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恭祐も最早生きてはいなかった。
悲しみに疲れ切った。苦しみに耐えきれなくなった。恭祐は自分の胸の中をどうにかしたかった。心を取り出したくて、恭祐は胸元を搔きむしった。やがて、恭祐の手がだらんとだらしなくぶら下がる。呼吸は浅くなり、胸が赤く滲むだけだった。
心の傷はなぜ見えないのだろう。時が経とうとも痛みは引いていかなかった。可視化される世界となったら、この世界はどれほど痛々しくグロいのだろう。歩けば後ろに血の道ができ、体には無数の刃物が刺さり、目はえぐりとられ、引きちぎられた誰かの片足を引きずり回しているかもしれない。しかし、世界はそうではなかった。心の傷は何一つ見えない世界だった。傷ついても分からないし、傷つけてもバレやしない。ひどく綺麗なままだ。なんて素晴らしい世界なんだろうか。
恭祐は、形から入ろうと思った。普通な振りをすれば、今までの「普通」に戻っていくと思った。
恭祐は久しぶりにアニメグッズのお店に来た。今まで辛いこともアニメが救ってくれたように、今回もアニメに救いを求めた。
高く伸びた天井から白色のLEDが店内を煌々と照らす。眩しくて目が開けられなかった。店内を流れる聞きなじみのあるアニメソングが今の恭祐には受け付けなかった。
酸素を奪われたように、呼吸が出来なくなった。苦しさにもがき、店を出た。
馴染みの場所が居心地悪かったことに、恭祐はショックだった。苦しみから逃れたくて、恭祐は一心不乱に足を動かした。
気付くと「great」で足を止めていた。扉を開ければ知ってる顔が見え、恭祐の心が和らいだ。
「おお? 恭祐、いらっしゃい!」
店長の明るい声が、恭祐を照らす優しい光のように感じた。お決まりのカウンター席へと座る。
「久しぶりだなー。一人って珍しくないか? 宏太と凌汰はどうした?」
店長の言葉に、恭祐の胸は罪悪感が押し寄せた。
そうだ、凌汰はいないのだ。宏太のことも、もう分からない。現実が恭祐を覆い尽くす。
「き、今日はやっぱいいや」
恭祐はそう告げると店を出た。
店を出てからは目的地もなくがむしゃらに走った。罪悪感を振り落とすように走って走って走り続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
呼吸とともに零れた凌汰への謝罪は、空に浮かばず、天に届かず、恭祐を沈めた。
未だに昨日のことのように凌汰を思い出し、会える気になる。急に解けた幻想は、恭祐の心を切り刻む。気が付くと三人の思い出に馳せ、現実を見て苦しむ。まるで薬物のようだった。快感を得た後の中毒症状に苦しむようだった。
走りを止めるのが怖かった。止めれば、後ろから迫り来る罪悪感に飲み込まれそうだった。
喉の奥が痛み、血の味が滲むが、恭祐は走りを止められなかった。
目の前の信号が赤になる。恭祐は走りを止めなかった。
恭祐の肩に重い衝撃が走った。勢いに負け、後ろへと倒れる。体を起こすと、人とぶつかったのだと理解する。相手の男性も後ろへ倒れ、荷物が辺りに散らばっていた。
恭祐の意識は、一気に目の前の現実へと引き戻された。相手の荷物を急いで拾う。
「すいません! 大丈夫ですか」
恭祐が声を掛ける。
華奢で中世的な雰囲気がある人だった。ハーフと言われれば納得する程、目鼻立ちがはっきりしていた。髪型はハーフアップをしていたがその姿も様になっていて、今どきの若者で一括りにしてはいけないと思った。
「あ、すみません……」
彼は荷物を拾う恭祐に謝った。
恭祐も一緒に拾い、名刺入れに手を掛ける。その名刺入れは、逆さまに落ちて名刺が飛び出していた。
名刺を持ち歩くという事は、見た目とは裏腹に本当は立派で真面目な社会人なのではないかと恭祐は焦る。
名刺には、主張を感じられない程、小さくぽつんと『降霊師
「良かったら、どうぞ。村上隼都って言います」
