7
「風が吹くとまだ寒いな」
宏太が肩をすくめた。風に吹かれ、桜の花びらが恭祐の頭に乗る。
「恭祐、ちょっと待って。桜付いてる」
桜が咲いていることも、隣に恭祐や凌汰がいることも、制服を着ていることも、宏太にとってはその全てがおかしかった。
「ちょっと、何で渡邊くん笑ってるの」
「ごめん、なんか笑えた」
三年生になれた。
今年もクラス分けの掲示板には多くの人が集まっていた。恭祐たちはその集団を少し下がったところから見ている。
「あ、俺見てくるよ」
恭祐が言った。
「待って」
宏太が呼び止める。恭祐は、振り向いて首を傾げる。
「一緒に行こうよ」
宏太の言葉に、恭祐は大きく頷いた。
集団に加わる。宏太の前にいた一人の男子生徒は宏太の存在に気付き、はっと息を吞んで一歩引いた。宏太は避けられたなと気付く。
いつもなら消えたくなって、その場から逃げていた。
「ごめんね。怖いよね」
宏太は男子生徒に対し、自嘲気味に笑った。
「いえ」
男子生徒が顔をひく。
「君が先にいたんだから」
そう言って宏太は目の前の場所を譲った。
「ありがとう、ございます」
男子生徒は少し驚きながらも軽く頭を下げ、宏太の前へと戻った。
確認した者から各自教室へと入っていき、人だかりはどんどん小さくなっていく。
「俺たちの名前どこだ」
宏太が目を細め、張り紙を見つめる。
「目、悪いの」
隣にいた恭祐が宏太に聞いた。
「あぁ、最近な」
そう答えた宏太の眉間に深く皺が刻まれていく。
「二組です」
宏太は声のする方を向くと、先程の男子生徒だった。
「え?」
「クラス二組でしたよ」
「あ、俺が?」
「はい」
「ありがとう。あ、ちなみに君のクラスは」
「四組でした」
「そっか」
男子生徒はそれだけ言うと四組の教室へと入っていった。宏太はその背中を見つめていた。その生徒と別々なことが残念だった。
「あ、渡邊くん。あったよ!」
恭祐が名前を指さしながら宏太を呼んだ。宏太が振り向くと「皆、一緒だった!」と恭祐は笑顔を向けた。
教室に入ると席のひとつひとつに出席番号と名前が書いてあった。年季の入った席に座る。
「皆さんおはようございまーす。席ついてくださーい。はいっ、今日から担任の橋本和哉でーす。よろしくお願いしまーす」
橋本は教壇目掛け、一直線で教室に入ってくると、やる気の感じられないトーンで挨拶をし、連絡事項もやる気なく進められていく。
「注目、礼。ありがとうございましたー」
橋本は自分自身で号令をかけ、誰も追いつけない速さで自己完結させる。一緒にやるという認識ではないらしい。形式としてやったまでの簡単な挨拶だった。橋本は資料をまとめ、教室を出る。
「やってくれたな」
教室を出たところで、宏太に引き留められる。
「びっくりした?」
橋本がいたずらっ子のような目をする。
「びっくりした。こんな、もう最後みたいなメッセージ書きやがって」
そう言って、宏太は凌汰から貰ったプリントをブレザーから出した。
「あれー、まだ持っててくれたの」
橋本に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「この時には知ってたの、担任になるって」
この時とは、最後の補習の時。宏太が手元のプリントを指し示し、橋本もそれを理解した。
「知ってたよ」
「言ってよ。俺、恥ずいことした」
「発表まで言えないことになってるんだって」
橋本は軽く「ごめん、ごめん」と宏太の肩を叩いた。
「まぁ、はっしーが担任で良かったよ」
プリントはまた、宏太のブレザーへと戻される。橋本は表情の緩みを必死で抑えた。
* *
