10

 休日を着信音で起こされるという最悪な目覚めを迎えた。

 恭祐は、枕の下に埋もれたスマホを必死に手で探す。耳元を大音量で鳴り響く。バイブの振動がダイレクトに頭へと伝わり、枕の吸収性と吸音性を疑った。結局、体を起こしたほうが早かった。枕をどかすと、真下にあったスマホに『村上 隼都』と表示されている。

 こんな朝早くから何の用だろうと頭に過った瞬間、表示は不在着信へと変わった。今の時刻である午前十一時二十八分が表示され、体感より寝ていたことに驚いた。

 慌てて咳払いをする。少し発声練習をしてから電話を掛け直した。

『もしもし、村上です。』

「もしもし。ごめんね、電話」

『いえいえ! こちらこそ、ごめんなさい! 起こしちゃいました?』

「え?」

『寝てましたよね? 眠そうな声してます。』

 早速バレてしまい、発声練習が全く役に立たずがっかりした。

「うん。そう。さっきまで寝てた。隼都くんの電話で起きたよ。起こしてくれてありがとね」

 電話の奥で『はは、嫌味だなぁ』とケラケラ笑う隼都につられて笑いがこぼれた。

「電話、どうしたの?」

 恭祐が本題へと戻す。

『あ。ちょっと話したいことがあって、直接会えないかなと思って』

「いいけど、大事な話?」

『くだらない話でも誘っていいんですか?』

「もちろんだよ」

『じゃあ、それはまた今度。今回は大事な話です』

 集合場所はメッセージで隼都から送ってくれることになり、恭祐は顔を洗いに洗面所へと向かった。



 メッセージで送られてきたマップを頼りに進むと、大通りを一本入ったところにある白を基調としたお洒落なカフェへと着いた。

 窓から見える店内の雰囲気に圧倒されながら、中へと入っていく。

 店内に入ると奥の方で手を振る隼都の姿が見えた。出迎えてくれた店員はそれに気づき、奥へと引っ込んだ。

 隼都は、恭祐が気付いたのを確認すると細くすらっと伸びた腕を畳み、手元のメニューに視線を落とした。隼都が前髪を耳に掛ける自然な仕草に、女子だったらキュンときてしまうんだろうなと思った。

「何飲みます? 僕、オレンジジュースにします」

 隼都はメニューを恭祐へと向けた。

「随分、可愛いの飲むんだね」

「はい。僕、可愛いんで」

「自分で言うか、それ」

 ドリンクだけでもかなり種類があり迷ったが、結局隼都と同じオレンジジュースにすることにした。隼都に伝えると「冗談キツいっす」と言われたので、隼都に向かっておしぼりを投げた。

 オレンジジュースがテーブルに届くと、男二人がオレンジジュースを飲むという何とも不思議な画が出来上がってしまった。

 隼都のストローからズズズと音が立つ。

「もう飲んだの? 早いね」

 隼都の脅威の速さに恭祐は自分の飲みが止まってしまった。隼都のグラスは水面の急降下に追いつけず、氷がカランと音を立て透明なグラスを回る。

「特技早飲み?」

 恭祐がわざと聞くと、隼都は「恭祐さんが遅いだけです」とあくまで自分は普通だというスタンスを崩さなかった。

「トイレ近くなっちゃうよ」

「そんな心配いらないです。まだ十五なんで」

 年齢を聞いて、そうだったなと恭祐は考えた。情報として十五歳と頭に入っていても、身長や見た目の大人っぽさでいつもそのことを忘れてしまう。何となく同級生か自分より年上に感じてしまう。