隼都は微笑むと、受け取った名刺入れから一枚取り出し恭祐に渡した。受け取る恭祐に「何かのご縁ですので」と言って、頭を下げた。恭祐もつられて頭を下げる。
隼都はまた人にぶつかりそうになりながらも走って行った。
恭祐はしばらくその後ろ姿を目で追っていた。すらっと伸びた手足を不器用に振り回しながら、やがて小さく見えなくなった。
信号が赤から青へと変わり、立ち止まっていた歩行者が流れ始める。
隼都がいなくなった後も彼の表情が頭に残り続ける。彼の表情には華やかながらも漂う陰の雰囲気に惹きつけられた。
「何だったんだ、彼は」
恭祐は手に持つ主張の無い名刺を見つめる。広すぎる程の余白に寂しさを感じた。名刺の裏にはまたも主張の無い文字で『大切な人と最期の会話をしませんか』の文字があった。
凌汰の笑顔が浮かぶ。視界が滲み、恭祐は天を見上げる。強い日差しに目を細めると涙が一筋流れた。
きっと、怒ってる。そんな感覚が恭祐を離さなかった。
恭祐は名刺を大事に仕舞った。
* *
カーテンを突き破って差し込む日差しが、光に慣れていない宏太の目を痛め付ける。
「宏太、大丈夫? 少しは部屋から出てきて顔を見せて。お母さん心配なのよ」
閉め切ったドアの向こう側に向かって、宏太は近くにあったコントローラーを投げた。
どん、と大きな音と共にまた一つ傷が増えた。部屋に散らばった物は宏太の周りからドアの前へと移っていく。
凌汰がいなくなってどれほど経ったのだろうか。宏太自身では分からない程に外の世界と時差が生まれていた。
あれほどに止まらなかった涙も噓のように今では一滴も流れない。辛くて眠れなかったはずなのに、今や目を覚ますと絶望する。母は朝昼晩とごはんを作ってドアの前に置いていく。食べる気は起きない。時計代わりになっている。
生きてしまっている。
凌汰との時差が広がる。
「俺だけ進んでいくんだな」
ふと久しぶりに出した声は、もう声ではなかった。
もう一度、会いたい。また、凌汰のいる世界で夢を見たい。
凌汰の時間はもう進まない。自分もいっそ時を止めようか。そんな考えが宏太の頭によぎる。ゆっくりと立ち上がる。自重に耐えれず膝が笑う。荒れ果てた部屋で、物の居場所など分からなかった。足元に散らかった物を避けて歩こうと片足立ちになる。弱った筋肉がバランスを崩し、そのまま散らかる物の上へ派手に転んだ。「いてえ!」と叫んだつもりが声は出ず、体を退けたくても力が入らず、下の物が体に突き刺さったまま痛みに耐える。
「どうしたの! 大丈夫?」
物音を聞き、ドアの前まで駆け付けた母に助けての声は届かない。ドアノブがガチャガチャと小刻みに動いた後はノックと「大丈夫?」の声が続いた。
ほんの数メートルが遠く、二人を隔てるドアが分厚く感じる。
「惨めだ」
宏太は泣いた。目からは一滴も流れない。
母が心配するドアの向こうで宏太は静かに泣いていた。
宏太の瞳は次第に光を拒むようになった。腰高までの窓の前には大きな額縁をぴったりとくっつけ、漏れ出る光さえも許さなかった。目が慣れる。宏太にはそれで十分だった。
もう窓の役割をしていない。淀む空気が宏太を落ち着かせた。
完全に外の光を閉ざした今、宏太が時間を感じる術は音だけとなった。車や人が通行する外の音、母が食事を置いて行く音。それが昼なのか夜なのかまでは、宏太には分からなかった。ただ、人間が活動している、起きているのが正しい時間なのだと認識できる程度だった。
やがて、音さえも煩わしくなった。子供の笑い声は勿論のこと、静かに通る車も母が生み出す生活音も気になって仕方なかった。耳を両手で塞ぐも容易に音は入ってくる。圧をかけて塞ぐとごおうっという低音が強くなる。音の無い時はないのだと気付き呼吸が乱れる。
カレンダーは八月だが、宏太の袖は段々と伸びていく。
女子小学生の笑い声が聞こえる。今の時間が登校か下校かも分からない。防犯ブザーの高い音が住宅街に鳴り響く。ただの誤作動と思うだけで心配する人などいない。
