9
休日の朝、恭祐はベッドの上で電話を掛けた。
『はい、村上です』
「あの、先日お伺いした佐々木です」
『はい』
隼都の返答が素っ気なく、別の人に掛けてしまったかと番号を確認した。間違いないことが分かると、恭祐は自分の情報を足した。
「えっと、この前、ぶつかった、名刺貰った」
『ああ! 恭祐さんだ!』
電話の奥で知っている、明るい声が聞こえる。
「良かった、忘れられたのかと思いました」
『ごめんなさい、俺人見知りなんです』
「ええっ」
あの陽気な感じからは想像できない発言だった。
『ちょっと驚きすぎです。しつれーい』
隼都が冗談ぽく言うと、隼都も恭祐も声をあげて笑った。
『あ、ごめんなさい。電話の用件何でしたっけ』
思い出したように隼都が聞いた。
「実は、俺のときに降霊してもらった、水橋くんと会わせたい人がいて」
恭祐は、宏太と凌汰が幼馴染なことや凌汰がいなくて苦しんでいることなどを伝え、凌汰と会って前に進んでもらいたいと恭祐の思いを隼都に伝えた。
『僕でお役に立てるのなら、全然』
隼都は快く快諾してくれた。
「ありがとう、隼都くん」
電話を切ると部屋の静けさが寂しかった。この静けさから逃れたくなりドアを開けると、母が目の前に立っていた。
「びっくりした、何? 盗み聞き?」
分かりやすく不機嫌になる。
「いや、そんなつもりじゃなかったの。何話してるか分からなかったけど、恭祐が久しぶりに笑ったから」
母のぎこちなく発せられた声に、恭祐は申し訳なく思った。少し目の潤んだ母を見て、とても心配をかけていたことが今になってやっと分かった。
ごめんと一言だけ恭祐がぼそっと謝ると、「謝って欲しいんじゃないの。笑ってて欲しいのよ」と笑い、一階へと降りて行った。
「笑ってて、か」
恭祐は今までどうやって笑っていたかを思い出す。どこの筋肉に力が入っていたか、意識的に笑顔を作るにはどうしたらいいか、すっぽり抜けて思い出せなかった。
恭祐は写真を撮る瞬間をイメージした。はいチーズの掛け声を鏡の前でやってみた。最後の『ズ』で顔のパーツが中心に寄った。
「だめじゃん」
心の中で『いー』と言いながら、口を真横に伸ばす。鏡に映った自分が笑ってるというより歯並びを見せているような表情だった。小さい頃行った動物園でこんな顔してた猿がいたなと思い出す。
「難しいな」
上の歯をより多く見せてみたり、目を細めたり、鏡に向かって色々試してみたが、どれも笑顔と呼べるには遠かった。
「気持ち悪!」
我に返り、急に気持ち悪くなったのでやめた。
* *
もう朝は上着無しで外に出られない程だった。恭祐の少し冷えた指先がインターホンを捉えようとして震える。
「はい」
あの時と同様に掠れた女性の声がする。
「あ、宏太くんの友達の佐々木です。宏太くんお家にいますか」
女性は一瞬、躊躇いを見せた。恐らく、声からして母親だろう。その時、玄関ドアがゆっくりと開いた。恭祐は目線をインターホンのカメラから玄関へと移す。出てきたのは宏太だった。
「渡邊くん!」
思わず大声で呼んだ。宏太の虚ろな視線がゆっくりと地面から恭祐へと向かう。
「あ」と、一音だけ発せられた声は、輪郭のないぼんやりとしたもので、凌汰の家で話しかけていたようなハキハキと活発なものでは無かった。ゆっくりとした足取りで門を開け、恭祐の前まで来た。
恭祐は、久しぶりという言葉は飲み込んで、「おはよう」と宏太に挨拶をした。宏太は「うん」と相槌で返す。間近で見ると、宏太は別人のように痩せていた。前から標準的な体型をしていたが筋肉が落ちたのだろう。一回り小さくなったように思えた。頬は瘦け、顎は骨のラインがはっきりと浮き出ていた。目も窪み、瞼の開きも前より弱いように思える。そして、肌の色も青白いような気がした。外に出ていないから白くなっただけかもしれないが、顔に透ける青い血管が見た目の不健康さを倍増させた。
「どっか行くの?」
