6

 補習三昧だった夏休みが終わり、二学期も数週間が過ぎた。橋本の特別補習が再びスタートし、いつものように教室で橋本を待っている。すると、宏太が「ちょっと電話してくる」と教室から出て行った。

「別にここで電話してもいいのに」

 教室を出て行く宏太の背中を、凌汰は頬杖を突きながら眺めていた。

「聞かれたくないことなんじゃない」

 恭祐も宏太の背中を眺める。

「彼女との電話とか?」

「え! 彼女いるの?」

 恭祐は思わず前のめりになる。

「知らない」

 恭祐は、当てずっぽうかと安堵する。この急上昇した心拍数を返してほしいと思った。一瞬だけ鈴の顔が浮かんでしまったことが恭祐は気に入らなかった。

「えー! 佐々木くんってぇ、恋バナとか好きなのお?」

 凌汰は恭祐をからかうように言った。恭祐は恥ずかしくなり、早口になる。

「違うって。違うけど、ただ、いてもおかしくないじゃん。女子ってやんちゃな方が好きだって言うし、喧嘩が強い方が男らしいっていうかさ。渡邊くんって、中学時代はヤン、じゃなくて、喧嘩とか強かったんでしょ? やっぱりさ、そういう」

「ちょっと待って」

 突然、凌汰が恭祐の話を遮る。

「え?」

 話が止まると共に、恭祐は自分が酸欠だったことに気付き、深く息を吸った。

「それ、本当に宏太のこと? 宏太は喧嘩なんて一度もしたことないけど。それに、虫だって怖がるくらいだし」

「え?」

 恭祐は開いた口が塞がらなかった。頭が追い付いていかない。

「どういう世界線?」

「冗談で言ってないって」

 凌汰の嘘のない眼差しが恭祐の頭を余計にかき乱した。あの〝渡邊宏太〟が崩れていく音がする。

「それって、俺のことかなあ」

 のんびり口調の凌汰の発言に、恭祐は「はい?」と変な声を出した。

「俺、中学時代はあんまり良い生徒じゃなくてね。先生には沢山迷惑かけたんだ」

 淡々と話す凌汰の姿が信じられなかった。

 頭の中を何周もして、水橋凌汰が本当の渡邊宏太なのかもしれないという結論に至った。

 本当の渡邊宏太とは、本当に意味が分からないが、とりあえず噂の数々を凌汰に聞いていくことにした。

「中学生ながらにして高校生を倒したって話は?」

「ああ、そんなこともあったね」

「売られた喧嘩は絶対に買うっていうのは?」

「あの時は、本当にお恥ずかしい」

「倒した相手を病院送りにしたって」

「それは本当に反省してる。やり過ぎたって」

 恭祐は信じられなかった。渡邊宏太の噂が全て凌汰に当てはまった。目の前で微笑む凌汰が噂の人物だったとは少しも想像が出来なかった。

「それにしても詳しいね。宏太から聞いた?」

 平然としている凌汰に「あ、え? いや」と分かりやすくたじろぐ。

 恭祐には疑問が残った。この話はどれも噂で回ってきたものだった。だから目を合わせるなと周りは怯えていたのだ、渡邊宏太のことを。

 凌汰に噂を知っているような素振りは無かった。もしも聞かれていたら、今のように自分だと素直に言っているだろうし、本当は凌汰だったという噂も広まっているだろう。

 いや、自分が知らないだけかもしれないという考えも頭を過る。しかし、あのクラスの距離感からして、今も尚、噂の対象は渡邊宏太のままだろう。

 それでは何故、宏太がヤンキーだと恐れられるようになってしまったのか。凌汰は自分の過去を隠すような素振りは無かった。ということは、噂がどこかで伝言ゲームのように変わってしまったのか。

 事実と異なる噂で、クラスから受け入れられず、孤立した日々はどれほど辛く苦しく寂しいものか。もしかしたら、自分自身を責めていたかもしれない。恭祐自身がそうだったように。

 いずれにせよ、恭祐も偽の噂を信じ、宏太を恐れていたことは事実。この気持ちを抱えたまま友達でいてはいけない、友達の資格がないと思った。



*   *



「何、話って」

「渡邊くん、ごめんね。急に呼び出して」

 恭祐は補習終わりに宏太を旧校舎の屋上へと呼び出した。

「真剣な顔してどうした。怖いぞ」

「ごめん!」

 恭祐は宏太に向かって深く頭を下げた。宏太は警戒し、一歩後ずさりする。

「謝らなきゃいけないことがあって。ずっと渡邊くんのこと、勘違いしてた」

「勘違い?」

 一瞬だけ宏太の顔が歪み、恭祐の心臓が小さくなる。

「ずっと渡邊くんのこと恐れてた。昔強いヤンキーだったって聞いてたから。今は全然そんなこと思ってないんだけど。でも、話すうちに優しい人なんだって気付いて。そしたら、本当はヤンキーじゃないって知って。渡邊くんのこと傷付けて、孤独にさせた。こんな気持ちのままじゃ一緒にいれないと思ったから。噂を鵜呑みにして勘違いしてた。本当にごめん!」