リズム良くエンジンをふかしたバイクの急ブレーキ音が辺りに響いた。普通の運転では起らないほど大きなブレーキ音だった。それでも人々はただの雑踏として片付ける。
宏太は、小学生の頃に見た轢かれた猫のことを思い出した。その時は下校中だった。次々と車線をはみ出していく車が不思議で、何かと思い道路を見ると猫が倒れていた。ぴくりとも動かず、車は速度を緩めずに横を通過していく。猫があんなところで寝ていると言って、周りから変な目で見られた。しかし、勘違いする程、綺麗な状態だった。車とぶつかる衝撃であれば、小さい猫ならもっと派手なことになっていてもおかしくないのに、血ひとつ流れていない綺麗な状態だった。今思えば、あの猫に血は通っていなかったのかもしれない。
「俺も同じだ」
宏太は自分の手首に浮き出た青い筋をなぞる。
「凌汰が死んだっていうのに俺は泣けないんだ。最低な奴だな」
右手に握ったカッターを一段階ずつ押し上げる。怪しく光る刃を見て、深く息を吸った。
「許してください」
宏太はカッターを押し当てた。刃を当てればプリンのように切れると思っていたが、弱くて薄そうな皮膚も意外と柔じゃないんだなと思う。刃を引くと薄っすらと線が付いた。その線は徐々に赤く色づいていく。じんじんと痛みが出てきた。カッターで引き終わると薄く細い線が一本弱々しく付いた。
「ビビんな」
宏太は先ほどの線より少し下にもっと強く押し当てた。さっきよりも痛みが強いが、皮膚の強さがまた邪魔をする。ゆっくり引いては躊躇すると思い、勢いよく引いた。じんじんと痛む速度が速くなる。紛らわすように深く息を吸った。線が先程よりも徐々に色濃く表れ、そして、赤黒い玉を作った。線のところどころに大小様々な玉が現れ、ティッシュへ吸い取られていく。真っ赤に染まったティッシュは鉄臭く感じ、久しぶりに嗅覚が働いた。
血は通っていた。宏太は生きていた。目から雫が落ちた。
宏太は土下座をした。
* *
恭祐は帰宅後すぐにベッドへと身を投げる。学校以外の時間をただベッドの上で過ごす。何もやる気が起きず、焦点が定まらないまま日が暮れる。机の上には参考書とノートが開いて置かれている。ページの半分まで蛍光ペンが引かれ、その上にうっすらと埃が積もる。視界はビビットカラーからモノクロへと変化した。制服はただの黒い塊となる。お風呂に入るようにと下で声がする。重い体をなんとか起こすと、鏡に映った自分の顔が目に入る。
「こんなにやつれてるのか」
普通を演じる事が、そろそろ限界だと感じた。無意識のうちに恭祐は名刺を握っていた。導かれるように書かれていた地番をスマホに打ち込む。マップで示された場所はここから電車で三十分程だった。これしかなかった。半信半疑ではあったが、藁にも縋る思いだった。
朝、恭祐は制服で家を出てきた。親に理由を聞かれるのが面倒だった。大きなバッグに私服を詰め、駅のトイレで着替える。
目的の駅に近づくと、恭祐がいる街とは雰囲気が変わり、自然が豊かになっていった。無人駅を降りると、住宅街と田んぼが広がる。田んぼの広がる先に小さくショッピングモールが見えた。
スマホの地図を頼りに進むと古い大きな日本家屋が奥に建つ、広い敷地が見えた。敷地を囲む塀から建物までが遠い。塀にインターホンのようなものは存在していなかった。不審者じゃないですよ、と心の中で呟きながら、中へと足を踏み入れる。大きな石畳に誘導され、玄関のチャイムを押した。ただ音が鳴るだけで室内と室外でやりとり出来るような機能は無く、誰か出てきてくれるまで待つしかない。
玄関引き戸のすりガラスから人影が近づくのが見え、戸が開くと和服姿で髭の生えた強面の男性が出てきた。
「ご予約の方でしょうか」
恭祐はこの時に初めて予約制な事を知った。
「あ、あの村上隼都さんいらっしゃいますでしょうか」
恭祐は焦りながら、貰った名刺を出した。
「あぁ、少々お待ちくださいね」
男性はそう言うと、奥へと姿を消し、代わって隼都が姿を現した。日本家屋が一回り小さくなったのかと錯覚を起こす程、隼都の身長は高く、建物が窮屈そうだった。
