5

「ねぇ、なにする?」

「なにって何が」

「えっ? 夏休みだよー」

 補習前の橋本を教室で待つ時間。凌汰は夏休みへのワクワクが抑えられないのか、足をぶらぶらさせていた。宏太は頬杖を突きながら抑揚もなく答える。

「だって、来週から夏休みじゃん? お祭り行きたいし、海行きたいし、花火したいし、夏にやりたいこと、いっぱいあるじゃん!」

 凌汰は小さい子のように目をキラキラさせていた。

「本当に凌汰は楽しそうだな」

「宏太は楽しくないの?」

「いや、楽しい」

 全ては順調に進み出している気がした。あとは夏休みを満喫すれば、恭祐の高校生活は完璧だった。

「おいおい、皆さん。もう一つのビッグイベントをお忘れではないかい?」

「はっしー、やっと来た」

 橋本が教室の出入り口にもたれかかり腕を組んでいた。

「何ですか。ビッグイベントって」

 恭祐が聞いた。橋本はじゃーんと効果音を付けて、手に持っていたプリントを見せる。

「ずばり、夏季補習だ」

「うわっ」

 いち早く反応したのは凌汰だった。

「この補習はいつもみたいなのではなく、皆と一緒の補習だからな。それぞれの教科の先生が授業してくれるから。あと、全部に出なくてもいいんだぞ。赤点取った教科だけ必須で……。って、お前らほとんど赤点じゃないか」

 橋本がプリントを片手に愕然としていると、凌汰が素早く橋本から夏季補習のプリントを奪い取って目に焼き付けた。

「えー、お祭りの日も補習あるんだけど」

 凌汰が肩を落とす。

「これじゃ夏休み前と変わらないな」

 宏太が冷静に言った。

「お前ら。俺、自信失くすぞ」

 橋本の外に出た心の声は残念ながら恭祐たちには届いていないようだった。

「なんだ。俺、国語は無いのか」

 宏太が補習必須者リストを見ながら言った。

「宏太は国語の点数良かったからな。補習の心配もない」

 橋本が満面の笑みで答える。

「寧ろはっしー以外の補習には出たくない。サボっていい?」

「おい、ダメだよ! 何の為の補習だ!」

 橋本は冗談ぽく笑いながら言うと、「今日は全員赤点の社会やりまーす」と言って、恭祐たちにプリントを配った。

 補習が終わり、凌汰が大あくびをする。宏太は帰り支度をしながら「あのラーメン屋行かない?」と言うと、満場一致で「great」へ行くことに決まった。



 ラーメン屋「great」に入ると店内は半分程、席が埋まっていた。店員に「お好きな席へどうぞ」と案内されたので、前回来た時と同じカウンター席へ座ることにした。

「あ、来てくれたんだ!」

 店長が恭祐たちを見るなり、手を上げた。

「俺たちのこと覚えててくれてたんですね」と凌汰が少し強調するように言うと、宏太が「どうせまた二分の一だろ」と冷たく刺した。

「違うって! ちゃんと覚えてたよ! 今日は何を食べに来たのかな?」と、店長がにっこりと笑う。

「お冷です。どうぞ」

 女子高校生らしき店員がお冷とおしぼりを恭祐たちの前へと置いた。

「あ、りん。この人たちだよ、あのラーメン考えてくれたの」

 店長がその店員に声を掛ける。

「あ! 初めまして。生ハムラーメンすごく美味しくて、お店でも大人気なんです。考えた人に一度お会いしたかったんです。私も大好きになりました。ありがとうございます!」