長い廊下。等間隔で並べられた椅子。黙って座る生徒。恭祐もその中の一人だった。三年二組の教室の前でその瞬間を待っている。
恭祐は二者面談が嫌いだった。恭祐の番となり、大きく一呼吸し、教室へと入る。
中に入ると中央の席で橋本が資料を弄っていた。先程の生徒と恭祐の資料を差し替えているのだろう。生徒の情報を見ないように、恭祐は頃合いを見て橋本と向かい合うように座った。
「緊張してる?」
橋本は資料に目を通したまま聞いた。教師の中で橋本とは一番話すが、二人きりで話したことはなかった。
「いえ」
嘘をついた。
「なら良かった。じゃあ早速本題だけど、進路は決まってる?」
恭祐は焦りを感じていた。凌汰も宏太もやりたいことを見つけていた。自分だけ目標も無く時間を浪費しているのではないかと恐怖があった。
「決まってないです」
正直に言うと、橋本は手元の資料に書き込む。それが嫌だった。きっと「無し」等と書いたのだろう。覗き込めば見える距離だったが、見る勇気は無かった。
「就職か進学か、すらか?」
橋本が心配そうな目を向ける。そうやって見ないでくれと、恭祐は目線を下げた。
分かってはいる。今はもう目標を探す時期ではなく、目指す時期だと。
黙り込む恭祐を見かねて、橋本は質問を変える。
「じゃあ、好きな物とか事とか、何かある? なんでもいい」
視野を広げる為の質問だろう。恭祐は家、学校、ラーメン屋、身の回りのありとあらゆる風景を思い返した。
「好きなのは渡邊くんと水橋くんです」
恭祐はそれ以外思い付かなかった。楽しい記憶にはいつも宏太と凌汰の姿があった。
橋本は「ん?」と一瞬顔を歪めたが、資料に追記していった。
「友達か。恭祐は人が好きなんだな」
「いえ。人は嫌いです」
嫌いなものは、すぐに見つかる。オクラ、蜘蛛、ジェットコースター、そして人間。
人は自分を守る為に人を傷つける。今のコミュニティに居続けるために、悪を正とする。自分だけではないからと罪悪感が薄れていく。人は冷たい。冬の海よりも南極よりも。それは身に染みて感じている。
「でも、渡邊くんと水橋くんは違います」
「そうか」
橋本が何やら大きく文字を書いたが、恭祐はそこから目線を外した。
「恭祐、進学するのはどうかな? そこで自分のやりたい事見つけたりとか」
恭祐は、そんな考え方があるのかと思った。どうなりたいかなど持っていなくても次のステップに進めるのかと衝撃を受けた。
「考えます」
「おぉ、そうか。就職か進学かだけでも早めに決められるといいな」
橋本の顔がいつもより引きつっているように恭祐は感じた。
恭祐は、自分の好きなことを見つける為にバイトを始めた。もしかしたら、自分が気付かないだけで向いてることや楽しいと感じることがあるかもしれないと思った。
専用サイトでエリアなど条件を絞って検索してみると、数の多さに驚いた。職種の幅に感動した。その中のファミリーレストランの求人に『高校生・未経験者 大歓迎‼ アットホームな職場です‼』の文字と楽しそうに笑うスタッフの写真が掲載されていた。恭祐は自分のことを温かく迎えてくれるかもしれないと、応募ボタンを押した。
バイトの面接というものを初めて受けたが、こんなにあっさりしているのかと肩透かしを食らった。学校の面接の方がよっぽど怖くて緊張感があった。三日後には合格の連絡が来て、次の週末から入ることになった。
初めて入ったバックヤード。先輩が既に何人かいて、緊張しながらも恭祐は挨拶をした。返ってきたのは、軽い会釈や何て言ったのか分からない程小さく曖昧な声だった。募集ページとはまるで違う、酷く暗い空間だった。
