13

「晴れてて良かったー」

 恭祐は枕元にあるスマホのアラームを止め、カーテンを開けると気持ちいいくらいの快晴が広がっていた。

 今日で佐々木恭祐は消えてなくなる。腕時計を見ると数字は0になっていた。残された時間はこの針が一周するまで。

「最終日にふさわしいな」

 自然光の入る部屋を見回す。飾られたアニメキャラも今日で見納めかと思うと名残惜しかった。キャラクターひとりひとりに挨拶をし、部屋を出る。

 リビングに向かうと、調理中の母が「おはよう」とキッチンから挨拶をした。テレビを見ていた父も母の声に気付き、恭祐に挨拶をした。

「おはよう」

 これが最後だと思うと、込み上げるものがあった。

「今、作っちゃうわね」と母が忙しなく料理を作る。それまでの間、父と一緒に朝の情報番組を見ていた。エンタメコーナーでは来週公開の映画の宣伝をしていた。トレンドコーナーでは明日オープンする大手アパレルメーカーの新店舗の紹介をしていた。星座占いは六位だった。どれも普通の日常だったが、明日のない人間にはどれも見ていて辛かった。

「はい、朝ごはん」

 恭祐と父の前に出されたのは、白米、味噌汁、焼き魚という佐々木家では定番の朝食だった。当然ながら、この朝食も最後なのだ。

 母は最後に自分の朝食を運ぶと、椅子に座り家族三人でテーブルを囲んだ。いただきます、と手を合わせてから、震える手でご飯を口に運ぶ。

「すっごく、おいしい」

 恭祐はゆっくりと噛み締めた。忘れないように、味も光景も焼き付けた。

「何? いつもと同じだけど。普段そんなこと言わないじゃない」

 母に不審がられても無理はない。でも、どうしても伝えたかった。

「俺、二人の子供で本当に幸せだよ」

 突然のことに母も父も驚いていたが、母は「私も恭祐が私たちの子供で本当に良かったと思ってる」と言い、父も「俺もだよ。俺たちの元へ来てくれてありがとう」と言った。自分から言い出したことにも関わらず、両親の言葉に泣いた。それを見た両親は心配したが、母は「ありがとね」と恭祐の頭を撫でた。

「恭祐、今日の夜ご飯何がいい?」

「え?」

「何でもいいよ。恭祐の好きなので」

 母の微笑みに涙が溜まる。視界は下にいくにつれて歪んだ。

「カレー」

 恭祐はぼそっと答える。

 母のカレーは他では食べられない唯一無二の味だった。レシピは知らないが、ひと手間もふた手間もかかっている味だった。恭祐が幼い頃に聞いた時は、トマトと味噌を使い、ルーは二つのメーカーをブレンドしていると言っていた。幼い頃からずっと母のカレーが一番だった。

「カレー? うん、わかった」

 母は嬉しそうに笑った。優しさと温もりにまた恭祐の涙は止まらなくなった。

「カレー作っておくね」

 今晩、恭祐のいない食卓にカレーが並ぶのだ。



*   *



 三人で集まる七日目。三人ともどこか落ち着きがない様子だった。いつものように「何するか?」と宏太が切り出すと、恭祐が手を上げ「俺に付き合って欲しい」と言った。

 宏太と凌汰は驚いたのか、固まっていたが、凌汰が「いいよ」と微笑み、宏太は「俺も」と続いた。

 恭祐はありがとうと微笑むと、スマホを手に持ち、天高く突き上げた。画面に映し出された恭祐たちの姿は眩しそうに目を細めていた。沢山写真を撮った。フォトスポットでもない、何でもない日常を沢山切り取った。動画も沢山撮った。飲み物を飲んでいる姿、話の途中から撮り始めたもの、無言で明後日の方向を見ているもの。こちらも動画を意識したものではなく、断片的に切り取られたような撮り方だった。

 恭祐は必死に写真を撮った。自分の存在を証明しているようだった。

三人のカメラロールには沢山の写真が保存され、お互いに共有し合った。タイミングが悪く目を瞑っている写真を見つけては、見せ合い笑った。だが、そのような写真も消さずに残しておいた。全て恭祐たちの思い出だった。