 恭祐はもう一度、今度は勢いよく頭を下げた。

「もういいよ。顔上げて」

 宏太の声はいつも通りだった。

「でも……」

「誰から聞いたの。ヤンキーじゃないって」

「え? 水橋くんだけど」

 恭祐は宏太の言葉が気になった。宏太は誰が嘘を流したのかではなく、誰が本当の事を言ったのかを気にしていた。

 恭祐が恐る恐る名前を出すと、宏太の表情が一気に変わった。

「凌汰が言ったのか? 他には何て?」

 早口で詰め寄る宏太に圧倒され、今度は恭祐が一歩下がった。

「それは自分のことだって言ってた」

 恭祐は何とか言葉を絞り出す。その言葉を聞いた瞬間、宏太は膝から崩れ落ちた。

「もう終わりだ」

 震える宏太の元へ、恭祐は駆け寄る。

「大丈夫だよ。ヤンキーじゃないって皆分かってくれる。誤解は少しずつ解いていこう」

 恭祐は宏太の背中を優しくさする。すると宏太は、違うと首を振った。

「俺だ。俺からヤンキーは自分だって言ったんだ」

「え?」

 恭祐のさする手が止まる。

「頼む。このこと誰にも言わないでくれ」

 生暖かい風が二人の間をすり抜けていった。



*   *



「ごみだから捨てといたー」

 それは宏太に向けられた言葉だった。

 中学時代のあだ名はごみ。宏太=ごみ。

 宏太はごみ箱を漁り、私物を回収する。ごみ箱へ捨てられるだけでなく、宏太の席や下駄箱にごみが捨てられることもあった。

 全てが狂ったのは、バスケ部に入ってから。宏太のことが気に入らなかったのか、主犯は剣崎(けんざき)という一年上の先輩で、部活以外の時間は剣崎とよくつるんでいた同級生たちが剣崎に変わって宏太に嫌がらせをした。

 宏太は、この事を誰にも話さなかった。自分で決めて転部した手前、助けを求めるなんて恥ずかしくて出来なかった。

 そんな時、凌汰が目の前に現れて剣崎たちを殴っていった。宏太には、凌汰が輝く救世主に見えたが、相手が悪かった。

 当時、剣崎は半グレ集団の一員だった。剣崎の知り合いを名乗る高校生が、代わる代わる凌汰の元を訪ね、凌汰は顔に傷をつけてくる日も増えた。

 三年で宏太と凌汰は同じクラスとなったが、進級して早々、凌汰の席は教室から消えた。

 凌汰は特別支援学級へと移った。普通学級が六クラスある為、そのクラスは『八組(はちくみ)』と呼ばれていた。七組ではなく、八組。ひとつ空けることで、一緒ではないと線引きされているようだった。

 八組は、手足に軽い障害を持った生徒や周りと馴染めず精神を崩してしまった生徒、不登校の生徒など様々な事情を抱えた生徒が通う少人数のクラスだった。その中に学校生活及び私生活の見守りが必要とのことで凌汰の名前が加わった。

 八組担任の阿部(あべ) 湊(みなと)は凌汰の事をとても気にかけていた。阿部は「ひとつだけ約束して。その手は誰かを守るために使って」と言い、凌汰の手を優しく包んだ。

 八組に移ってから、凌汰の学校に来る回数も増え、生活は前のように戻りつつあった。放課後に宏太が八組の教室に来ては、凌汰と阿部の三人で一緒に宿題をしたり、くだらない話をしていた。

 進路を決める時期に入り、凌汰は高校に行かないと言い出した。それでも阿部は、高校だけは行っておきなさいと、勉強や面接、マナーを教え、凌汰も受験を決心した。

 受験当日、阿部は会場で凌汰を待っていたが、いつまで経っても来なかった。

 週明けの教室には、顔に傷を作った凌汰の姿があった。阿部は問いただしたが、凌汰が口を開くことは無かった。

「約束したよね?」と阿部が凌汰の手を掴むと、その手を振り払い、教室から出て行った。

その日以来、凌汰は学校へ来なくなった

 それからは、阿部は授業内容をノートにまとめ、家へと毎日届けた。

 その日も、いつもと同じように凌汰の家を訪ねると、家から出てくる凌汰とばったり会った。阿部は凌汰を見つけるや否や、「ごめん!」と頭を下げた。

「聞いたよ、受験の日のこと。凌汰は約束、ちゃんと守っててくれたんだね」

 阿部はそう言うと一通の封筒を見せた。凌汰が首を傾げる。

「あるおばあさんが学校に手紙を送ってくれたんだ。その子に渡して下さいって」

 阿部はノートと一緒にその手紙を渡した。その内容はひったくり犯を捕まえてくれたこと、孫の誕生日プレゼントが無事に渡せたこと、そして最後には『あなたの幸せを願っています』と書かれていた。