そんな思いを隠すかのように、恭祐は声を明るくする。宏太は「コンビニ」とぽつりと返す。
「ちょっと話さない?」
恭祐が誘うと宏太は頷き、ふたり並んで近くのコンビニへと向かった。恭祐が歩幅を合わせるように車道側を歩く。自ら車道側に移動した。
「いつもは何してるの」
宏太はただ真っ直ぐ前を向いたまま「何も」と答えた。目の合わない宏太に、恭祐はテンションをもう一段階上げた。
「ええぇ、何もってことはないでしょ。テレビ見たり、ゲームしたり、ユーチューブ見たりとかさあ」
「何も」
宏太の返答は何も変わらなかった。
「さすがに呼吸はしてるでしょ」
恭祐の小学生の屁理屈のような質問にも宏太の返答は「何も」だった。
信号が赤になる。恭祐が横断歩道の手前で止まると、宏太は流れるように進行方向を変え、青に変わった方の横断歩道を歩き始めた。
「コンビニあるの、反対側だから」
宏太の声は車の走行音にかき消されるギリギリ手前で恭祐の耳に拾われた。恭祐は「おお、そっか」とだけ答える。
「コンビニってよく行くの」
恭祐の問いに宏太は「うん」と答えた。
「コンビニだけ? 他には行くところとかある?」
「スーパーとかケーキ屋とか」
「ケーキ屋も行くの? てか、食べ物ばっかりじゃん!」
恭祐が笑うと、それとは対照的なトーンで宏太は続けた。
「でも、全然美味くないな。どれも美味くない」
「ケーキも美味しくないの?」
「うん。美味くない。つまらない」
まるで、何かを、誰かを、思い出しているようだった。食べ物に触れることで面影を辿っているようだった。美味しいと言って食べる宏太の姿はもう見れない。美味しくさせるのは『もの』ではなく『人』だったのだと感じた。
「美味しくないならさ、もう行くのやめなよ」
「嫌だ」
宏太の声は、速くはっきりとしていて、意思は固かった。恭祐が「何で」と聞くと、「これしかないから」と、宏太は拳を握りしめる。その言葉が何を指しているのか、恭祐は分かりたくなかった。恭祐は大きく息を吸う。
「渡邊くん、会って欲しい人がいるんだけど」
宏太が顔を上げる。コンビニは目の前だった。
* *
黄金の絨毯は綺麗に刈り取られ、禿げた田んぼは小さい鳥たちに突かれていた。高い空の下に日本家屋が堂々と建っている。
恭祐は迷うことなく玄関まで向かい、インターホンを押した。すりガラスに影が映る。赤と黄色の派手な人影を見て、恭祐は戸が開く前に誰だか分かってしまった。
「待ってましたー」
隼都がいつもの砕けた様子で恭祐たちを出迎えた。日本家屋からは想像できない人物を目の前にして、宏太はじっと固まった。
「あ、初めまして。村上隼都です」
宏太の視線に気づき、遅いと分かりながらも背筋を伸ばした。宏太は、隼都から名刺を両手で受け取ると、顔を上げ、隼都を見つめる。
「降霊師?」
恭祐に「裏見て」と言われ、名刺をひっくり返す。『大切な人と最期の会話をしませんか』と書かれた裏面を見つめた。
「渡邊くんに会って欲しいのは、水橋くんだよ」
そう言った瞬間の宏太の顔を恭祐は一生忘れられなかった。
隼都から、恭祐も以前来た部屋へと案内される。この部屋は隼都専用の仕事部屋になっている。
「飲み物どうぞ」
隼都は二人に温かいお茶のペットボトルを差し出した。
「ありがとう」
笑顔で受け取る恭祐とは対照的に宏太は軽く会釈をした。隼都も軽い会釈で返す。
「じゃあ、早速本題に入っちゃっていいですかね? まず、これが説明なんですけど」
隼都は、いつもの砕けた口調で話し始めた。説明書を宏太に向け、あの時と同じように金額や時間、注意事項などを説明する。
「で、これも一応説明してることで、降霊できる期間の話です。あんまり関係ないかなと思うんですけど、最初に降霊したときから三カ月経つと降霊自体も出来なくなってしまうので、もし三十分で伝えきれなかったとか伝え忘れたとかあれば、三カ月以内に来てください。で、その三カ月の期限なんですけど、二週間前にやった恭祐さんとの降霊が起源なので、残りの期間は二カ月になります」