 恭祐は二人を連れてアニメグッズお店に向かった。宏太と凌汰は、商品の多さやジャンルの幅広さに驚き、辺りを見回していた。

 久しぶりに踏みしめる店内。この景色がひどく昔のように思え、懐かしくなった。

 恭祐は買い物かごを手に取り、店内をくまなく歩く。流れるように歩き、吸い込まれるようにかごへ入れていく姿に、後ろを歩く宏太と凌汰から声がした。

「恭祐、ちょっと買いすぎだろ」

「佐々木くん、もうかごいっぱいだけど?」

 かごを見ずに商品を入れていた恭祐は、凌汰の声でかごに目を向けた。

「あ」

 まだ店内を半分も歩いていないにも関わらず、かごはその容量を超えていた。

「いつもこんなに買ってるの?」

 凌汰の言葉に恭祐は「今日だけ」と返した。

 周りのお客さんからは好奇な目で見られ、明らかに普通の人とは見られていなかった。そんな状況でも恭祐は良かった。例え、変な客としてでも誰かの記憶に爪痕は残せるのではないかと思った。

 恭祐は、宏太と凌汰にどや顔を向ける。

「ふたりともまだまだ甘いね。かごは足らなくなったら足せばいいんだよ」

 恭祐は、持っていたかごを宏太に強制的に渡し、新しいかごを手にした。

「お前、まだ買うつもりか?」

「もちろん」

 宏太の引きつった声は恭祐の明るい声に跳ね返され、再び、新しいかごにグッズが吸い込まれていった。

「そうだ、佐々木くんは衝動買いが激しいんだった」

 凌汰は後ろでぼそっと呟いた。

 宏太は持っているかごの中を覗いた。クリアファイルやフィギュアなどのグッズで埋め尽くされている。

 店内はキャラクターをモチーフにした幅広いジャンルのグッズに、それを保護する商品までもが売られていた。その中でも、やはり漫画やアニメDVDが店内の大半を占めていた。

 恭祐は、漫画などの書籍関係やDVD関連は一切触れず、素通りしていく。

「恭祐、こんなに買ってるのに漫画とかDVDは買わないんだな、なんか意外」

 宏太の声に恭祐は振り向いて「うん」と答えた。買っても読めないから。そんな言葉は飲み込んだ。

 両手に荷物を抱え、店を出る。

「やっぱり買いすぎだよ」

 凌汰は、そんな恭祐の姿を見て笑った。

 日は傾き始め、昼とも夕方とも言えない空だった。時間は午後三時半を過ぎたところで、冬の空は早いと感じた。

 空の奥の方が赤く染まり、ビル群がくっきりとシルエットを作る。白く映る三日月はまだ青空の元にいた。まるで夜に染まる空から逃げているようだった。

 青空も夕暮れも月も、一緒に見られることは二度とない。恭祐は衝動に駆られ、荷物を下に置きスマホを向けた。宏太と凌汰もスマホが向けられた先を見つめる。

「綺麗だね」

 凌汰は透き通るような声だった。

 恭祐のカメラロールに保存された写真は、切り取ったかのように鮮明だった。

 恭祐は夕日を見る二人の背中をおさめた。この二人が生き続けてくれたら。恭祐は夕日に照らされた二人のシルエットを見ていた。



*   * 



「おおー、いらっしゃい! また来たな!」

 最後に選んだのは『great』。すっかり日が落ちた外からは、煌々と光り活気づく店内が別世界のように見えた。

 いつものように左から凌汰、恭祐、宏太とカウンター席へ座った。

 メニューを手に取り、どれを注文しようか選んでいると「これ食べてみて」と厨房から手が伸びてきた。牛乳瓶のように細長く深さのあるガラス瓶に黄色いデザートが入っていた。

「これは?」

 凌汰が瓶を手に取り、あらゆる方向から観察する。

「新メニューにしようと思って。かぼちゃプリン」

 自信があるのか、店長はどや顔を見せた。開発段階のメニューの試食は、恭祐たちにとって当たり前になっていた。

「デザートか。珍しい」

 宏太は真っ先にスプーンを入れ、頬張った。

「でも、なんでかぼちゃ?」

 恭祐が聞いた。

「最近仲良くなったかぼちゃ農家さんがいて、安く大量にかぼちゃが仕入れられるようになったんだけど、かぼちゃ使うメニューが少ないなと思って必死に考えてんの。この前かぼちゃラーメンも新しく出したんだけど、お客さんからは〝ほうとう食べてるみたいだ〟って言われちゃってさ。まあ、そのメニューは、ほうとうに変えちゃったけどね」