「また、学校でね」

 阿部は微笑むと一礼して帰っていった。

 次の日、凌汰は学校へ行くと、高校に行きたいと阿部に伝えた。阿部は少し驚いた表情を見せたが、一枚の資料を渡した。

「ここは先生の知り合いがいるんだけどね、優しくて悩みとかも聞いてくれるいい先生なんだ」

「阿部先生がそう言うなら間違いないね」

「え?」

「だって、阿部先生がそうだから」

 凌汰の言葉に阿部の心はじんわりと温かくなった。



 受験も無事に合格し、高校に入学した。宏太も凌汰と同じ高校を受験し、同じクラスとなった。

 クラスメイトの一人が宏太に話しかける。

「なぁ、お前ってあいつと中学一緒だったんだろ?」

クラスメイトは遠くにいる凌汰を指さす。

「あぁ」

「水橋、だっけ。剣崎ボコボコにしたって本当かよ? 半グレで有名な奴だぜ? 他にも、不良グループを手当たり次第にボコボコにしたとか、やべえ奴じゃん!」

「え?」

「皆、言ってるぞ」

 教室を見渡すと、彼の言う通り、教室中の人が凌汰のことを白い目で見ているようだった。

 このままではまずいと宏太は焦った。凌汰の中学時代を皆が知ったら、きっと凌汰と距離をとるだろう。凌汰が辛い思いをするのは、もうこれ以上耐えられなかった。宏太は、事の発端である責任と自分の無力さを感じた。そして、自分なりに凌汰に出来る事を考える。

「何言ってんだよ、そんな訳ないだろ」

「けどさ、俺の中学まで話が」

「それは、俺だよ」

 宏太の言葉に、相手の足が見ても分かるほどガクガクと震えだした。

「その話は全部俺のことだ。どこの誰の事を間違えてんだ。いいか? 今の話は絶対に水橋にすんじゃねぇぞ」

 演出として、少し声のトーンを下げた。

「は、は、は、はい。わ、わかりました!」

 彼にはかなり効いているようだった。

「次、目合ったら病院送りだ」

 最後に不敵な笑みもプラスした。我ながらいい出来だと宏太は満足だった。

 これで凌汰が孤立することはないし、自分の過去に苦しむことも無い。

 こうして渡邊宏太というキャラクターが出来上がっていった。



 入学して数日経った頃、凌汰と一緒に廊下を歩いていると「君たちが渡邊くんと水橋くん?」と後ろから声を掛けられた。

「先生、誰ですか?」

 振り向くと白衣を着た教師が手を振っていた。入学してから日が浅く、教師全員の名前は覚えられていなかった。

「橋本和哉です。阿部先生は知ってる?」

 すると凌汰は、はいと声を上げた。

「俺は阿部先生の知り合いなんだ。二人の事はよく聞いてるよ」

 宏太は、滲み出る優しい雰囲気が阿部と似ていると感じた。

「橋本先生は何の教科の先生ですか? 数学? 理科?」

 凌汰は興味津々に聞いた。

「国語だよ」

 橋本は満面の笑みで答えたが、凌汰は不思議そうな顔で橋本を見る。不思議そうな顔で見られていることを不思議そうに橋本も見ていた。

「国語の先生って、白衣着るんですね」

 宏太が言うと、びっくりした様子で自分の着ている服を見た。

「長谷川先生の着てきちゃった」

「あぁ、人のだったんですね」

「だって寒かったから」

「あぁ、上着感覚で」

「いっぱい持ってるから、一枚いいかなぁって」

「無断で借りてますよー、この先生」

 白衣を着た国語教師。それが宏太と凌汰の、橋本に対する第一印象だった。



*   *



 スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋などという言葉があるが恭祐にとっては、ラーメンの秋だった。ラーメン屋「great」では、秋の味覚フェアとして栗や林檎、梨、葡萄といったフルーツをつかったデザートを数多く取り揃え、内装も秋を感じさせるものとなっていた。