隼都は一通り説明すると紙を宏太に渡した。
恭祐は隼都にお金を渡す。隼都はお札の枚数を数え、「お受けいたしました」と一言言うと準備に取り掛かった。
「三カ月過ぎるとどうなるんですか」
宏太は降霊の準備をする隼都に聞いた。
「降霊できなくなります。降霊って生きてる人間と亡くなった方の意思疎通を、僕みたいな人間を通してやってるんですけど、そういうのが出来なくなります」
「何で」
「三カ月経ったら消えるからです。存在自体が」
隼都は一度、手を止め答えた。そして、「悔いが残らないように、伝えてくださいね」と笑顔を向けた。
「それでは始めさせていただきます」
隼都は二人の相向かいに胡坐をかいて座る。前回と同様に道具を両手に持つと、目を閉じて小さくお経のようなものを唱え続けた。恭祐は前回と同じように隼都をじっと見つめる。
段々とお経は小さく聞こえなくなっていき、最後に深く息を吸った。
隼都が目をゆっくりと開けた。宏太も固唾を呑んで見守る。隼都の顔つきが変わった。
「水橋くん」
恭祐が声を掛けた。
「佐々木くん、久しぶり」
恭祐と視線が合うとゆっくり微笑んだ。
「宏太も、久しぶり。元気だった?」
凌汰は目線を宏太に向けた。優しく微笑む目は薄っすらと潤んでいた。それを見た恭祐はずっと宏太に会いたかったんだと感じた。
「え」
宏太は状況が掴めないのか、やっと発した言葉がそれだった。
「水橋くん。今日はね、渡邊くんも連れてきたよ。この前心配してたでしょ」
「うん。ありがとう」
凌汰は零れる前の涙を拭った。
「凌汰?」
「そうだよ」
「ほんとに、凌汰か?」
「そうだよ」
宏太の目には涙が浮かんでいた。まだ信じられていないのか、驚きでいっぱいなのか、何度も何度も「本当に凌汰なんだ」と口にした。凌汰はそんな宏太に「そうだよ」と相槌を打っていた。お互いの目には涙が浮かび、どちらが先に流れ落ちてもおかしくはなかった。
連れてきて良かったと恭祐は思った。二人の姿を見て、嬉しかった。やっと悔いの残らないお別れができるのだともらい泣きしそうになった。
「そんなに嬉しい?」
恭祐は泣いている宏太に聞いた。
「嬉しくなんかない。悲しい」
「え?」
嬉し涙だと思っていた恭祐は予想外の返答に声が漏れた。
「もう、こういう形でしか会えないんでしょ。一緒に家でゲームしたり、ラーメン食べたりできないんでしょ」
誰も何も言えなかった。
「別に、一緒にゲームなんかしなくていいし、ラーメンも食べなくていい。なんなら、家も全然近所じゃなくていいし、海外に住んでてもいいから、だから」
宏太の声には段々と涙が交じった。
「だから、生きててよ」
これが全てだった。宏太はたとえ会えなくてもいいから生きていて欲しかったのだ。恭祐は宏太の言葉を聞いて、酷く反省をした。
小さい頃からずっと一緒にいた宏太にとって、こんなのは会えたうちに入らないのかもしれない。もしかしたら、会わせたい人などと言って期待を持たせ、宏太の事を傷つけてしまったかもしれない。サプライズでいきなり二人を会わせて、思いの丈を今話せだなんて酷だったのだ。宏太の気持ちを何も分かっていなかったし、さらに深く傷つけてしまった。
「ごめんね、渡邊くん」
恭祐はただ謝ることしか出来なかった。
「宏太は、ずるいよ」
静かに声を発したのは凌汰だった。凌汰の言葉は涙と交じり震えていた。
「え?」
「俺があっさり自分の死を受け入れたと思ってんの? そんな訳ないじゃん。受け入れるのに時間かかったし、なんならまだ完全に受け入れきれた訳じゃない。ずっと皆といたかったし、いれると思ってたし。夢だってあったし、やり残したことも沢山あったよ。何でここで死んでんだって、自分が一番思ってるよ!」
「凌汰」