「そうだったよね」

「追加で頼んでいいっすか?」

「あ、うん」

 隼都は横に立てかけてあったメニューを広げ、全体をパラパラと見た。

「なんか食べるものも頼んでもいいっすか?」

「え? 俺に聞かなくても頼んでいいよ」

「ほんとですか! 太っ腹ですね!」

「え?」

「え?」

 二人の時間が止まる。

「え? 何で?」

「恭祐さんのおごりでしょ?」

「え? 何で?」

「年上だから」

「割り勘じゃないの?」

「僕がお店決める担当で、恭祐さんが支払い担当」

「そこ分担しないでよ」

 隼都は店員さんを呼び止め、ドリンクの他にパスタやサラダ、スープ、デザートを注文した。

「すごい頼むじゃん! それで生活してない?」

「おかげ様で」

 丁寧に頭を下げる隼都が憎めなかった。それも彼の人柄ゆえなのかと笑った。恭祐は隼都からメニューを奪うとパスタを追加で注文した。

 注文を受けた店員がテーブルを去ると、二人は何も話さず、無言の時間が広がった。店内の優しいBGMと周りの話し声がやけに詳細に耳へと入ってくる。

 最初に隼都のサラダがテーブルへと置かれた。隼都が手を付けようとしないので、待っててくれる律儀なところもあるのだと恭祐は思った。

 次に、隼都のドリンクとスープが運ばれてきた。

「先、食べてていいよ」

 恭祐が言っても隼都は首を横に振って、パスタが来るのを待っていた。

 しばらくして二人の頼んだパスタが運ばれる。恭祐がフォークを手に取り食べようとしても隼都は食べようとしなかった。麺が巻き付いた恭祐のフォークが口の手前で止まる。

「どうしたの?」

 恭祐が聞くと、隼都は気が進まないようにフォークを持ち、麺を巻き始めた。恭祐は口の手前で止まっている麺を口へと運んだ。

「最近、宏太くんに会いました?」

「いや。この前も会えなかった」

「うちによく来るんです」

 恭祐の麺を巻く手が止まった。

「え?」

 恭祐の驚いた声に、隼都の手も止まる。

「よくっていうか毎日。あの日からずっと。凌汰さんと会ってるんです」

「毎日?」

「そう、毎日。僕が口出すことじゃないって分かってるんですけど。宏太くんに降霊をやめさせてほしくて。僕も仕事としてやっているからお金を頂くんですけど、高校生が払い続けるには無理のある額だから」

 隼都はパスタを一口頬張った。グラスの氷が溶けてカランと音を立てる。

「渡邊くん、そんなに払ってるの」

 恭祐が呟いた。

「ええ、だいぶ。高校生の貯金額とは思えません。宏太くん、最近同じ服ばっかり着てるんです。前は違う服も着てたし、同じ服を何着も持っているようには見えなくて」

 隼都は意味もなく、何回もレタスにフォークを突き刺した。恭祐が「食べな」と声を掛けると隼都は刺さっているレタスを口に運んだ。

「売ってお金に変えたってこと?」

 恭祐の言葉に、隼都は首を傾げながら頷いた。肯定とも否定ともとれなかったが、恭祐には思い当たる節があった。

「この前、渡邊くんの家に行ったんだ。結局会えなかったんだけど。渡邊くんの部屋見たら、何にも無かったんだよ。渡邊くんの痕跡がどこにも無かった。」

 あの部屋を見た時には既に、宏太の全ては凌汰との時間に変わっていたんだ。宏太の母の財布を覗く姿が浮かぶ。きっと宏太の資源はもう底をついているんだろう。

 恭祐は続けた。

「その時、一瞬過ったんだ。渡邊くんもあっち側に行っちゃったのかなって。水橋くんと会えたのかなって。そう思ったらちょっと安心しちゃってさ。俺、今、渡邊くんが死んじゃっても悲しんであげられないと思う。もちろん悲しいんだけど、やっと幸せになれるのかなって思っちゃう。不謹慎極まりないんだけど」

 恭祐は引きつった笑顔を浮かべた。隼都は恭祐のことをじっと見つめていた。目の前の料理が熱を失くしていく。

「宏太くんの幸せは、恭祐くんの決める事じゃないです」

 隼都の芯の通った声に、恭祐は「そうだよね、ごめんね」と謝った。

「凌汰くんと降霊できる期間は残り一か月を切りましたけど、宏太くんはもう払えないと思います。残りの期間は凌汰くんと会うんじゃなくて、凌汰くんがいなくても生きていけるようにした方がいいと思います」

 隼都の表情が辛く消えてしまいそうだった。

「僕は人生を壊すためにこの仕事してるんじゃない」

 虚ろな目で小さく呟いた隼都が恭祐の中に強く残った。

 恭祐は後悔した。宏太と隼都を会わせなければ良かったのかと自分を責めた。凌汰にこれほどまでに依存し、宏太や凌汰だけでなく、隼都や宏太の母までも苦しませることになってしまった。

「ごめんなさい」

 恭祐の口から誰に向けられたものか分からない謝罪の言葉が零れ落ちた。凌汰か、宏太か、隼都か、橋本か、凌汰の母や宏太の母なのか。あるいは全員なのか。恭祐も心の整理がつかない中、ただ「ごめんなさい」という言葉が溢れ出てしまう。