「あれ、今日も宏太いないの?」

 お決まりのカウンター席へ左から凌汰、恭祐と座ると店長が不満そうに言った。「今日も二人なんです」と凌汰が答える。

 最近は補習が終わると、宏太は「予定があるから」と、一人で先に帰ることが多くなった。

「いや、逆か。あんたらが来過ぎなんだよ」

 他にやることあるだろ、と付け加えると店長は味噌ラーメンを二人前、恭祐たちの目の前へと出した。

「あれ? 俺らまだ頼んでないけど」

 恭祐はそう言いながらも箸を片手に食べる気満々でいた。

「さっき注文ミスっちゃったんだ。良かったら。いや、絶対食べて」

「絶対? 強引だなー」

 凌汰はそう言いながらも、両手を合わせ食べ始めた。

「あぁ、ありがとう。いやー、良かった。正直、新メニューの試作でラーメン食い飽きてんのよ。こんなん頼めるの君たちくらいしかいないし。ほんっとうに助かる」

 店長は、食べ進める恭祐と凌汰に向かって拝んだ。

「俺はラーメン全然飽きないです」

 凌汰は水を一口飲む。

 店長が凌汰のことを、ラーメン屋に向いていると褒めると、「食べる専門です」と凌汰は再びラーメンをすすった。



*   *



 補習終わり、宏太が急いで帰り支度をする。

「先行くわ」

「最近どうしたの」

 凌汰が聞いた。宏太が足を止める。

「どうって、どうもしないけど」

 宏太の返しが恭祐には少し冷たく感じた。

「先に帰るし、理由は言わないし、よそよそしいし。なんか隠してる?」

「何もないよ」

 凌汰の言葉に宏太は、素っ気なく答え、教室を後にした。

 恭祐は、屋上で言っていた宏太の言葉が頭に浮かんだ。もしも、そのことが原因で二人の間をぎこちなくしているのだったら、すぐに弁解しようと思った。変わらずに凌汰のことを守れていると伝えなければ、という使命感が恭祐の中で働いた。恭祐は教室を飛び出し、宏太を追いかける。

「待って!」

 廊下の先に小さく見える宏太を呼び止める。振り向いて目が合うと、宏太が来た道を引き返してきてくれた。恭祐は走り寄り、息を整える。

「この前の屋上のことなら気にしなくて大丈夫だから。警戒しなくていいから安心して」

「ありがとう。俺、そんな風に見えてた?」

 宏太からは思ってもみなかった返答だった。

「あれ、違う?」

「違った。けど、ありがとう。それ言う為に走ってきてくれたんだろ?」

 宏太が恭祐の来た道を指さす。恭祐はその方向を振り向くと、恥ずかしそうに「まぁ」と答えた。

「じゃあ、また明日」

 宏太はそう言うと、片手を上げた。

「あ、うん。また明日」

 恭祐もつられて片手を上げる。宏太は微笑むとくるっと向きを変え、学校を後にした。



*   *



 宏太と一緒に帰らなくなって、一緒にラーメンを食べなくなって、三週間が経った。街の木々は葉を落とし、寂しいものとなった。

 今日は恭祐の好きな漫画の発売日で、買い物に凌汰が付いて来ていた。本屋へ寄った後に色んなお店が見られるようにと、ショッピングモールを選んだ。

「ごめんね。付き合わせちゃって」と恭祐は紙袋を両手に提げて言った。

「ううん、全然。俺も漫画好きだし楽しかったんだけど、発売日だって聞いてたから、てっきり買うのは一冊だけかと思ってた」

「俺、買い物は一回で済ませたくて、一度に沢山買っちゃうんだ」

「本屋では見ない金額だったね。大人買い?」

「ううん。衝動買い」

「心配になる」

 本屋から百メートル程歩いたところで恭祐が疲れたと、通路に設置されている休憩用のソファへ腰掛ける。

「こういうぼーっとした時間で人間観察するのが好きなんだよね」

 すれ違う人々を見ながら恭祐が言う。

「分かる。自然と見ちゃうよね」

「あんまり見すぎると変に思われるから、コツは三秒見たら逸らすこと」

 恭祐が得意そうに言うと、凌汰と一緒に人間観察を始める。

「あれ?」と凌汰が何かに気付き、ソファに持たれていた体を起こす。

「どうしたの?」

「ちょっとあれ、宏太じゃない?」

 凌汰の目線の先を見ると、遠くに宏太らしき人物がいた。その人物は誰かと一緒に来ていて、隣にいたのは、女性だった。

「誰だ、あれ。どこかで見たことあるな」と凌汰が目を細める。

「鈴ちゃんだ」

 恭祐の発した言葉は弱々しかった。何故、一緒なのか。まさかデートか。そこまで進展していたのか。最近一緒にいないのは、鈴と過ごすためか。誰にも言えず、心に積もる。そのまま、二人はお洒落なキッチン雑貨用品のお店に入った。仲良さそうな姿は、まるで二人の未来について話しているようだった。