凌汰から飛び出した本音は誰にも受け止められなかった。凌汰は溢れる涙を拭うことなく、宏太の目を真っ直ぐ捉えていた。
今まで穏やかに笑っていた凌汰が一番辛いのだと今更ながら思い知った。
「ごめん」
宏太は、それしか言えなかった。
「いや、俺こそごめん。強く言い過ぎたね。そんなこと言いたかった訳じゃないのに」
そして、いつもの優しい凌汰に戻った。きっとこの瞬間も凌汰に気を使わせているのかもしれない。
三人の間に重苦しい時間が流れた。いつもうまくいかない。久々の同窓会のように、思い出話に花が咲くわけでもない。三人で和気あいあいとしていた時が懐かしかった。
「ねぇ、ひとつ聞いていい?」
宏太がぼそっと凌汰に聞いた。
「何?」
「ポトフってどうやって作んの?」
「ポトフ? 何でポトフ?」
「いいじゃん」
「コンソメのスープに野菜とかウインナーとか入れるだけだけど」
「もっとあんじゃん」
「それだけだよ?」
不思議そうに凌汰は首を傾げた。
「それじゃ、ネットに書いてあることと一緒じゃん。凌汰の味になんない」
「んー」
凌汰は困ったように笑った。辺りを見回してボールペンを手に取ると、宏太が貰った説明書の裏紙に書き始めた。
「何書いてるの?」
恭祐が凌汰に聞いた。
「レシピ。俺が作ってるやつ」
そう言うと、無言ですらすらと書き続けた。
「こういうのって残してないの」
書き続ける凌汰を、宏太はじっと見つめていた。
「こういうのって?」
「レシピ。紙でもデータでも何でも」
凌汰の書く手が止まる。
「あるね。ノートにまとめてある」
そう言って、再びペンを走らせた。
「ねぇ、それもらっていい? コピーでいいから。俺、凌汰の以外美味いって思えない」
「何それ、嬉しい」
おどけて喜ぶ凌汰に対して、宏太の表情は真面目だった。やっと美味しく食べられるのだと、恭祐は骨ばった宏太の横顔を見ながら安心した。
「いいよ。俺の部屋にある。机の上に置いてあるから。あ、他は漁んないでよ? プライバシーはちゃんと保護してよね」
「見ねぇよ、他のとこまで」
宏太が笑った。凌汰が亡くなって以来、初めての笑顔だった。恭祐は宏太の笑顔をただ見つめるだけだった。凌汰の力で引き出した笑顔をただ無力に見つめていた。
「はい、出来た。俺が作ってたポトフのレシピ」
「ありがとう」
恭祐も近寄り覗き込む。そこに書かれていた字体は凌汰そのものだった。いつも見ていた凌汰の字だった。
「何、何? 何で二人して泣いてるの?」
凌汰に言われ、恭祐と宏太は顔を見合わせる。お互い気付かぬうちに泣いていたことが可笑しくなって笑いに変わった。
「情緒不安定だなー」
凌汰も混ざり三人で笑い泣いた。三人とも不安定だった。笑ったかと思えば泣いて、泣いたかと思えば笑った。勝手に涙が零れ落ち、そんな状況が可笑しかった。
ゆっくりと目を開けた隼都が、涙に気付き両手で拭った。恭祐の中には降霊が終わった寂しさと凌汰がくれた温かさが入り混じっていた。
「凌汰! 凌汰!」
「残念ですが、もう村上です」
叫ぶ宏太に、隼都は涙を拭いながら冷静な声で答えた。
降霊している時としていない時の区別がついていないのか、それともまだ凌汰がいると思いたいのか、恭祐には、宏太の心の内が分からなかった。
宏太は隼都をじっと捉える。
「なぁ、紙にポトフって書け!」
「ポトフ? 何でそんな」
「いいから!」
宏太は強引にボールペンを隼都に渡した。
「はいはい」
隼都は抽斗から降霊の説明書を取り出すと、凌汰と同じように裏面にポトフとカタカナで書いた。
「これでいいですか?」
宏太はその紙を奪い取ると、凌汰が書いたものと見比べた。
「全然違う」
「何が違うんですか?」
「水橋くんにもさっき書いてもらって、隼都くんと全然違うなって」
恭祐が答える。