 どうすれば良かったのだろう。ただ、宏太に元気になって欲しかっただけだった。どこで間違えてしまったのだろう。変わらない過去ばかりが恭祐の視界を覆っていた。



「聞いてもいい?」

 恭祐はスープをゆっくりと飲み干す隼都に問いかけた。

「はい?」

「どうして降霊師になろうと思ったの?」

 恭祐の質問に隼都はカップを置いた。

「母の存在を証明するためです」

「お母さん?」

 隼都は「厳密に言えば、続けてる理由ですかね」と、降霊師になった経緯を話し始めた。

「僕は母の姿を知らないんです。父や祖母からは〝僕を産んですぐに亡くなった〟って聞いてて。でも、どんな人だったかを聞いても覚えてないって言うんです。すごくショックだったけど、医者からはショック性の記憶喪失だろうって言われてました。忘れちゃったのは、すごく傷ついたからなんだろうな、大好きだったからなんだろうな、って自分に言い聞かせて納得した振りをずっとしてました。僕は小三の頃から霊が視えたり、会話できたりするようになって。祖母が視える人なんで遺伝かなと思ってて。学校では気持ち悪がられて、ずっと一人でした。中一くらいからその能力が強くなって、まともに生活出来なくなりました。今はコントロールできて普通に生活出来てますけど。当時は、霊能力の業界で生きていくしかないんだろうなと思って、家業を継ぐことにしたんです。師匠と呼ばれる人の元で修行して、霊能力者としてやっていくために一通り勉強しました。その時に、降霊で亡くなった人と話せることを知って、捜したんです、母の霊を。でも、見つからなかった。その後に、身代わりっていうものを知るんです」

「身代わり?」

 初めて聞いたその言葉に恭祐は首を傾げた。

「はい。降霊は三カ月で出来なくなり、期間を過ぎると会うことは出来ません。でも、その間に生者がその死者の身代わりを申告できるんです。身代わりのことは生者本人と身代わりの儀式をする霊能力者以外知られてはいけません。一週間だけお互い肉体がある生者の状態で会う事が出来ますが、一週間が過ぎると身代わりになった生者は灰になって消えていきます。そして、皆の記憶からも消えて、最初から存在していなかったことになってしまう。存在がないので、降霊も出来ません。死者は、肉体も戻り、死んでいたのは無かったことになります。最初から死んでいない、変わらず生き続けているという認識を、死者自身も周りの者も持つことになります。これが身代わりです。僕は〝母は身代わりになったんだ〟と思いました。そうすれば、降霊が出来なかった事も、父や祖母の記憶がないことも説明が付きますから」

 隼都はデザートのチーズケーキにゆっくりとフォークをおろした。

「お母さんは誰の身代わりになったの」

「僕です」

 隼都が左腕を捲り上げると、縦に走る一本の傷が現れた。

「僕は小三の時に事故に遭ってるんです。生きているのが奇跡だ、あと数センチずれていたら死んでいたかもしれないと言われました。その時は、なんてラッキーなんだ、なんて思ってたけど、本当はそうじゃない。傍から見たらあの事故は即死でした。母が自分を犠牲にして僕を助けてくれたんです。母は灰になって消えました。本当の僕は小三まで一緒に過ごしていたんです。でも、その記憶が全くない。ずっと取っておきたかった記憶は母と一緒に消えちゃったんです」

「そんな」

「でも、家業を継ごうと思わなかったら、母の事も分からないままでしたから。知れて良かったんだすけど」

 隼都は微笑み、切り分けたケーキを口に運んだ。食べた後の隼都の表情は、美味しそうではなく悲しそうだった。



*    *



 夕方とも夜とも言い難い時間。赤と紫のコントラストがやけに不気味だった。

「はい。これ」

 宏太が慣れた手つきで隼都にお金を渡す。

「うん」

 隼都はそれを受け取るといつものように準備を始めた。宏太は今日も昨日と同じ服装をしている。

「さっきから見て、何?」

「いや、ごめんなさい」

 威圧的な態度の宏太に隼都は委縮した。

 降霊を開始する。凌汰と宏太は、教室の片隅にいるような他愛もない会話を毎日している。

 降霊が終わり、隼都が目を開けると「今どっちだ」と聞いてくるので、隼都は「村上です」と答える。

「今日、予約は?」

「無いですけど」

「じゃあ、これ」

 宏太の手には八千円が握られていた。降霊二回分の料金だ。

 宏太は毎日、降霊の予約が入っているかを聞いている。予約が無い場合は限度の三回を全て使い、予約が入っている場合は残りの回数で降霊をする。あらかじめ、宏太の予約は入れてあるので、最低一回は必ずできるようになっている。