店長がバックヤードに入ってきて、「今日からよろしく」と言うと、奥から誰かを呼んだ。店長も面接のとき程、柔らかい雰囲気ではなかった。三角と名乗る大学生くらいの女性が恭祐の教育係となった。三角は仕事が出来ていつも忙しそうだった。教えてもらうのはいつも後手後手で、いつまでも恭祐は仕事が出来ず、居づらくなって三週間で辞めた。
辞めると店長に伝えると、「すぐに辞めてもらっては困る」「皆に迷惑をかけていいのか」「そんなんでは社会でやっていけない」「根性が足りない」など色々言われた。後半はただの人格の否定だ。引き留めたいのか辞めさせたいのか、はたまたストレスの捌け口にされているのか。確かなことは、あの職場はアットホームではなかった。
恭祐の嫌いなものに、ファミリーレストランが追加された。
しばらく、バイトをするのは気が引けた。また自分に合わなかったらどうしよう、否定されたらどうしよう。バイトはしたいけど、辞めるときのことを考えたら動けなかった。
凌汰はクリスマスパーティー以来、時折、お昼にお弁当を作ってくるようになった。
恭祐と宏太はいつも一階の購買でお弁当を買っているが、凌汰が二人の分を作って来てくれることもある。それがいつも美味しくて、恭祐はお返しに毎回チョコのお菓子をあげていた。本当は毎日でも食べたいくらいだったが、凌汰の作る時間や持ってくる負担を考えたら言えなかった。
宏太は学費のためにバイトをしていた。一時期は三つ掛け持ちをして、寝る為だけに帰るという生活をしていたが、体調を崩したため掛け持ちは辞めた。恭祐はバイトを続けられる宏太を尊敬した。以前、何故そんなに続けられるのかを宏太に聞いたことがあった。宏太は一円でも多く貯めたいと言っていた。
恭祐とは熱量が違った。本気でやりたい事を見つけると人はこんなに頑張れるんだと感動した。恭祐はそれが羨ましかった。早くそっち側へ行きたいと思った。
恭祐はまたサイトを開き、募集ボタンを押した。
スーパーのレジ、本屋の店員、コンビニの店員、どれも三週間も続かなかった。辞める時に毎回人格を否定され、社会じゃやっていけないと言われた。これだけやっても、やりたい事と出会えない。全てが苦しい。店長の言う通り、社会でやっていけないのかもしれない。働くことが向いていないのかもしれない。高校を卒業するのが怖かった。
スーパー、本屋、コンビニ。恭祐は嫌いになった。
* *
「そして、三年生の皆さん。夏を制する者は受験を制す!」
体育館に反響する校長の声。
恭祐たちは、一昨年や去年に勝るスピードで夏を迎えていた。恭祐たちのクラスは三分の一程が就職で、残りの三分の二が進学を希望している。恭祐は一応、進学希望となっている。
熱中症対策で飲み物持参可となっている集会。校長が再び、壇上へ上がると生徒全員が覚悟を決めた。手短に話しますが、と話す話はいつも長い。要するに、は要していない。大事なことなので二回言いました、が大好物。その為、後に控えている教師たちの持ち時間が二分も無かった。誰も校長に言えないのか。
毎年思う、誰が覚えているのだろうか。恭祐は今年も覚えていないだろう。
恭祐の最後の夏休みはバイトをしない。大学進学に向け、受験勉強にシフトする。それぞれの忙しい夏休みが始まろうとしていた。
「今年が高校最後の夏だよね」
放課後の三人だけとなった教室。他の皆は早く夏休みにしたくて帰ったのだろう。凌汰の目には入道雲が写っていた。
「早いな」
宏太が高校生活を振り返るように、しみじみと言った。
恭祐は、この学校にいられる僅かな時間を想う。一年前までは、早く卒業したかった高校を今では名残惜しく感じた。
「ねぇ、最後に思い出作らない?」
凌汰は少し照れたように言った。「遊べなくなる前に」と付け足して、寂しくなった。