 店長が言うと、恭祐は閉じたメニューを開いた。

「本当だ。ほうとうがある」

 そこには数あるラーメンの中にひとつだけほうとうが載っていた。

「でも、俺の中ではほうとうって真冬のイメージがあってさ。で、そういえばデザート少ないなと思って、今回挑戦してみました」

「店長、これめっちゃ美味い」

 店長が一通り説明している間に宏太はペロリと平らげていた。店長は宏太の食べっぷりを見て「よっしゃー」と喜んでいた。

 恭祐も一口食べると「美味しい」と思わず口にした。

「凌汰、どうだ?」

 凌汰が口にするのを、店長は食い入るように見つめた。

「すごく美味しい。味は申し分ないけど、見た目が少し物足りないかもしれない」

 凌汰が感想を言うと、店長は盲点だったかのように「見た目か」と呟いた。

「ミントなりフルーツソースなりの彩りが欲しいかも。お好みでかけるのでもいいし」

 凌汰の言葉に宏太も賛同した。「ステーキでタレが選べるみたいな」という宏太の発言に凌汰はぎこちなく「そんな感じ」と答えた。店長はなるほどと頷く。

「じゃあ、俺からも」

 恭祐は控えめに手を上げ、みんなの視線を集めた。

「俺は、もうちょっと少なくてもいいかなって思った。今は何も食べてないから丁度良かったけど、食後だと多いって思う人もいるかもしれないし。あとは普通のプリンよりも味が強いから飽きちゃう人もいるかもしれないって思った」

 恭祐の言葉に「確かに少し多いか」と店長がガラス瓶をしみじみ見た。

 恭祐は「だから」と続ける。

「三種類くらいのデザートをひとつのプレートにするのはどうかなって。そのうちの一つとして、かぼちゃプリンを使うの。さっぱりするものと一緒に載せたらもっと食べやすくなるかも」

「私もそう思います」

 テーブル卓へラーメンを運び終えた鈴が会話に参加した。

「やっぱ鈴もそう思うのか?」

 店長はいろんな改善点が出る度にどこか嬉しそうだった。

「私は、クリームとか使った重いデザートがそんなに得意じゃないから、さっぱりしたものと一緒だと食べやすいかも」

「さっぱりって何だよ」という店長の言葉に、鈴は「フルーツゼリーとか?」と話を振るように恭祐を見た。恭祐もそれに合わせるように「ゼリーとか」と続く。店長は「ゼリーか」と溜息交じりに言った。

「デザートって難しいんだな」

 店長の雑にまとめた言葉に「ラーメンだって難しいでしょ」と宏太が突っ込みを入れた。凌汰が「もうサラダに混ぜちゃいましょ」と投げやりに言うと、「それ頂くわ!」と目をキラキラさせた。

「ごめんな、最初にデザート食わせて。何が食べたい?」

 店長がオーダーを取る。恭祐たちはメニューを開き、悩んだ。

 最終日、何が食べたいか。恭祐の頭に今朝の母親が浮かぶ。

『カレー作っておくね』

 母の言葉が忘れられなかった。目に浮かぶ涙を息を深く吸い、持ち堪えた。頭の中から振り払って、恭祐は「生ハムラーメン」と注文した。それにつられるように二人も生ハムラーメンを注文した。その様子を見て店長は「わざわざ合わせなくていいんだぞ。どこまで仲良しなんだ」と呆れ気味だった。

 手早い作業であっという間に三つのラーメンが恭祐たちの前に並んだ。辺りを見回すと他にも生ハムラーメンを食べている人を何人も見つけた。目の前に輝くラーメンは俺の友達の案だぞ、と誇らしかった。

 食感、味、温度。口に入るもの全てを記憶するように味わった。忘れないように、三人で食べた思い出をいつまでも残しておきたかった。そう思ったら、全てを無駄にできなかった。麺ひとつ残さず、スープも飲み干した。

「スープまで飲んだのか!」

 二人の丼を見るとスープは残っていて、恭祐だけが飲み干していた。店長は嬉しそうな半面、「あんま飲み過ぎると健康に悪いぞ」と心配もされた。恭祐はその言葉に微笑むしか出来なかった。

 それからは、くだらない話で盛り上がった。内容は薄く、どうでもいい話ばかりだった。しかし、その笑い合えた時間は恭祐にとって宝物でかけがえのないものだった。宏太も凌汰もそれは同じだった。