 最初の一回きりの筈だった。同じ相手に一日で何回もやるなど、本来はルール外だった。情に流され一回だけだと受け入れた事が、何回も何回も押し寄せてくる。

 隼都には、お金を受け取って降霊をする選択肢しかなかった。しかし、自分がお金を受け取ることで、宏太の生活や宏太の家族が崩れていくと思うと怖かった。受け取る手が自然と震える。

 二回分の降霊が無事終わった。降霊中は朗らかな宏太が、終わった途端に不愛想に変わる。

「じゃあ」

 宏太がそっけなく帰っていくのはいつものことだった。

「明日も来ますか?」

 いつもは見送ることしかできなかった隼都の声が引き留める。

「来るよ」

「大丈夫ですか?」

「やめるつもりないから」

 隼都から何かを感じ取ったのか、宏太の顔が不機嫌そうに険しくなる。

「僕、そんなつもりで仕事してないです」

「金ならあるから」

 宏太は、台詞を吐き捨ててその場を立ち去ろうとした。

「誰のお金?」

 隼都の言葉に宏太の足が止まる。隼都は言った事に後悔したが、時すでに遅かった。

「お前ってそんな事も分かんの」

 宏太の目は覚悟を決めたように鋭かった。鋭い目で隼都を刺した。

 隼都は逃げずに宏太の目を見る。隼都の表情は宏太を包み込むように柔らかかった。

「宏太くんが毎日毎日こうやって来る度に、恭祐くんは傷ついて自分の事責め続けてます」

 宏太は手を強く握りしめた。頬に一筋の涙が静かに落ちる。

「辛いのは宏太くんだけじゃない」



*    *



 暗闇の冷たい雨が宏太の肩を濡らす。濡れるしかないその肩は細く骨ばっていた。

 着替えの服も無い。宏太は雨を避けるように近くの建物へと入った。施設のような大きな建物の自動ドアが開いて奥へと誘われる。

 中はある程度の人で賑わっていて、家族連れが多かった。

 建物に入るとすぐに看板が目に入った。数々のホール名と案内図が掲示され、その周辺には近々開催されるコンサートのポスターが貼ってあった。宏太はこの時に初めて此処がコンサートホールだと気付いた。

 公演スケジュールが表示されている液晶パネルを覗くと、今日は中ホールの公演のみだった。公演名には『中学生の部・吹奏楽コンテスト』と書かれ、中ホールの入り口からは制服を着た中学生や保護者であろう大人が行き来していた。

 時折、子供たちから「急いで、休み時間終わっちゃう!」と声が聞こえ、今は短い休憩中なのだと分かった。

 関係ない自分がこの場にいるのは非常に気まずかったが、窓の外の大粒の雨を見て此処を出る勇気は無かった。

 どこかに座って時間を潰そうかと辺りを見回すが、座れるような場所がことごとく中学生に取られていた。他にすることも無く、飾られているポスターを眺めているのは完全に不審者だった。

「あゆみ!」

 雑踏の中で、その声だけが鮮明に宏太の耳に響いた。明るく幸せに満ちた声だった。

 宏太はポスターから目を離し、声がした方を見ると、ひとりの女性が宏太の前を横切った。その女性は制服姿の女子中学生の元へ駆けて行き、あゆみと呼ばれた少女はその場で立ち止まり待っていた。たぶん親子なのだろう。母親が駆け付けると少女の頭を愛おしそうに撫でた。二人はホールへと向かっていく。

 宏太はその親子から目が離せなかった。どこかで聞いたような声に、思い出せそうで思い出せないモヤモヤが胸の中に広がっていった。

 もう休憩時間が終わるのだろう。エントランスにいた中学生たちは続々とホールへ吸い込まれていく。やがて、その場には宏太ひとりとなった。

 ブーという再開のブザー音が鳴る。エントランスにもスピーカーを通して聞こえてきた。

 ブザーの低く潰れた、イガイガしたような音は宏太の脳を刺激した。

「はっ!」

 宏太は息を吸った。宏太の脳内には夏の大きな波が呼び起こされる。凌汰をさらった海。あの日、あの海に先程の親子はいたのだ。凌汰が救ったあの少女なのだ。

 宏太は急いで中ホールへと向かう。ホールの入り口には受付があり、関係者と一般で分かれていた。気持ちは関係者だが、一般の受付へと走る。

「あの、ひとり分お願いします」

「開演時間を半分以上過ぎておりますが、料金は変わりません。よろしいでしょうか」

「はい」

「五百円になります」

 宏太は右ポケットに入っている小銭の中から五百円玉を出した。チケットとプログラムを受け取り、会場へと入る。

 席は前から真ん中くらいまで中学生がぎっしり座っていた。真ん中から後ろの方は保護者らしき大人たちがバラバラに座っている。特に座席指定は無いらしい。宏太は真ん中の席に先程の母親を見つけた。少し距離をとって斜め左後ろへと座り、母親を視界に入るようにした。