 鈴と呼ばれた店員は、満面の笑みを向けた。

「え、そんなに美味いんですか?」

 恭祐が食い入るように聞いた。

「あれ、まだ食べたこと無いですか?」

 鈴がきょとんとした顔になる。恭祐は少し恥ずかしそうに頷いた。

「じゃあ、是非、食べてみてください!」

「じゃあ、生ハムラーメン3つで!!」

 鈴の勧めで恭祐は流れるように注文をした。

 鈴は「ありがとうございます!」と、飛び切りの笑顔を恭祐たちに向けた。その笑顔はとても眩しく、恭祐の心が少し熱くなった気がした。

「もうメニューになってるんだ」

 凌汰がメニューを開いて、後から貼られた『生ハムラーメン』と書かれたシールをなぞる。

「あ、ごめん。許可とか必要だったかな」と、店長が眉に皺を寄せた。

「いえ、全然。人気だって聞いて嬉しかったですし。それにちょっと自信が持てました」

 凌汰はそっとメニューを閉じて元の場所へ戻す。「自信?」と店長は作業を止めずに聞いた。

「俺、料理が前から好きで、自分の店持ちたいなとか漠然と思ってたんですけど。こうやってメニューにして頂いて、美味しいっていう声を聞いて。俺が作った訳じゃないんですけど、ちょっと自信付きました。ありがとうございます」