凌汰の文字は少し丸みがあって一文字一文字が正方形の中で書かれているようなバランスに対して、隼都は斜体のように右に傾き、縦長の長方形の中で書かれているような文字だった。一言で言うなら、小学生のような可愛らしい字と大人っぽいスマートな字だった。
「そりゃ、違いますよ。書いてる人が違うんですから。でも、文字を見比べる人なんて初めてです」
隼都は、おもしろい人だなあ、と笑った。
「やっぱり、本当に凌汰だったんだな」
「まだ、疑ってたんですか」
「いや、今ので本当に信じた。いつも見てた凌汰の字だし」
宏太は凌汰が書いた紙を食い入るように見ていた。そして、その紙は他の誰にも指一本触れさせなかった。
降霊が終わり、玄関で隼都に見送られる。「ちょっと外まで、一緒に行きますよ」と外に出ると隼都は長い手足を広げ、大きな伸びをした。
「家、窮屈そうだな」
宏太は伸びる隼都を眺め、言った。
「あの家にずっといたら背中丸まっちゃいますよ。何で僕だけデカいのかな?」
隼都はわざとらしく首を傾げた。
「お父さんは普通だったよね」
恭祐が言った。
「そうなんです。ちょっといかついですけど」
隼都が髪を耳に掛けながら言った。
「お母さんも普通くらい?」という恭祐の質問に、隼都は「どのくらいなんですかね?」と笑って濁した。「でも、お母さん大きいとかあり得るんですか?」と宏太に聞くと、「家庭によるんじゃね」と冷静に返された。
隼都の家を出て、少し歩いたところの交差点を赤信号で止まった。「じゃあ、ここで」と隼都は、誰もいない交差点で歩行者用信号機のボタンを押す。
「隼都くん、ありがとう」
「じゃあ」
すぐに信号が青に変わり、恭祐と宏太が歩き始める。隼都はその場に留まり、「ばいばーい」と長い手を大きく振った。
「めちゃくちゃデカいな」
宏太は横断歩道を渡り切った後も、ちらちらと後ろを振り返って、隼都を見ていた。恭祐も後ろを振り返る。
「まだ手振ってるよ」
腕を伸ばしきって大きく振っている隼都に、恭祐は小さく振り返した。それに気づいたのか、隼都は手を振りながら二回ほど飛んだ。
「バレー選手みたいだな」
「ブロックうまそうだよね」
宏太の言葉に恭祐が返すと、二人して顔を見合わせて笑った。
恭祐は、宏太を家の前まで送った。過保護かもしれないが、そうしないと心配で自分が落ち着かなかった。
「じゃあね」
「あ、ちょっと待って」
帰ろうとする恭祐を宏太が引き留めた。
「今日のお金」
宏太が財布から四千円を出す。
「え、いいって」
「ダメだって。今日って俺の為だろ? 凌汰とまた話せて良かったよ」
宏太は笑顔だった。恭祐にはその言葉が予想外ながらも嬉しかった。その一言で恭祐の罪悪感は消え、心が軽くなった。良かったのだと心から思えた。元気を取り戻した宏太を見て、自分のように前に進むきっかけになって欲しいと強く思った。
「ありがとう、恭祐」
もう一度、強く差し出された四千円を恭祐は受け取った。その笑顔を信じて疑わなかった。
宏太は帰っていく恭祐の後ろ姿を見送っていた。恭祐がある角を曲がり、姿が消えるのを確認して家へと入った。
脇目も振らず、宏太は自分の部屋へと入った。母のおかえりと掛けられた声は、宏太には届かず、バタンと強く閉まるドアの音に消された。
宏太は部屋に着くなり、クローゼットをかき分け、奥底に眠る貯金箱をひっくり返した。
小銭同士のぶつかる音が脳内で反響する。耳を塞ぎたくなるほどの大きな音は宏太の脳を揺らした。
* *
「恭祐、どうだった? 会えたか?」
放課後の職員室。日誌を橋本に届けた後、話題は宏太のことに移り変わった。
「会えましたよ。一緒にコンビニ行きました」
何となく、降霊体験のことは伏せてしまう。
「そうか! 会えたか」
嬉しそうにする反面、友達の方が会いやすいのかと分かりやすく肩を落とした。橋本に「そんなことないですって」と分かりやすくフォローする。
「どんな感じだった?」
「思ったより痩せてましたけど、元気そうでした」
「元気そうなら良かった。学校来れそうかな?」