「あ! 昨日の!」
恭祐を見るなり、隼都は明るい声を出した。少し長い黒髪が揺れる。顔を覆う髪を耳に掛ける。隼都のファッションは派手な色使いで、日本家屋とはミスマッチだった。
「あ、あの、予約とかしてないんですけど」
「全然、大丈夫です!」
人懐っこい笑顔を浮かべ、親指を立てグーサインをした。
恭祐はある一室へと案内される。そこは格式ある像などが置かれた大広間だった。ポップな服装の隼都が厳かな建物を突き進む。
「どんなご相談ですか?」
隼都は塔のように積み上げられた座布団を二枚取って、恭祐と自分の場所に敷いた。恭祐は名刺の裏側に書かれた『大切な人と最期の会話をしませんか』の文字を見せる。
「降霊師って、亡くなった人と会話できるんですか?」
「はい」
「え、ほんとに?」
あっさりと答える隼都に恭祐は拍子抜けした。
「どうぞ」
隼都に促され、恭祐は座布団の上に座る。恭祐は固く正座して座るが、隼都は胡坐をかき、部屋で寛いでいるかのようだった。
「ここへ来るのは、そういう方が多いですね。あとは霊視とか」
「あの、俺も会話したい人がいて」
そこまで言って恭祐の言葉が止まる。どうしてもその先が言えなかった。凌汰が亡くなっているとは分かっていても口には出したくなかった。まだ認めてはいない、口に出さないことで変に運命にあがいてる自分がいた。ここに来ている時点で認めているようなものなのに、その矛盾に恭祐は気付かなかった。
「始める前に注意事項があって……」
隼都は近くの抽斗から取った紙を恭祐に渡し、胡坐から正座へと変える。それに合わせ、恭祐は背筋を伸ばした。恭祐は紙に目を通しながら、隼都の言葉を聞いた。降霊したい人物の情報に嘘が無いことや、体力の関係上、一日最大三組までしかできないこと、一回三十分までで料金は一回四千円の先払い現金のみということ、降霊を始めて三カ月が経つと、その霊とは降霊自体が出来なくなってしまうことを聞いた。
「重要なことの説明はこんな感じです。細かいとこはその紙見てもらえれば分かるので」
隼都はそう言ってあっさりと説明を終了した。
「何か質問とかあったら聞いてください。やっぱやめたっていうのも全然ありですし」
「なんかイメージと違いますね」
「イメージ?」
隼都は足を崩し、また胡坐に戻る。
「テレビとかで見る霊能力者よりずっと若いし、もっと厳粛な感じなのかと思ってました」
恭祐の言葉に隼都は少しの間、言葉を詰まらせ、隼都は口を開いた。
「若いっていうのは確かにそうかもです。この業界で僕より若い方を見たことないです。まだ僕なんて子供ですし。厳粛さは人によりますかね? 自分の場合こんなんですけど」
隼都は両手を広げて肩を上げ、おどけて見せた。恭祐はそれにつられて微笑む。
「何歳なんですか?」
「十五です。同級生は高校一年の歳です」
自分より年下かと、恭祐は年齢を聞いてさらに驚いた。十五歳とは思えぬ見た目の大人っぽさがあった。街中で会った時には気付かなかったが、隼都は身長がとても高く、時代を感じる日本家屋が不便そうだった。ジャンプすれば頭をぶつけそうな程近い天井。戸は毎回くぐって通るし、昭和感漂う照明も頭を下げるが紐が隼都に絡み付いていた。
「あ、飲み物持ってきますね」
隼都はそう言うと、折りたたんでいた長い脚を伸ばし、立ち上がった。恭祐はお構いなくと伝えようとしたが、隼都が部屋をくぐり出て行くのが先で伝えられなかった。
「どうぞ」
熱い湯のみでも来るのだろうかという予想は外れ、目の前に現れたのは冷たいペットボトルのほうじ茶だった。
「ありがとうございます」
隼都らしさを感じながら恭祐は一口飲んだ。
「どうしますか。もう始めますか」
隼都の声かけに恭祐は緊張感のある返事をした。
恭祐は凌汰の生年月日や性格、出会いなどあらゆることを隼都に話した。
「なるほど。では、次は答えにくいかもしれないですけど、凌汰さんの亡くなった日や場所、状況などを教えてください」
「はい」