「いつの間にあんな仲良くなったのかな」と、凌汰が恭祐の隣でぼそっと呟く。

 毎週ラーメン屋に通い、鈴と会っている恭祐にとって、宏太と鈴がいつ仲良くなったかなど恭祐に分かる筈がなかった。恭祐は悔しく、自分が情けなかった。この数か月、恭祐と鈴の距離は縮まらなかった。デートはおろか連絡先すら聞けていなかった。恭祐が溜息をつくと、凌汰に肩を叩かれる。

「佐々木くん、見過ぎ。コツは三秒まで」

「いや、これは人間観察じゃ」

「人間観察でしょ、見てるだけなら」

 そう言うと、凌汰は立ち上がり「今日は帰ろうか」と自分のバッグを持った。

「他のところも見たいんじゃないの」

 恭祐は、凌汰を見上げる。

「いいよ。今日はもう帰ろう」

 凌汰は優しく笑うと、半分持つよと紙袋を持った。「本って重いね」と凌汰が言うと、恭祐は「楽しみが詰まってる」と返した。「じゃあ重いのも悪くないね」と凌汰が笑う。「悪くないね」と恭祐は返す。心がすっと軽くなった気がした。



*   *



 鱗雲の隙間から濃い青色が顔を覗かせる。

「雲って意外と速いんだね」

 お昼休みの屋上。凌汰が寝転んで空を見上げる。冷たい空気の中で暖かい陽が差し、ウトウトしている。お昼を食べ終わり、残りの休み時間をぼーっと過ごしていると、恭祐の視界の片隅で宏太が鍵を握りしめたり手で弄ったりと、落ち着きがなかった。

「その鍵は何?」と恭祐は宏太に聞いた。

「凌汰に渡そうと思って」

 宏太は照れ隠しの為か、凌汰の前へ勢いよく差し出した。

「え!」と恭祐の大声が響く。まずいと思って手を口に当てたが遅かった。

「おい! 変な想像すんな、思春期!」

 宏太は恭祐を睨む。

「まだ、何も言ってないじゃん」

「顔がそう言ってんだよ」

「えぇ? だってまだ高校生ですよぉー?」

「だから、それをやめろって!」

 恭祐と宏太の言い争いの中で、凌汰は平然と鍵を受け取り凝視した。

「これ、コインロッカーの鍵?」

 凌汰が鍵に付いたキーホルダーを見て言う。

「え? 家じゃないの?」

「家なわけねぇだろ」

 宏太は恭祐に対して、何を言ってんだと言わんばかりの表情だった。

「教室で渡してくれても良かったんじゃ?」

 凌汰は鍵をブレザーのポケットへ仕舞った。

「こいつみたいに勘違いする奴がいるだろ」と宏太は親指で恭祐を指す。

「自分だって思春期じゃん」

 恭祐はそう言い、ニヤっと宏太に笑うと、「おい!」と怒られた。

 宏太はひとつ咳払いをする。

「凌汰、今日誕生日じゃん。プレゼント渡そうと思ったんだけど、ちょっと大きくてさ。俺、凌汰ん家と近いし直接渡そうかなとも思ったんだけど、バイトあって直接は渡せないかなと思ったんで」