恭祐は宏太の笑顔を思い出した。あの最後に向けていた笑顔は、今まで見ていた宏太と同じだった。
「もうすぐで来れると思います」
みんなの知っている宏太まであともう少しだ。もう少しで戻ってくる。また、教室で笑い合える日が来るのだ。
恭祐は職員室の扉を閉める。スマホを取り出し、宏太とのトーク画面を開いた。八月のやり取りが最後になっている。夏以来のトーク画面に『学校で待ってるよ』と送った。
自然と笑みが零れる。スキップをして職員室を後にした。
* *
「宏太、お母さんの料理美味しくなかった?」
窓から自然光が差し込むリビング。宏太は母の言葉に何も返さず、黙々とキッチンで作業を続けた。母の手には、冷え切った手つかずの料理があった。宏太の部屋の前に置いてあった料理だった。宏太はちらっと母の方を見るがすぐに目を逸らした。
美味しくない訳じゃない。今までずっと、この味で育ってきたし、美味しかった。
でも、もう食べられない。
宏太は慣れた手つきで野菜を切っていく。
「何作ってるの」
宏太は母の問いかけに何も答えられなかった。手元にある一枚の紙を母が覗く。
「あ、ポトフ? 美味しいよね。お母さんも好きだな」
悲しく笑う母の事を宏太は見ていられなかった。こんな顔をさせているのは紛れもなく自分なのに、ごめんねの一言も言えなかった。さらには、母がそんな顔をしていることが不快に思えてしまう。そんな嫌な自分を押さえつけることに精一杯だった。
宏太から深い溜息が吐き出される。
「あ、ごめんね。お母さん、買い物行ってくるね」
母は、持つ物をトートバッグに変えて、逃げるようにリビングから出て行く。こうして、いつも母は息子の食べない料理を作り、食材を買いに出かける。
ガチャと鍵がかかる音で緊張が解ける。
どうしてうまくいかないのだろう。
母を傷つけてしまうことに、宏太自身もまた傷ついていた。
「何してんだよ」
鍋の中はこれでもかと湧き立っていた。慌てて火を止める。一人分にしては多すぎるそのポトフを鍋から器へ盛り付けていく。
湯気が勢いよく立ち昇り、料理ってこんなに躍動感のあるものなのかと再発見だった。
ふと、母の作った料理へ視線を向ける。ラップがかけられた大きな食器には、水蒸気が大きな水滴となって、ラップにくっついていた。最初はどれだけ温かかったのだろう。宏太はその食器を手に取る。
「冷た」
まるで冷蔵庫から取り出したかのようだった。ラップを外すと、肉じゃがが姿を現した。宏太は母の作る肉じゃがが好きだった。小さい頃から和食より洋食の方が好きだったが、母の肉じゃがはその洋食よりも好きだった。何が食べたいと聞かれるといつも肉じゃがと答える程だった。
宏太は小さい頃の記憶を思い出した。この肉じゃがもあのポトフくらい温かかったのだと思うと、申し訳なく、寂しくなった。
宏太は肉じゃがも一緒にダイニングテーブルへと運ぶ。
まずは、肉じゃがから食べる。芯まで冷え切っていて、じゃがいものねっとりとした食感が舌にまとわりつく。
「味がしない」
宏太の箸が止まる。何も感じなかった。
次にポトフを口にした。熱が口いっぱいに広がる。宏太は何度も何度もポトフを食べた。その度に口の中に熱が伝わってくる。
ただ、それだけだった。味がなく、熱いか冷たいかしか感じ取れなかった。
宏太は震える手で塩を手に載せ、直接口に運ぶ。料理同様、味を感じなかった。
もう二度と料理が味わえないのだと絶望した。
「俺から凌汰を奪わないでよ」
誰にぶつけていいか分からない、この思いは、宏太の心の中で石化していった。
* *
『過去の通知はありません』
見慣れた画面に恭祐はスマホを閉じた。教室から覗く空は少しくすんで見え、就職がどうとか進学がどうとかという難しい話は右耳から左耳へ流れて行った。
久しぶりに送った宏太へのメッセージは既読が付くことなく二週間が経った。追加でメッセージを送る勇気は無く、スマホを無意味に開いては閉じることが増えた。