 顔が痛いくらいに笑った。お腹がつりそうなくらい笑った。

 辛いよりも悲しいよりも、楽しいが勝てばいい。楽しいを増やせば、辛いことも悲しいことも0に近づく。それを信じて貫いた一週間だった。

「はい。これいつもの割引券です」

 鈴が慣れたように三人に渡す。誰も受け取ろうとせず、鈴は三枚まとめて宏太に強制的に渡した。

「これって毎回渡すんだな」

 宏太は渡された券を見て言った。

「当り前じゃないですか。また来て欲しいし」

 鈴は少し不思議そうな顔をして宏太を見た。

「ありがとな! また来いよ!」

 店長は、離れた厨房から大声で恭祐たちに声を掛けた。

 三人は、店長を見つめたまま何も言えずに立ち尽くすだけだった。すると、恭祐が二人の前に立ち、「当たり前じゃん! また絶対来るから!」と声を張った。

「お前」

 後ろで呟く宏太を尻目に恭祐は店の外へと出た。顔を上に向け、深く息を吸う。

 宏太と凌汰も後に続き店から出てくると、街灯の下から隼都がこちらへ歩いてきた。

「あ」

 凌汰の声で、恭祐と宏太も隼都に気付いた。

 隼都が来たという事は、三人でいられる時間がもうすぐ終わるという事を意味していた。

「正直、まだ会いたくなかったな」

 宏太は隼都に対して申し訳なさそうに言った。隼都は「すみません」と謝るだけだった。

「場所、少し移動しますか」

 お客さんが絶えず出入りする出入口を見つめ、隼都が言った。三人とも頷くと、先程の盛り上がりが嘘のように無言で歩き始めた。



 近くの公園に寄ることにした。夜の公園に踏み入れる者はおろか近づく人すらいなかった。そんな自分たちだけの空間が今の恭祐たちには丁度良かった。

「最後にハグしてもいい?」

 恭祐は目を潤ませていた。思春期真っ盛りの彼らだが、この言葉を茶化す者などいない。恭祐の言葉に凌汰は優しく頷いた。両手を伸ばし、ハグをする。

「水橋くん、あったかいね」

 恭祐の目には涙が溜まる。

 凌汰は次に宏太ともハグをした。凌汰はこれで自分が最後だと思っている、その様子を恭祐は黙って見ていた。

 隼都は凌汰に「そろそろ」と小さく言った。凌汰は切なそうに微笑むと、恭祐と宏太に顔を向けた。

「この一週間、楽しかったよ。もちろん、その前も。一緒に居てずっと楽しかった。沢山の思い出をありがとう。俺はこの人生、幸せでした」

 凌汰は笑顔だった。笑顔で自分の人生を幸せだと言い切った。恭祐の隣から宏太の泣きじゃくる声が聞こえる。

「凌汰、いつも隣で俺のことを守ってくれてありがとう。俺、頑張るから」

 宏太の泣き声交じりの言葉は、胸に刺さるものがあった。恭祐は下唇を噛んだ。凌汰は目に涙を溜め、力強く頷いた。

 恭祐は泣いている自分を落ち着かせようと、息を大きく吐いた。涙を堪えるように話す。

「俺に居場所をつくってくれてありがとう。三人でいるとこんなに楽しいんだって思えた。……俺のこと忘れないでよ?」

 最後はおどけて言った本心だった。せめて心の中ではずっと三人で居たかった。

 凌汰はふふと笑い「忘れないよ」と言った。宏太も「忘れられるわけねぇだろ」と笑った。

 恭祐は「そうだよねぇ」とふざけて返した。二人からその言葉を聞けて安心した。たとえ、身代わりが皆から忘れ去られる運命だったとしても、恭祐は二人の〝忘れない〟という言葉を信じて疑わないようにした。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 凌汰の言葉に誰も何も言わなかった。ただ、すすり泣く声が響くだけだった。

「じゃあね」

 最後に聞いた凌汰の声が頭の中でこだまする。

 凌汰は隼都と一緒に帰っていく。その後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。



 凌汰と隼都の姿が見えなくなってからも恭祐と宏太はその場所から目を離さなかった。宏太と二人きりになった公園には静けさが広がっていた。

「凌汰に〝またな〟って言わずに別れたの、これで二回目だ」

 宏太は視線をそのまま動かさなかった。

「一回目は?」

 恭祐も真っ直ぐ前を見たままだった。

「海行ったとき。病院で」

「それ、俺も」

 恭祐は、言葉が落ちていくように呟いた。そして、「俺さ」と口を開き、続けた。

「俺、渡邊くんのおかげで笑顔でいられるようになったし、好きなものを好きだと胸張って言っていいんだって思わせてくれた。こんなに毎日が温かくて輝いているものなんだって知ることも出来た。渡邊くんには感謝してる」