返事をしてから沈黙が流れる。恭祐の頭の中にあの日のことが映像として流れる。何も欠けていない、あの日と同じ鮮明な映像が、頭の中を絶えず回っているのに、言葉としては何も発せられなかった。
「答えにくかったら、もう」
「ちょっと待って!」
しばらくの沈黙のあとに隼都がこの質問を終わらせようと口を開くと、恭祐は声を荒げ、隼都を止めた。
「今、今、答えますから」
先程の大きな声を出した人とは思えないような消えそうなか細い声になり、えっと、えっと、と呟いて焦りが隠しきれなくなっていた。
「大丈夫ですよ、落ち着いてください」
隼都が声を掛けると恭祐は頷き、頭の中を整理するように目を閉じて、ぽつりぽつりと話し始めた。口に出すことで頭の中を片付けていくように、順序や聞きやすさを無視した、思い付いたことから口に出していく恭祐を、隼都はメモを取り、頷き、優しい眼差しで聞いていた。
すると突然、頭が重くなる催眠術にかかったように下に引っ張られ、頭を畳へ付いて恭祐はうずくまるようになった。恭祐は小さく「俺が殺した」と繰り返した。呼吸が荒くなり、背中が上下する。あの時から見え隠れしていた黒い感情が顔を出した。仮面が完全に剥がれ落ちた。
「俺が殺したんだ、俺が殺したんだ、俺が殺したんだ」
何度も何度も呟く姿はまるで何かが乗り移ったようだった。
「それは違う、それは違うよ」
恭祐の急変に、隼都は何かを感じたように一瞬で顔つきが変わり、体の芯まで届くような声ですかさず否定した。
「恭祐さんは海行きたいって言っただけだよ。なんで凌汰さんを殺したことになるの。自分のこと責めちゃダメだよ」
隼都は隣へ駆け寄り、うずくまる恭祐の背中をさすった。
「怖かったね。怖かったよね」
隼都は震える恭祐の背中をひたすらにさすった。
しばらくして背中の震えが収まる。恭祐は我に帰り取り乱したことを小さく謝ってから、隣にいる隼都に向かって土下座をした。
「あの時、引き留められなかった事、助けられなかった事をどうしても謝りたいんです。自己満足だって分かってるし、謝ったって許してもらえないのなんて分かってるけど、許されなくても謝りたいんです。お願いします!」
恭祐は畳に頭を沈める勢いで下げる。鼻にイグサの香りが纏う。額を押し付けた畳がミシミシと音を出す。
「本当に大丈夫ですか」
恭祐の不安定な状態を見て、隼都は身を案じていた。
「はい!」
恭祐は頭を付けたまま大きく返事をした。
「続行不可と判断したら中止にさせてもらいますからね」
隼都はそう言うと、恭祐の相向かいへと戻り、胡坐をかいて座る。道具を両手に持つと、目を閉じ小さくお経のようなものを唱え続けた。恭祐は隼都の姿を吸い込まれるように見つめる。時折、『水橋凌汰』と言っているのは恭祐にも分かったが、その他はどういう意味のことを言っているのか分からなかった。
段々とお経は小さく聞こえなくなっていき、最後に深く息を吸う。
少しの静寂の後、次に目を開いた時には、
「佐々木くん」
凌汰になっていた。
恭祐は声が出ず、代わりに目から涙が溢れるだけだった。これが降霊なのかと目を奪われていた。
「久しぶりだね」
姿も声も隼都のままだが、そこに居るのは確かに凌汰だった。そこに居るとしか説明しようのない不思議な感覚だった。
「水橋くん、なの?」
「そうだよ」
優しい声に、三人がいた教室を思い出し、再び視界が滲む。
「会いたかった」
笑顔と涙が交じり、表情はぐちゃぐちゃだった。恭祐は唇を噛み締めた。
「俺も。って男同士でこんなの気持ち悪いかもしれないけど」
凌汰は恥ずかしそうに少し笑った。その笑い方はまさに凌汰だった。恭祐は凌汰を感じる度に涙の波が押し寄せて、こもるような声を出して泣いた。懐かしさの波は同時に罪悪感の波でもあった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。水橋くん、ごめんなさい」
恭祐は顔を下げ、ひたすらに謝った。本当はごめんなさい以外にも伝えたい言葉はあったはずなのに、準備してきた言葉ではなく、出てくる言葉はごめんなさいだった。