 宏太はそう言い、これです、と鍵を指す。

「バイト始めたんだね」

 恭祐は宏太に言った。恭祐はバイトのことなど全く知らなかった。

「うん。二カ月くらい前に」

「何それ、聞いてない」

 凌汰が驚く。その言葉に、凌汰も知らなかったのだと恭祐は思った。

「凌汰が店持ちたいって言った時、そんな明確な夢持ってるって知らなくて。凌汰の料理美味いし、応援したいなと思った。それ見てたら、俺も夢の為に動こうかなと思って」

 宏太は照れ隠しで「まぁ、そんな感じ」とふざけて付け加えた。

「夢って何?」と凌汰が聞くと、「別にいいじゃん」と、宏太がむず痒そうに答える。

「なんで? 俺も言ったんだから言ってよ。応援させて」

「そうだよ! 教えて、教えて!」

 凌汰に続き、恭祐も煽るように言うと、宏太はしょうがないと諦めたように言い放った。

「あぁ~、もう! 美容師!」

「何その言い方、小学生みたい」

「笑うなよ」

 三人で笑い合う、この時間が温かかった。時間は確実に前へと進んでいる。恭祐はそう感じながらも気付かない振りをしていた。



「5番ってある?」

「あ、あったよ」

 凌汰の家の近くにあるコインロッカー。

 周りのコインロッカーはICカードが使える電子化が進んでいるが、此処だけは時間が取り残されたように、鍵で解錠するタイプだった。

 扉を開くとプレゼント用に包装された袋が入っていた。

「思った以上に大きいね」

 凌汰がロッカーの中から取り出すと三十~四十センチ程の大きさだった。

「これは確かに、学校は大変だよね」

 恭祐も支えとして一緒に持つと、ずっしりと重さが手に伝わった。

「重っ! なにこれ?」

 凌汰はその場にしゃがむと、リボンをほどき、袋を開けようとする。

「ここで開けるの?」

 恭祐が困惑したように聞くと、「俺、こういうの待てないんだよね」と凌汰はいたずらっ子のように笑った。

 中からは三十~四十センチ角の箱が入っていて、お洒落な鍋がプリントされていた。

「これ、めっちゃいいやつだよ!」

 凌汰は見るなり、テンションが桁違いに上がった。凌汰はすぐさまスマホを取り出し、宏太にメッセージを送る。恭祐には全く分からなかったが、凌汰が喜んでいるなら良かったと思った。

「まじで頑張らないと。宏太の為にも」

 夢を持つ人の表情はこんなにもかっこいいのだと恭祐は知った。

「今度、俺の料理食べてくれないかな」

「え! 食べる、食べる、食べたい!」

 恭祐が食い気味で返事をする。以前、宏太がべた褒めしているのを見て、恭祐はずっと食べてみたいと思っていた。

「味の感想を教えてほしいんだ。お店としてやっていけるかどうか」

 凌汰は真剣な表情で恭祐に言った。恭祐は食べてみたかった、なんていう興味本位じゃだめだと気持ちを入れ替えた。それと同時に、食に詳しくないのにそんな大役を担っていいのかという不安も出てきたが、やはり食べたいという気持ちが勝り、大きく頷いた。



*   *



 十二月二十四日。クリスマスイブ。凌汰の家でクリスマスパーティーだった。

 目の前には豪華な料理が何品も並ぶ。凌汰が作り、凌汰の母がテーブルへ運ぶ。なんとも連携のとれたプレーだった。

「私、手伝いますよ」

「いいのよ~。鈴ちゃんはお客さんだから」

「こ、宏太。こんなおじさんがきて本当に良かったのかな」

「店長、凌汰が呼んだんだから良いんじゃないんすか」

 恭祐と宏太の他に、鈴と店長もこのパーティーに来ていた。

 大きめの四人掛けダイニングテーブルが誕生日席を両端に付けて六人掛けとなっていた。誕生日席に座るのは大人。凌汰と恭祐が隣同士で、宏太と鈴が隣同士だった。

「お店は大丈夫でしたか? うちの子が無理にお誘いしたんじゃ」

「あ! いえいえ。元々の定休日でしたから。ご心配ありがとうございます。なんかすいません。こんなおじさんが来ちゃって」

「そんなことありません! うちの子がいつもお世話になって」

 尽きない大人の会話を他所に、高校生組は目の前の料理に目を奪われていた。

「これ全部、凌汰が作ったのか?」

 宏太は目を輝かせていた。

「そうだよ。まだまだ作りたかったけど、テーブルに並べられないから止めておいた」

 凌汰は少し照れたように言う。

「凌汰さん、すごい。私なんて女なのにこんなに料理出来ないです。」

 鈴は凌汰を尊敬の眼差しで見ていた。

「料理をするのに男も女も関係ないよ」

 凌汰はそう言うと、「飲み物持って来るね」とキッチンへ戻った。

「宏太さんは、やっぱり女の人は料理上手な方がいいですか?」

 鈴の質問が耳に入ってしまい、恭祐に聞かれた訳でも無いのに、固まってしまった。

「ううん、別に。凌汰の料理で充分だし」

 宏太はいつもと変わらず、抑揚無く答える。

「いつも一番は凌汰さんなんですね」

 鈴が分かりやすく、しゅんと萎んだ。

「別に、違うけど」

 そう言った宏太と恭祐の目が合う。恭祐は気になっていることがバレてしまうんじゃないかと、すぐに目を逸らした。

「皆、どれがいい?」

 凌汰は恭祐と宏太にそれぞれ紙を渡した。

「え? これメニュー?」

 恭祐は驚いた。

「ドリンクメニューだけどね。何種類か揃えたから」

 そう言うと、長方形のメモ帳を店員のように縦に持ち、ペンを取り出した。

「おお、形からだな」

 ノリノリな凌汰を見て、宏太は笑った。渡されたメニューは二部だけで、鈴は宏太と肩を寄せ、一緒のメニューを見ていた。恭祐はメニューよりも鈴に目線がいってしまう。鈴が見ているのは宏太で、いつだってこっちが見ているばっかりだった。