恭祐はこの時間が寂しく妙に胸を締め付けられた。もう色んな事に最後と付いてしまう。今から卒業のことを考え、流れて行ってしまう時間をかき集めてこの胸で閉じ込めておきたかった。
「何したい?」
宏太が聞く。
「やっぱり、やり残したくないからさ。去年出来なかったことがしたい」
凌汰の目には輝きがあった。本当に楽しみにしているんだと恭祐にも伝わってくる。
「海とかは? 去年言ってたよね?」
恭祐が言った。去年、海に行けなかったことが恭祐の中で心残りとなっていた。
「言ってた! 海行きたい!」
凌汰の目がより輝く。場所は海に決まった。日にちは三人の予定が無い日にした。友達と海。恭祐はその響きが嬉しかった。自分が行くのだ、友達と海に。一年前の自分に教えてあげたい。人生というのは捨てたもんじゃないなと思った。
* *
「海だー‼」
凌汰は海が見えるなり、両手をあげて叫んだ。周りにちらほらといた海水浴客が凌汰に視線を向ける。
「凌汰、はしゃぎすぎ」
「宏太はクールすぎるの。もっと感情出した方がいいよ」
そう言って、凌汰は手に持っていた浮き輪を宏太に被せる。宏太の腕は浮き輪で封じられ、うまく身動きが取れなくなっていた。
「俺、水入れてくるね」
恭祐が二人に声を掛ける。
「え、何に?」
浮き輪のせいで、綺麗な気を付けをしている宏太が聞いた。
「水鉄砲」
そう言って、両手いっぱいに抱えた水鉄砲を見せる。この日の為に、ホームセンターで買ってきていた。この時期になると種類が増え、どれにしようかかなり迷った。
「恭祐もはしゃいでんな」
宏太は凌汰と目を合わせ笑った。
この日は三者三様だった。宏太は自分の水着だけ持ってきていて、凌汰は浮き輪やビーチボールなど空気を入れる玩具を持ってきた。恭祐は黒いバッグを抱え、一番の大荷物だった。ちょっと休憩、と恭祐は階段に腰かける。
「何をそんなに持ってきたの」
ビーチボールを膨らます凌汰をよそに、浮き輪の呪縛から解放された宏太は恭祐のバッグの中身が気になった。恭祐は中を開ける。
「ビーチフラッグでしょ、バトミントン、フライングディスク、シャベル、水風船」
「すごい量だな」
次々と中から出てくる種類に宏太は驚いた。出すのも大変だが、仕舞う姿も大変そうに見えた。
「海、好きなんだな」
宏太の声が優しくなる。恭祐は片付けていた手を止めた。
「俺、海来たこと無かったんだ」
「え?」
「渡邊くんと水橋くんと、楽しい思い出作りたくて」
恭祐は残りの玩具を雑に仕舞った。
「これから遊ぶんだから仕舞わなくてもいいのに」
宏太が微笑むと「これやろうぜ」とバッグからバドミントンセットを取り出した。恭祐が頷くと、宏太はラケットとシャトルを持って凌汰の元へ走り、シャトルを凌汰に打ち付ける。
「いてっ」
シャトルが当たり、凌汰の目線がビーチボールから宏太へと移る。
「これやろうぜ。恭祐が持ってきた」
「今ボール膨らましてる途中なのに」
凌汰は膨らみかけたふにゃふにゃのビーチボールに栓をし、ラケットに持ち替える。緑のビーチボールがまるで漬物のようだった。
三角形に広がり順番に打っていく。砂浜に足をとられうまく返せず、そんな状況が恭祐たちには可笑しかった。誰かが返せないとみんなで笑った。何が可笑しいのか自分たちも分からない程、狂ったように笑っていた。
しばらくバトミントンをしていたが、走り疲れ、笑い疲れ、休憩することにした。百メートル先に腰の掛けられそうな丁度良い流木を見つけ、流木まで横一列で歩く。
「あれ、全然人いなくなっちゃったね」
凌汰の言葉で、でこぼこの砂浜から視線を上げる。完全にいなくなったという訳ではないが、ぽつりぽつりと人を見つける方が大変なくらいに減っていた。