「どうして謝るの?」
凌汰の声に怒りは含まれていなかった。ただ純粋に疑問に思っているような声だった。
「だって、助けられなかった。俺には何も出来なかった」
苦しそうに恭祐が話した時、思い出したように凌汰から「あぁ」と低い声がした。恭祐はその声を聞くと心臓が掴まれたように、きゅっと小さくなった。
きっと怒ってる、許してもらえなくて当然のことをしたのだ、どんなに恨まれても受け入れようと膝の上に置いた手にぐっと力を入れた。
「佐々木くん、ごめんね」
凌汰の声は、恭祐が想像していたものとは違い、優しさと悲しさが混ざったような声だった。不意打ちを食らったように恭祐は、顔を上げる。
「なんで水橋くんが謝るの。怒ってないの?」
「怒らないよ。だって、こんなに悲しませるとは思わなかったんだ」
凌汰の弱々しく放たれた言葉に、恭祐の拳は力が入る。
「何で、何でそんな事言うの?」
「え?」
恭祐の震える声に凌汰の顔が変わった。
「悲しむよ。悲しむに決まってんじゃん。水橋くんがいなくて苦しいに決まってるじゃん。もっと一緒に居たかったんだよ。もっと生きてて欲しかったんだよ」
最後に恭祐は「生きてて」と息が続かなくなったような消えかかった声で言った。恭祐が俯いた時、凌汰は悲しく笑った。
「あんなに苦しそうな不安そうな子を見て、動かずにはいられなかったんだ。水泳にはちょっと自信あったんだけど」
最後に少し明るく冗談ぽく言った凌汰の自虐に、恭祐は声を大きくした。
「海とプールじゃ全然違うでしょ! それに荒れてる海だったんだから! 迷いがないところとかかっこいいって思ってたけど、もっと俺らのことも考えて欲しかったよ!」
言った後に我に返り、後悔と共に心拍数が跳ね上がる。
「本当にごめんね」
凌汰は、他には何も言わず、ただ謝るだけだった。恭祐は頭を横に振った。
違う、責めたいんじゃない。最期の会話で謝らせたい訳じゃなかった。
恭祐は後悔した。むしろ自分が謝るはずだったのに、こんなに悲しませるつもりじゃなかっただの、水泳には自信があっただの、恭祐は凌汰にもっと自分を大事にして欲しかったと思った。恭祐は自分自身を責めた。責めて、握りしめている拳で太ももを何度も叩いた。
「そんなに叩いたら痣になっちゃうよ」
「そうだね」
恭祐は太ももの叩く手を止めた。それから二人は喋らない。沈黙が二人の間を流れる。
「宏太、どうしてる」
静寂に現れた凌汰の柔らかい言葉は、恭祐の心臓を握り潰した。宏太が今どうなっているかなど恭祐には分からない。しかし、普通の状態では無いことくらいは恭祐も分かる。心配を掛けぬよう大丈夫だと言うべきか、それともそんな嘘は天から見破られてしまうのか、考える程どう答えていいか分からなくなった。答えられないことが答えだったのか、凌汰は「そっか」とだけ小さく呟いた。
野良猫の喧嘩、バイクの走行音、黄金の稲穂の絨毯が揺れ、雀が上空を舞う。窓の外で季節は確実に移ろいでいた。
鳥のさえずりが聞こえる中で、恭祐が口を開く。
「あの女の子助かったよ」
顔は窓から逸らさないままだった。
「本当? あぁ、良かった。ずっと気になってたんだよね」
恭祐は、本当に嬉しそうにする凌汰に苛立った。しかし、それが凌汰なのだと自分を落ち着かせる。
「水橋くんのおかげで、あの子は今日も笑っていられる」
「え?」
「あの子が救助された時に緑のビーチボール持ってたんだ。あれ、水橋くんが持って行ってたやつだよね?」
恭祐の言葉に凌汰は小さく「なんだ、気付いてたの」と俯いた。
「渡邊くんがね」
「え?」
顔を上げた凌汰の目には儚い恭祐の横顔が映った。
「本当に水泳上手いんだね」
恭祐が凌汰に微笑むと、凌汰は笑って「うん」と頷いた。
凌汰が目を閉じ、しばらく経って目を開けると、隼都に戻っていた。言葉を発さずとも顔つきや雰囲気だけで分かってしまうから不思議だった。恭祐はそれを隼都に伝えると、「凌汰くんのことをよく知っているからだよ」と言われた。