「なんだよ、急に」

 宏太はくすぐったそうに言った。

「言うの今しか無いと思って」

 恭祐も宏太を見ていて、くすぐったくなった。

「じゃあ俺からも。いつまで渡邊くんって呼んでんだよ。距離感じるわ」

「え? じゃあ何て呼べば……」

 恭祐が不思議そうに見ていると、「宏太だろ」と照れながら言った。

「宏太か。宏太」

 恭祐は嬉しかった。嬉しさのあまり何回も宏太と口にすると「必要な時だけ呼んでくれ」と注意された。

「あ、ごめん。じゃあ、宏太」

 恭祐はたどたどしく名前で呼んだ。宏太は「ん?」と返事をする。

「俺ともハグしてよ」

「なんだよ、気持ち悪いな」

「いいじゃん。お願い。お願い」

「お前どうした?」

「え?」

 宏太に言われるまで気づかなかった。零れ落ちた涙が腕に付いた。泣いていた。

 その瞬間、宏太に腕を引かれ、気づいた時には腕の中にいた。

「恭祐、ありがとう」

 宏太の言葉は、重く、温かく、恭祐の心の中に染みた。



*   *



 いつもの見慣れた帰り道。その先に明かりのついた我が家。

 ありふれた日常がどれ程までに幸せだったか。今日だけでも何回そう思ったか分からない。

 帰る途中で夜遊びをしている中学生とすれ違った。不良というものに憧れる気持ちも分かるが、そんな彼らのことをお花畑で草花を踏みつけているようなものに思えた。

 家に帰ると家族がいる、これだけでこんなに涙が出るとは思わなかった。泣き顔を見られてはまずい。玄関の前で必死で楽しいことを考え、涙を引かせる。

 玄関を開けるとリビングの奥から「おかえり」と母の声がした。大好きなカレーの匂いがここまで広がっている。幸せに包まれる。恭祐は「ただいま」と返すと、まずは買ったグッズを二階の自分の部屋へ置いて、リビングへと下りた。

「カレーだ」

 テーブルには三人前のカレーの他にもサラダや小さなデザートが並んでいた。

「そうよ。今朝、言ってたでしょ」

 恭祐の思わず零れた言葉に母は笑った。

 恭祐がキッチンで手を洗うと、タオルで髪を拭く父がリビングへと入ってきた。

「お父さん」

 仕事人間だった父がこの時間に家に居るのが珍しかった。

「たまたまな、早く終わったんだよ」

 父は、それだけ言うと冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 時刻は夜の九時半を指していた。家族三人がテーブルを囲み、手を合わせる。

「いただきます」

 口に入れた瞬間、いつもの母のカレーの味が広がった。いろんな具材がルーに溶けた深みのある味だった。

「美味い」

 大好きな味だった。母は嬉しそうに「今日はどうしちゃったの、普段はそんな事言わないのに」と言った。恭祐は、母がこんなに嬉しそうにするなら毎回言っておけば良かったと思った。母の料理は全部が美味いのだから。

 この味で育ってきたと言っても過言ではない。今日に限っては不思議と小さい頃からの記憶が思い出された。幼稚園の発表会の前日や小学校の遠足から帰って来た時の夕飯、中学の部活終わりなど、いろんな場面がカレーに刻まれている。懐かしい光景がカレーの味と共に蘇ってきた。

「恭祐、またリクエストあったら言ってね。そんなすごいものは作れないけど、ある程度のものだったら作れるから」

 母はもう少しで完食しそうな恭祐のお皿を嬉しそうに見つめた。

「俺ばっかりじゃなくて、今度はお父さんのも作ってあげてよ」

 母は少し驚いたように、父と顔を見合わせた。そして、母は微笑んで「そうね、そうする」と答えた。

「恭祐は、何がいいって聞くといつもカレーよね。そんなにカレーが好きなの?」

 母はサラダに手を伸ばした。

「うん。美味いから」

 恭祐は言った。そして、恭祐がカレーを好きなのにはもう一つ理由があった。

「お母さん。もしかして、明日の朝もカレー?」

「そうよ。いつもそうじゃない」

「……楽しみだね」

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