恭祐は強い日差しの中、流木に腰掛け、押し寄せる波をぼんやりと眺める。額には汗がじんわりと滲んだ。
「こんなに誰もいないとプライベートビーチみたい」
凌汰がつぶやいた。そうだな、と宏太も相槌を打つ。
この景色が自分のものになったらどれほど良いだろうかと恭祐は思った。砂浜の白に青い海と空。視界いっぱいにどこまでも広がる。遠くなる程に海の色は深くなるが、空は淡くなっていくことに気付いた。自然とは、どこまでも大きい。自分が小さく感じる。そして足元を歩くカニはもっと小さい。
「かわいい」
恭祐は一生懸命歩くカニを目で追っていた。
「誰か助けて!」
突然の叫び声が辺りに響き渡る。慌てて声のする方に目を向けると、砂浜を一直線に走る女性がいた。女性はペットボトル二本と財布を抱え走っていたが、持っていた物を走りながら全て放ると、遠い海に向かって速度を増した。女性の向かう先を見ると、小さな人影が波によって見え隠れしていた。
恭祐は息をするのを忘れた。いつの間にか波が高くなっていたのだ。遠くから見ているだけでは分からなかったが、人の大きさと比較すると波の大きさがよく分かった。
「おい! 凌汰行くな!」
宏太の叫びで、恭祐は自分の隣の姿が無いことに気付いた。凌汰は溺れている人へ目掛けて、一心不乱に向かっていった。
「凌汰! 凌汰!」
風が強くなり、宏太が何度叫んでも、凌汰の耳には届かない。凌汰が遠くなっていく。
海に飛び込み、波が凌汰の上を覆いかぶさった。
恭祐は海から目を背ける。
「行くなー!」
宏太の枯れた声が恭祐の頭に響いた。
恭祐はスマホを取り出し、電話を掛けようとする。
「どこにかけたらいいの?」
検索をかけようとしても動揺で指が正しく動かない。ちゃんとした言葉が打てない。焦りからミスはどんどん大きくなる。とりあえず、どこでもいいから早く掛けよう、きっと繋いでくれるはず。恭祐は一番最初に思い付いた連絡先の一一〇番に掛けた。
「海で溺れてる人がいます、助けてください!」
その瞬間、恭祐の目は涙で溢れた。どんな状況か聞かれても、見えなくて答えられなかった。涙が邪魔で、どんどん溢れてきて、手で拭っても視界は滲んだままで、涙なんか無くなれと強くこすった。何度も何度も、痛いくらいにこすった。目が取れるのではないかと思うくらいだった。取れてもいい。役割を果たせば取れてもいい。今見れれば取れてもいい。それでも前は見えなかった。涙を堪えようと必死で我慢した。それでも、勝手に溢れてしまう。ダメだダメだと焦る程、涙は込み上げ、しゃくり上げるように泣き、上手く喋れなくなった。電話なのに、声しか伝わらないのに、大丈夫ですよ、落ち着いてください、と電話の向こうの声を聞くことしか出来なかった。電話相手に恭祐は何度も頷く。大きく大きく頷いた。
何故喋れないのか、泣くだけなのか。恭祐はどうしようもなく悔しかった。自分自身を役立たずだと感じた。
あの光景を見た時、恭祐は怖さに震え何も出来なかった。海へ向かっていく凌汰の後ろ姿が色濃く再生される。
「凌汰!」
隣で宏太が叫ぶ。宏太が海に向かって弱々しく走っていった。足元がふらふらとして何回も転んだが、その都度、立ち上がり海に向かっていった。
『やめて。渡邊くんまで行かないで。』
しゃくりあげて泣く恭祐は、心の声で宏太に叫ぶ事しか出来なかった。
「君は追いかけちゃだめだ」
体格のいい男二人が宏太を抑える。宏太は抗うが、力の弱い抵抗は簡単に抑えられた。宏太は砂浜に崩れ落ちた。言葉にならない声を発した。叫びに近かった。
恭祐と宏太は、地元のサーファーだという男たちに付き添われていた。宏太に限っては、目を離すと海に飛び込んでしまうからと、腕を掴まれていた。