あっという間の三十分だった。用意していた言葉の十分の一も言えなかった。心残りが無いと言えば噓になる。無くならないことなんて一生無い。ただ、凌汰の本心が聞けて良かった。凌汰が恭祐の心を浄化してくれた。
『水橋くん、ありがとう』
心の中で凌汰にはもう届かないであろう言葉を呟いた。雲間から光が差し、辺りが明るくなった。
「ありがとうございました。最期に会話出来て良かったです」
隼都に対して深く頭を下げた。
「そう言ってもらえて僕も嬉しいです」
そう言って隼都もつられるように頭を下げた。
* *
翌朝、恭祐が学校の廊下を歩いていると後ろから名前を呼ばれた。振り向くと担任の橋本が眉間に皺を寄せ、肩で息をしていた。
「恭祐、学校来れたんだな。良かった」
橋本の息を整える姿に、駆け寄って来てくれたんだなと嬉しくなった。きっと昨日休んだことを心配しているのだろうと恭祐は思った。
「心配かけてごめんなさい」
恭祐は小さく頭を下げた。
「いいんだ。まだ、そんな余裕ないだろ。大人に気なんて遣うなよ。宏太もあんな状態だし」
橋本は視線を床へと落とす。
「あんな状態?」
恭祐が聞き返すと、橋本は目を丸くした。
「連絡取ってない? 宏太のお母さんから連絡あったんだけど、食事も取らず部屋から出て来ないらしい。俺も何回か家に行ったけどダメだった」
橋本から宏太の状況を聞いて、言葉が出なかった。今まで、どうしているのか気になってはいたが、家に行ったり、連絡を取ったりする勇気はなかった。何を話したらいいか分からなかった。掛ける言葉が見つからなくて、今まで避けてきてしまった。
「今日、家に行ってみます」
恭祐の目は力強かった。もう逃げない。心に寄り添えなかったら友達ではない。
「無理はすんなよ」
橋本は優しく微笑んだ。
掛ける言葉も見つからないまま、恭祐は宏太の家の前まで来ていた。門柱のインターホンを押した。はい、と女性の掠れた声がする。
「あの、宏太くんの友達の佐々木恭祐です。宏太くんはいますか」
渡邊くんと言いかけたところで、みんな渡邊だと気付き、下の名前に変える。
「ごめんなさい。今、宏太は凌汰くん家に行ってて」
「え?」
恭祐から変な声が出た。凌汰にお線香をあげているのだろうか。橋本は宏太の状況を部屋から出てきていないと言っていたが、あれから外に出れるようになったのだと少し嬉しくなった。
「ありがとうございます。行ってみます」
次にここから徒歩十分の凌汰の家へと向かう。招き入れられ、家を上がる。玄関ホールを抜けるとLDKに繋がる。LDKの一部である和室スペースに凌汰の遺影と位牌が飾られていた。いつの写真だろうか。こちらに向けられた笑顔が脳内で笑い声を再生させる。降霊した時を思い出し、ありがとうと心の中で伝えながらお線香をあげる。
恭祐がお線香をあげ終わると凌汰の母はロールスクリーンを下げ、和室を視界から消した。恭祐は不思議にその様子を見つめる。誰にも見られず、ロールスクリーンの後ろで凌汰は満面の笑みを浮かべている。
お線香をあげ、ひと段落したとき、辺りを見回しても宏太の姿は無かった。
「渡邊くんはどこにいますか」
恭祐が聞くと、凌汰の母は何も言わず、俯いて階段を指さすだけだった。微かに指が震えているようにも見えた。
「上、ですか?」
恭祐も同じように階段を指さし聞くと、凌汰の母は頷き、「宏太くんが」とだけ言った。恭祐が階段を上り出すと凌汰の母も後に続いた。恭祐を先頭にして折り返し部分まで上ると、二階の廊下に座る宏太の姿が見えた。
「でさ、俺に好き嫌い無くさせるとか言って、手料理作って来てくれたよな。でも、あれからなんだよ。嫌いなもの克服できるようになったの。そのなかでもさ」
宏太が廊下に座り、ドアが閉まっている部屋に向かって話していた。声色はとても明るく、恭祐が想像していた状況とは全く違っていて安心した。笑い声も交じり、元気そうだった。学校へ行こうと誘おう。そう思った時、恭祐の後ろですすり泣く声が聞こえた。後ろを振り向くと凌汰の母がハンカチを手に取り、目に当てていた。
