているのかも知れないとも思います。


このように色々なことが「超高速に」行われているのか、本当に「同時に」行われているのかは、予想できる感じがありません。


………………。


ここまで執筆してきて、ちょっと、くたびれてきた感じもあります。


この頁で、この文書(僕も自意識の始まりについて考えてみた)は一応の終わりとしたいと思います。


お付き合いくださり、有難うございました。

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僕も自意識の始まりについて考えてみた 森下 巻々 @kankan740

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