 既に、ある中学校の演奏が始まっていた。宏太は先程見た制服ではないと分かると、目線をプログラムに落とした。

 曲名はおろか学校名までもよく分からなかった。宏太が知っているのは、あの少女があゆみという名前であることだけで、少女の中学校すら分からない。プログラムを閉じて演奏を眺めていると、丸い心地よい音色が眠気を誘った。

 周りから大きな拍手が起こった。その音で宏太は起こされ、寝てしまっていたとに気付いた。演奏していた中学生たちは行儀の良いお辞儀をして、はけていく。

「続きまして二十八番」

 アナウンスの声に合わせて母親が座り直し、背筋を伸ばしたのが見えた。もしかしたら次かもしれないと宏太も背筋を伸ばす。

 拍手と共に下手側から楽器を持った中学生が続々と壇上に上がる。制服は、エントランスで見た少女と同じだった。宏太は目を細めながら少女を探す。少女は最前列でフルートを持っていた。

「いた」

 宏太はその少女から目を離さなかった。

 指揮者が構えると、演奏者たちも楽器を構えた。少女もフルートを構え、指揮者をじっと見つめている。指揮者が『三、四』のリズムで指揮棒を振ると、少女のフルートソロから始まった。

 少女が奏でる一本の細いフルートは芯の強い高音を会場に響き渡らせていた。二本、三本とフルートが重なり、クラリネットが重なり、サックスが重なり、金管楽器が重なり、やがて重厚感のあるハーモニーへと変わっていった。

 あの日、あの時、凌汰じゃなくてあの少女だったらどうだったのだろう。少女はこのステージには立てていなくて、母親に頭を撫でられることも無かったし、名前を呼ばれて笑い合う今日なんて無かったのだ。少女には今日があり、母親と笑い合える日々がある。これは凌汰が作った少女の未来だ。

 宏太の視界が滲んでいく。凌汰の思いは今ここで美しい音色となっている。



『宏太くんが毎日毎日こうやって来る度に、恭祐くんは傷ついて自分の事責め続けてます』

 隼都の言葉を思い出した。宏太は手のひらに爪が食い込む程、握りしめる。

 凌汰とは小さい頃からずっと一緒に過ごしてきて、いなくなってからは一人でどう過ごしたらいいか分からなかった。凌汰がいなくなって恭祐も辛い思いを抱えていたはずなのに、励ましてくれていた。それなのに、いなくなった後も凌汰に頼って、恭祐を沢山傷つけてしまった。どうして気付けなかったのだろう。

『辛いのは宏太くんだけじゃない』



 会場全体に拍手が沸き起こる。宏太は涙を拭うと会場を後にした。



*    *



「今後の将来のこと、どう考えてるんだ。恭祐だけだぞ、何もしてないの」

 赤く照らされた教室で橋本と二人。この話をするのは何回目だろうか。

 とりあえず、進学という事にしたものの、恭祐はあれから勉強どころかオープンキャンパスすら参加していなかった。周りは、内定だの合格だの決まり出していた。

「何も考えてません」

「考えろって」

 そう橋本から言われても考えられない。考えてもみなかった世界にいる今の自分に、その世界での将来など考える事が出来なかった。

「考えられません」

 同じトーンを貫く恭祐に橋本は溜息をついた。

「本当に後悔するぞ」

 後悔ならもうしている。

「恭祐、真剣に考えろって。やりたい事とか、こうなりたいとか。何でもいいんだよ。お金持ちになりたいとかでもいいぞ。そうしたら、収入の良い職業を探して、そのためにはどの知識をつけたらいいかが見えてくるだろ」

「お金持ちにはならなくてもいいです」

「あの。今のは例え話だから。好きな事とか、どんな自分になりたいとか、何でもいいんだよ。でも、自分で選ばなきゃいけない。人が決めちゃダメなんだって。最終的に選ぶのは自分」

 橋本は恭祐の肩を励ますように叩いた。「ずっと高校生じゃいられないんだぞ」と言うと教室を出て行った。

 恭祐は凌汰の席を見つめた。一学期と同じように、まるで変わっていないように、凌汰の席は存在している。

「じゃあ、水橋くんは?」

 何も返ってこない教室で深呼吸をした。

 何故、夢のある凌汰は高校生のままで、夢のない自分は高校生でいられなくなってしまうのだろう。

「水橋くんを大人にしてあげたかったよ」

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