大きなサイレンが近づき、止まる。パトカー、救急車、消防車が並び、辺りを赤いランプで照らす。オレンジの隊員は一目散に海へと向かい、警官がサーファーの元へ駆け付けた。
「警察です。当時の状況を教えてください」
恭祐と宏太に代わり、サーファーが説明をする。警察は都度、無線で誰かと情報の共有をしている。
恭祐はふと目線を移すと、あの時助けを求めていた女性の姿を捉えた。彼女の方にも警察がいて、色々話しているようだった。ハンカチで涙を拭い、時々海の遠くを眺める。そして両手砂浜に着け、頭も砂浜へと着けた。
酸素ボンベを付け海へ潜っていく隊員、船上から捜索をする隊員、地上でドローンを操作する隊員。二人の捜索に多くの人が関わっていた。
大規模な捜索を見ていると、凌汰はいなくなってしまったのではないかと恭祐は思った。
こんな大人数で探してもいないのだ。きっとパラレルワールドか、何か別の世界にワープしてしまったのだ。恭祐は強く思った。
どのくらい時間が経ったのだろうか。近くにいた警察官の元へ無線が入る。
『一人、救助しました。救急車の準備お願いします。手には緑のビーチボールを抱えていて、浮かんでいるところを発見しました。怪我は……』
無線を聞いて、恭祐の心臓は一瞬喜びかけて止まる。確実にどちらかはまだ海の中なのだ。一分一秒でも早く助かれと願う。それと同時に、運ばれてくるのは凌汰であれとも強く願う。
隊員が、担架に乗せた救助者を救急車まで運ぶ。その担架へ恭祐と宏太は駆け寄る。女性も警察に付き添われ駆け付けた。
隊員の隙間から見える、大丈夫ですかと絶えず声を掛けられている人は、手に緑のビーチボールを抱えた少女だった。
「えっ」
恭祐も宏太も言葉を失う。少女の姿を見た瞬間、足が動かなくなる。担架が目の前を流れていく。
凌汰ではなかった。その事実が恭祐と宏太には受け入れられなかった。
救急車へ目を向けると、「あゆみ! お母さんよ! 分かる? あゆみ!」と、女性が救助者に向かって、叫びに近い声を掛け続ける。その姿を見ると、先程の光景は見間違いではなかったと恭祐は苦しくなった。
苦しさに胸を締め付けられ、胃を握り潰される。苦しくて苦しくて、恭祐は吐いた。
サイレンが耳を刺した。やがて薄れるサイレンに、取り残された寂しさを感じる。
もう少女は救助されたよ、だから出ておいで。恭祐は胃液の気持ち悪さの中でそんなことを思った。
宏太は凌汰のバックから荷物をひとつひとつ取り出していく。最後にはバックごと逆さにひっくり返し、宏太は力尽きたようにしゃがみこんだ。
「さっき運ばれたのは、本当に少女か」
宏太が焦りと願いと怒りのこもった声で、近くにいた警察官に聞く。その緊迫した姿に警察官は少し身構える。
「はい。十三歳の少女ですが……」
弱々しく答えた警察官に宏太は少しイラつきを見せて言った。
「あの緑のボールは凌汰のだった。だから、さっき運ばれたのは凌汰の筈だ。隊員が間違えてる。もう一回聞いて欲しい」
息を吸う間もなく、矢継ぎ早に訴えた。
恭祐は、散らかった凌汰の荷物に目をやった。荷物の中にビーチボールだけが無かった。膨らみかけのふにゃふにゃのビーチボールだけが。
「お願いします。お願いします」
宏太は頭を地面につけた。掠れ消えていく声で何度も警察官に頭を下げた。
その時、警察官の無線からノイズ交じりで音声が入る。その音が恭祐と宏太の耳にも入った。
『もう一人を発見しました』
恭祐と宏太は無線に耳を澄ますことしか出来なかった。ノイズで聞き取れない部分も多かった。
恭祐は、まず見つかった事が嬉しかった。視界が滲む。早く病院へ連れて行ってくれと焦る。