「流石に二週間だもんな」
恭祐は、学校が終わると宏太の席に溜まっているプリントを雑に集め、教室を飛び出した。
恭祐は宏太の家を訪ねると、宏太の母に出迎えられた。玄関タタキの中央に並んだ三足の靴を宏太の母が手際良く端へと追いやる。
「あ、大丈夫ですよ。お構いなく」
「いえいえ、大丈夫ですよ。うわ、重い。これ」
最後に運んだ白のスニーカーがどすっと重い音を出した。恭祐が来客用のスリッパに履き替えると、リビングに案内される。
「あの、これ。渡邊くんのなんですけど」
恭祐はプリントの束を宏太の母に渡した。
「ありがとう。ごめんね、わざわざ。いつも橋本先生が届けてくれるんだけど、申し訳なくて」
宏太の母が心苦しそうな表情を浮かべた。
「宏太、呼んでくるね」
「あ、僕も行きます」
恭祐は宏太の母と一緒に二階へ向かい、母がドアをノックした。
「宏太ー? 恭祐くん来てるわよー」
何も反応がなかった。
「多分、私だから無視してるのかも。恭祐くんが声掛けてみて」
宏太の母がそう言うと、場所を恭祐に譲った。恭祐は同じようにドアをノックする。
「渡邊くん? あの、恭祐だけど。ちょっと話さない?」
部屋の奥からは、声どころか物音ひとつ聞こえない。人の気配がまるでしなかった。
「僕もダメでした。」
自嘲気味に笑うと、宏太の母は「ごめんなさいね」と謝った。
「もうこんなドア取っちゃおうかしら」
宏太の母が、冗談ぽく言ってドアノブに手を掛けると、すうっとドアが開いた。
「え?」
目の前がゆっくりと開かれていき、その光景に恭祐は目を疑った。
「何よ、これ」
「お母さん、知らなかったんですか」
「知らない。知らないわよ」
目の前に広がる宏太の部屋には何もなかった。机もベッドもカーテンも何もかもが無かった。備え付けのクローゼットは扉が開けっ放しになっていて、中には何も入っておらず、天井を見るとシーリングライトも外されていた。ここだけ入居前のような異空間な状態に何も言葉が出て来なかった。
「宏太は? 宏太はどこなの」
宏太の母が急いで階段を降りて行く。その後に続いて恭祐も階段を駆け下りる。
宏太の母は玄関を見るなり、靴が無いと言った。
「靴ですか?」
「そう、ここにもう一足あったの。宏太の白いスニーカーが」
宏太の母が玄関タタキを指さす。そこには不自然に一足分のスペースが空いていた。
「確か三足ありましたね」
恭祐は、宏太の母が重そうに持ち上げていた白いスニーカーを思い出した。来た時に見たスニーカーが今、目の前からは消えていた。
「いつの間に出かけたのよ」
宏太の母は頭を押さえ、下唇を嚙み締めた。バックの中から財布を取り出し、中を確認する。すると、「まただ」と呟き、投げ捨てるようにバックへと戻した。次にスマホを手に取り、電話を掛ける。相手は宏太だろう。
「電話も出ないし」
宏太の母からは焦りと同時にイラつきも感じた。リビングをうろうろと歩き回り落ち着きがない。高校生の母親とは思えない様子だった。宏太のことをまるで小学生のように扱い、過剰な心配をしているように恭祐は感じた。
「渡邊くんも高校生ですし、そんなに心配しなくても」
恭祐の言葉に、落ち着きなく動いていた足がピタっと止まる。その静止がやけに気持ち悪く感じた。じっとりと目線が恭祐へと移る。
「そうよ。高校生だし、男の子だし。ましてや夜中に出かけてるわけじゃないし。こんなに心配しないわよ。普通ならね、普通だったらね」
先程までとは違う、早口で畳みかけるような話し方に、本性が露わになった恐怖を感じた。思わず後ずさりをするが、宏太の母は恭祐から目を離さず、距離を詰める。
「あの子は普通なの?」
恭祐は目を逸らせないまま、何も答えられなかった。
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