 恭祐は楽しむことに、頭を切り替える。

 今日は凌汰から料理の感想を正直に言って欲しいと言われていた。それは恭祐だけでなく、今日呼ばれた全員がそうだった。凌汰はこの日の為に料理にさらに磨きをかけていて、凌汰の母は「痛風になりそう」と言っていた。

 目の前に並べられた料理は、パスタ、サラダ、肉料理、魚料理などがあり、彩りも栄養バランスも考えられていた。味は勿論のこと、香りも良く、目で見ても楽しめる料理だった。

「美味しい」

 恭祐はこぼれるように言った。

「やっぱり美味い」

 宏太もしみじみ言った。

「美味しい! びっくりしました!」

 鈴は目を大きく開けて言った。

「美味すぎる、うちの店で出さないか?」

 店長は箸が止まらなかった。

「良かったね。凌汰」

 凌汰の母の、凌汰を見る目が優しかった。

 恭祐は料理でこれほどの感情を味わったことが無かった。美味しいの上の言葉が欲しかった。本当は美味しいなんてレベルでは留まらないのに、これ以上を伝えられないことが悔しかった。恭祐は語彙力の貧しさを嘆いた。だから、量で伝えることにした。美味しい、すごく美味しい、めちゃくちゃ美味しい。沢山沢山、凌汰に伝えた。

「あ、ちょっと。どうされました」

 鈴が声を掛けたのは凌汰の母だった。

「ごめんなさい。ちょっと」

 そう言うと凌汰の母はリビングから出て行ってしまった。リビングから出て行くときに微かにすすり泣く声が聞こえた。皆が美味しいと言って、息子の料理を食べていることに感動したのか。全員が出て行った先の扉を心配そうに見つめていた。

「泣いちゃうくらい美味しかったんですよ」

 空気をほぐすように鈴は言った。そうだねとぎこちなく笑う凌汰が恭祐は気になった。

「凌汰さんはいつから料理始めたんですか?」

 もうすぐ食べ終わりそうな鈴がパスタをフォークにくるくると巻きながら聞いた。

「小五くらいかな」

 凌汰は斜め上を見て思い出しながら答える。

「なんで始めようと思ったんですか?」

「あ。それは」

 無垢な瞳で聞く鈴から凌汰は目を逸らした。

「凌汰、飲み物いい?」

 宏太が凌汰にグラスを差し出す。凌汰がグラスを受け取り「何がいい?」と聞くと「コーラで」と端的に答えた。

凌汰が去ると、鈴は宏太に小さな声で「何かまずいこと聞いちゃいました?」と聞いた。宏太は「ん? 別に」と言って凌汰からコーラを受け取り、一口飲む。

「私の聞くことには『別に』しか言わないんだから」

 鈴の不貞腐れた声は宏太に届かなかった。



 約五時間のパーティーはお開きとなった。店長は先に帰り、高校生組は駅へと歩く。白く吐き出された息は、夜空へと消えていった。

「また、こうやって凌汰さんの料理でパーティーやりません?」

鈴は凌汰の料理が気に入ったようで、「次は忘年会で、その次が新年会でしょ。その次が……」と指折り集まる機会を数えていた。

「忘年会って、あと七日で今年終わるぞ」

 宏太は笑って鈴を見た。鈴は「だって、凌汰さんの料理また食べたいんですもん」と頬を膨らませ、目を合わせる。

「鈴ちゃん、さっき聞いてくれてたよね? 料理を始めたきっかけ」

 凌汰から話を切り出す。鈴は、凌汰からの思ってもみなかった言葉に戸惑う。

「俺の母親、ホテルの料理人だったんだ。小五のときに母さんが病気で入院して。その間、父さんと協力して家事やって。料理は俺の担当だった。上達したとこ見せたくて、退院した日に母さんに料理作ったんだ。そしたら味がしないって言われて。料理人だったから、料理に妥協しちゃいけないって思ったんだろうね。それから毎日作ったんだけど、美味しいとは言ってくれなかった。味覚障害だったんだよ。料理人には致命傷でしょ。もう一生治んない。味の無い世界で生きてるんだ、あの人は」

 遠い目をした凌汰の表情が恭祐の脳裏に焼き付いた。恭祐がどんなに美味しいと言っても母の一回には勝らないのだろう。凌汰はずっと母の「美味しい」を望んでいる。

「そうだったんですね。ごめんなさい」

 鈴は目を潤ませた。

「何で謝るの。今は料理好きだし、本気でその道目指したいって思ってる。これはきっかけに過ぎないから。同情しなくていいからね」

 凌汰の微笑みが悲しかった。

「帰り、気を付けて」

「今日はありがとうございました」

「また、来てね」

 宏太と凌汰に見送られ、恭祐と鈴は駅のホームへと入っていった。車内の座席はぽつんぽつんと虫食いのように空いていた。恭祐は鈴に座席を譲り、つり革に掴まっていると周囲の人が席を詰め、一人分空けてくれた。