遠くから指示の飛び交う声が聞こえ、目線を向けると、担架の周りに大勢の人が集まっていた。大きな集団が救急車へと急ぎ向かっていく。恭祐と宏太も急いで駆け寄る。処置に当たる隊員の背後から僅かに見えたのは、酸素マスクに点滴を付け、青ざめた顔色の凌汰だった。
「凌汰! 凌汰!」
宏太は、凌汰だと分かると大声を出し、隊員に抑えられながら、凌汰をひたすら呼んだ。凌汰は、隊員に囲まれた中で変わらずに目を閉じたままだった。
「一緒に乗りますか」
救急隊員の言葉に恭祐と宏太は迷わず飛び乗り、指定された病院まで向かう。
恭祐は目の前で横たわっている人を凌汰だとは思えなかった。数時間前まで一緒にはしゃいでいた凌汰とは結び付かなかった。あの笑顔や笑い声を脳内でひたすら繰り返した。それでも目の前に横たわる凌汰があんな風に笑うとは思えなかった。
「凌汰」
宏太が凌汰の手を取り、両手で包む。
その瞬間に宏太の目からは涙が溢れた。ダムが崩壊したかのように、止まらなくなった。
「こんなに、冷たい……」
宏太は自分の熱を送るかのようにぎゅっと手を握った。
「凌汰。頑張ったね」
宏太の声が苦しかった。
恭祐は、握りしめられた手をじっと見ていた。目から涙が零れ落ちたことにも気づかず、その姿を目に焼き付けようと思った。
宏太はだんだんと泣きじゃくるだけになった。祈りや願望が涙として溢れるばかりだった。そんな宏太につられ、恭祐も泣いた。生きていてと泣いた。
手術室へと運ばれ、手術中のランプが点灯する。外で待つ恭祐と宏太の間に何一つ会話は無く、ただ無気力に座って時間を過ごした。
影が方向を変え、ランプが消灯し、手術室の扉が開く。出てくる医師に気付くと、恭祐と宏太は気力を振り絞り、医師まで歩み寄る。
「最善は尽くしましたが……」
医師の一言は重く恭祐の心に覆いかぶさった。
「それって」
「午後六時二十八分、死亡確認致しました」
そう答えると医師は帽子を外し、一礼して去って行った。帽子には色濃く大きなシミを作っていた。
宏太はその場で崩れ、大声を出して泣いた。悲痛な叫びだった。
「凌汰は死んでない! 凌汰は死んでない!」
宏太は閉じた手術室に向かって何度も叫んだ。
恭祐は、立ち尽くした。目の前が真っ暗になった。前も後ろも上も下も分からない。今、目が開いているのか閉じているのかも分からない。真っ暗な中で気付けば尻もちをつき、床に頭を打ち付けた。痛かった。心がとてつもなく痛かった。
凌汰がいない。
あの優しさにも料理にも、もう二度と触れられない。さっきまで隣で笑っていた、今までの当たり前が簡単になくなった。
普段、神様を信じない恭祐もこの時ばかりは神に縋った。
神様どうかお許しください、水橋凌汰を生き返らせてください。死んだなんてのは何かの手違いであってください。今すぐに心臓がまた動き出してください。それか、私、佐々木恭祐の寿命を分け与えてください。神様、どうか、どうか、水橋凌汰をまだ死なせないでください。
恭祐は何度も何度も神に訴えた。
あの瞬間からやり直せないか、タイムマシンであの時に戻れないか。海に向かっていくのを止めていれば。海に遊びに行くのを止めていれば。
恭祐は、海を提案したことを後悔した。自分が言わなければ、こんなことにはならなかったと自責の念に駆られた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
手術室へ向けて、恭祐は土下座をした。凌汰まで届くように何度も何度も額を床へと打ち付けた。
血の海になるまで。
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