「どうしましたか」
恭祐が聞くと、涙声で答える。
「まだ凌汰が生きていると思って話しかけているのよ。おかしくなってしまったみたいで」
「え?」
再び見る宏太の姿が、恭祐には辛く、顔を歪ませる。
もし、亡くなったことを理解しているのであれば、遺影や仏壇、お墓に向かって話すのが一般的だろう。しかし、今の宏太にはドアの向こうに凌汰がいると思っているのだろうか、延々とドアに向かって笑顔を向けていた。宏太の中ではどのように世界が映っているのか、想像が出来なかった。こんなことをされては凌汰の母も辛いだろう。
宏太を止めようと、恭祐が一段上ったところで、凌汰の母が止めた。
「ああなったら、もう聞かないですよ」
「どういうことですか」
睫毛が涙で束になった目で恭祐を諭すようにじっと見つめる。
一階に降り、凌汰の母が「ジュース無くてごめんなさいね」とダイニングテーブルにお茶を置いた。クリスマスパーティーの時は、少しきついくらいだったテーブルが今では寂しい。恭祐がありがとうございますと頭を下げ、凌汰の母は恭祐の相向かいに座ると、ふうと大きなため息をついた。
「ああなると聞かないってどういう意味ですか」
恭祐が聞くと、凌汰の母は今までのことを話した。
「宏太くんが家に来たの。『凌汰が待ち合わせに来ないから迎えに来た』って。私は最初どういう意味か分からなくて、凌汰はいないって言ったら、事故に遭ったのかもしれないって家を飛び出していこうとしたの。慌てて引き留めて『凌汰は亡くなったでしょ』って言ったんだけど、全然信じる様子が無くて。ふざけてるのかと思ったけど、ずっと真剣な目で凌汰の事を心配してるし、このまま闇雲に凌汰の事探しても宏太くんが危ないから、落ち着くまで家に居てもらおうと思って、上げたんだけど」
凌汰の母は和室の方を指さす。恭祐は和室の方を振り返り、空調で揺れるロールスクリーンを見た。
「あそこ閉めてるのはね、宏太くんがいるからなの」
不思議そうに見てたでしょ、と付け足す。
「どうして」
「宏太くん、家で暴れたの。家に上げた時は、そこは開いてたのよ。凌汰の遺影を見るなり、パニック起こしちゃって。お母さんに連絡したらすぐ来てくれて、落ち着いたんだけどね。後から聞いたんだけど、心的ストレスが強すぎて、脳が幻想を見せて宏太くんのこと守ってるみたいなの。凌汰が生き続けてる世界で宏太くんも生きているのね」
遠い目をして「私もその世界で生きていきたいなぁ」と小さく呟いた。その呟きが恭祐にはあまりにも苦しくて聞こえない振りをした。
「宏太くんにはね、波があるみたいで、現実が見れてる時と今みたいに凌汰はまだ生きてるって思ってる時があって、うちに来るのは幻想を見ている時。今日も凌汰は体調不良で部屋に閉じこもってるってことになってるの。でも、その二つの記憶は引き継がれないらしくて。二重人格みたいなものなのかな。現実を見ている時の宏太くんには、こうやって家に来ている記憶はないみたいで。宏太くんも苦しいのよね」
そう言って、お茶を一口飲む。恭祐は、宏太とはもう一緒に居られないのかもしれないと過った。別世界で生きていくようになってしまうかもしれない。寂しさと苦しさで胸が詰まり、お茶が喉を通らなかった。
「渡邊くんは幻想の世界で生きる方が幸せなんですかね」
恭祐は引きつったように笑う。そこは恭祐のいない世界だった。
「でも一生このままよ。凌汰に会えないのは変わりないの。宏太くんには現実を受け入れて生きて欲しいわ。凌汰の分もね」
宏太が望む世界とみんなが生きていく世界は違う。宏太だけ幻想の世界に行ってしまっては宏太が一人になってしまう。どちらの世界にも凌汰はいない。
「俺、渡邊くんを現実の世界に連れ戻したいです」
凌汰の母は切なく笑った。
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