 恭祐はお礼を言い、鈴の左隣に座る。僅かに狭く、肩同士が触れる。触れる右側が熱い。この熱が伝わるのではないかと焦れば余計に熱くなった。

 これだけ近いのに、恭祐には遠く感じた。恭祐が思い浮かべる鈴の顔は、どれも横顔ばかりだった。

「鈴ちゃんってさ、渡邊くんのことどう思ってるの」

「え?」

 鈴が勢いよく恭祐の方を向いた。

「告白とかしないの」

 恭祐の心臓はバクバクと今にも飛び出していきそうだった。鈴は小さく「なんだ、バレてるのか」と呟く。その言葉の殺傷能力は予想の何倍も高かった。心の何処かで、まだ違うと信じていたのだと気付く。

「しないです、というか出来ないです」

 鈴の声は落ち着いていた。

「宏太さんって、凌汰さんのことしか考えてないですよね。凌汰さんに依存しているというか。凌汰さんも同じです。お互いがお互いに依存してます。私が入る隙なんてありませんよ」

 宏太の事をよく見ているから分かる事なのだろう。鈴の横顔は寂しそうだった。

「じゃあ、俺は?」

 再び、恭祐の心臓が激しく動き出す。

 自分だったら絶対に素っ気なくしないのに。どうすれば見てもらえるのだろう。

 続きの言葉は、喉から出て行かなかった。鼓動が鈴にまで伝わりそうだった。

「恭祐さんは、二人に依存してます」

「え?」

 恭祐は拍子抜けした声を出す。鈴は微笑むと「この駅なので」と言って、軽やかな足取りで降りて行った。



*   *



 出席日数的に、もう一日も休めないと言われていた宏太だったが、気が付けば三月となっていた。

「なんだかんだもう三月だな」

 補習授業中、橋本が窓から校庭を見る。変わり映えしない風景だが、確かに春は来ている気がした。

「今日は俺から話があるんだ」

 橋本が珍しく真剣な顔つきとなる。何事かと恭祐たちも姿勢を正し、橋本を見る。

「この補習、今日でやめようと思う」

「何で?」

 声を上げたのは宏太だった。

「考えてみろ。最初の目的は何だった。宏太が授業に復帰出来るように、そのサポートだったはずだ。途中から色々脱線して、後半は皆の赤点補習みたいになってたけど。本来の目的はもう達成しただろ?」

 優しく語り掛ける橋本に、宏太は冷たい声で返す。

「嫌だ」

「補習受けたがる生徒も珍しいけどな。それなら別の」

「嫌だ」

「おーい。まだ全部言ってないだろ」

「はっしーの授業じゃなきゃ嫌だ。はっしーがいないと嫌だ」

「イヤイヤ期か? 随分遅いな」

「俺は本気で言ってるんだよ!」

 宏太の声は熱を持って教室に響いた。

「宏太。俺も本気で言ってる」

 橋本は静かに諭す。そして「会うのは此処だけじゃないし」と、パッと晴れた表情に変わる。

「授業中とか?」

 凌汰が橋本に聞いた。

「それもそうだし、他にも」

 橋本が答える。

「他って何かあります?」

 恭祐が聞いた。橋本が答える。

「えーっと、体育祭?」

「結構先ですね」

「あ、文化祭でもいいけど」

「イベントだけですか?」

 そして、また橋本はいつもの調子に戻る。宏太は、三人の明るく楽しそうに話す姿が気に食わなかった。

「俺ばっかじゃねぇか」

 宏太は小さく吐き出すと、荷物を勢いよく掴み、その場から出て行った。



 授業の間の休み時間。教室の席で寝ている宏太に、凌汰は一枚のプリントを渡した。

 宏太は寝起きで定まらないピントを無理やりプリントへ向ける。

「何これ」

「最後の補習でやったやつ」

「要らないって」

 宏太は凌汰に突き返そうとする。

「いいから。最後の方見て」

 凌汰に言われ、渋々プリントに目をやる。そこには『宏太なら出来る。信念を貫け!』と手書きで書かれた文字がピントが合うとともに浮かび上がってきた。

「なんだ、これ。良い教師ぶんなよ」

 宏太は吐き捨てるように言った。自分の机にプリントを入れようとしたが、うまく入らず苛立ちが漏れる。

「入んねぇ」

「机の中ちゃんと整理してないからだよ」

 凌汰が冷静に言った。宏太は「うるせー」と顔を歪ませる。

「じゃあ、ちゃんと渡したからね」

「はいはい」

 宏太は四つ折りにして、ブレザーのポケットへと入れた。要らなくないじゃん、という凌汰の声は、心の中にしまっておいた。

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