 凌汰の表情が恭祐には少し誇らしげに見えた。

「凌汰、店出すの夢だったの。俺、聞いてないけど」

 宏太は水を飲む寸前で止め、コップを再びテーブルに置いた。

「うん。言ってない。なんか恥ずかしくて」

「言えよ、そこは」

 宏太は一言ぼそっと言うと、水を一口ごくりと音を鳴らして飲んだ。店長が「じゃあさ」と言って口を開く。

「そういう君は、ええっと」

 そこまで言って言葉が詰まった。手で宏太を指したまま固まっている。

「あ、渡邊です」

 付け足したように宏太が名乗る。

「下の名前は?」

「宏太です」

「宏太ぁ!」

 店長は宏太の名前を知るとぜんまいを巻き直したかのように話し始めた。

「宏太は将来の夢とかないの?」

 宏太は少し考え、「無いですね」と明るく答えた。恭祐にはその明るさが妙に気になった。

「そっか。まあ、いつ見つかっても遅くはないからな。俺は店持ちたいって夢見つけたの、三十歳超えてからだったし」

 店長は「人生これから!」と笑い飛ばした。

 目の前に生ハムラーメンが並ぶ。透き通った黄金色のスープにほうれん草と生ハムがトッピングされ、とても色鮮やかだった。

 目の前に置かれるなり、宏太が「美味しそう」と、すぐに声を出した。なんだかんだ一番楽しみにしていたのは宏太なのかもしれないと恭祐は感じた。

「冷めないうちに早く食べな」

 店長が微笑むと「休憩行ってくる」と言って裏へと行ってしまった。直接、味の感想を伝えたかった恭祐は少し残念だった。

 恭祐はスープを一口すすった。ベースは塩味で、鼻から抜ける香りが香ばしく、出汁がとても効いていた。

「美味しい」

「それは良かったです」

 声のする方に顔を向けると、鈴がお冷を注ぎに来てくれていた。

「あ、ありがとうございます」

 鈴からお水を受け取ると、恭祐は一気に飲み干す。

「飲みっぷり良いですね。もう一杯要りますか?」

 あの笑顔をもう一度見たくて、恭祐は「はい」と答えた。

「すごく美味しかったと店長にお伝え下さい」と、凌汰は鈴に言った。

「ああ、そんなそんな。このお店の恩人ですから。浩希こうき、呼んできますよ」

「こ、浩希?」

 凌汰が少し戸惑ったように聞いた。

「店長の名前です」

 さらっと言う鈴に対し、恭祐たちは固まった。三人は、鈴に聞こえないように、こそこそと話す。

「今、店長のこと名前で呼んだか?」

「彼女、バイトだよね?」

「どういう関係性? バイトが強いの?」

「いや、彼女が強いんでしょ」

 ひそひそと話が止まらない恭祐たちに鈴が「あの」と声を掛ける。

「はい!!!」

 威勢のいい返事が恭祐から飛び出した。

「私、店長の姪なんです」

 まるで聞こえていたような口振りだった。

「ああぁ、そういうことでしたか。てっきり……。ねぇ?」

 言葉を濁す凌汰に対して、宏太が愛想笑いをした。

「私、品川しながわりんっていいます」

 鈴は丁寧に頭を下げた。

「あ、僕は佐々木恭祐っていいます!」

 恭祐は鈴の後に続くように名乗ると頭を下げた。恭祐が言ったことにより、宏太と凌汰も名乗らなければいけなくなった。

 お会計のレジも鈴が担当だった。前回貰った割引券を使い、一人あたり二百円程安く食べられた。

「宏太さんたち、また来てくださいね」

 鈴の笑顔は眩しく、恭祐は店を出るのが名残惜しかった。

「はい、また来ます」

 恭祐は、そう言うと一番最後に店を出てドアを閉めた。

「また貰ったぞ、割引券」

 宏太が割引券をゆらゆらと揺らす。

「いいじゃん。また安く食べられるんだし」

 凌汰は大事そうに割引券を財布へしまった。

「そうだけど」

 宏太が割引券を片手にゆらゆらと揺らしていると、強い風が吹き、宏太の手元を離れて大空へと舞って行った。

「あ」

 宏太は、不規則なルートで飛んでいく割引券を眺めていた。

「飛んでっちゃった」

 宏太は恭祐の顔を見る。恭祐と目が合う。恭祐は鈴から貰った割引券を渡すものかと自分のカバンを宏太から遠ざけた。

「渡さないよ」

「要らねーよ」

 宏太は空いた手をスラックスのポケットに入れて歩き始めた。



*   *



 夏休みがスタートしたのと同時に、恭祐たちの夏季補習もスタートした。一学期最後の日、周りは明日から休みだと浮かれているのに対し、恭祐たちは次の日も同じ時間に学校へ行っていると思うと、いっそのこと夏休み自体無くなれと思った。

 耳を澄ます。グラウンドから運動部の声がした。野太い声、甲高い声、声援、喧嘩。人が少ない教室は野外の声がいつもより耳に入る。

『後悔したくなきゃ、もっと動け!』『自分勝手なプレーすんな! 仲間のこと考えろ!』

 目を閉じ、風景を思い浮かべる。強い日差しの中、流れる汗も気にせず、必死にスポーツに打ち込む姿が……。

「佐々木くん。聞いていますか」

「あ、すみません」

「これはあなた方のための補習ですよ。寝てるんじゃありません!!!」



 恭祐はその後、職員室に呼ばれ三十分以上説教され続けた。橋本に「先生、次の授業の準備大丈夫ですか」と声を掛けてもらわなかったら、あと何時間続いていたか分からない。恭祐は、ありがとうございましたと橋本に頭を下げた。

「あの先生の補習で寝たってマジ? 勇気あるな」

「夏休み最悪なスタートを切りました」

 橋本が笑いながら個包装された飴を一つ、恭祐に渡した。

「これ占い付きの飴だから。中に書いてある」

「これで悪いの出たら嫌ですよ」

「大丈夫、良いのしか出ないから。冷凍食品と一緒だよ」

「それって占いの意味あるんですか」

「ん? 気の持ちようじゃない?」

 橋本は飴を口に入れ、包装紙の占いを開く。「やったー、大吉だ」と、内容もろくに見ずに、その包装紙をごみ箱へと捨てた。



*   *



 花火にプールにキャンプにと楽しい妄想を膨らませていた、恭祐の高二の夏休みは補習と帰りに寄るラーメン屋が定番化していた。

「おい、また来たのか」

 店長もすっかり恭祐たちの顔を覚えたようで、この時間はいつもカウンター席を並んで三つ空けてくれている。左から凌汰、恭祐、宏太とこの順番も定番となった。

「嬉しいくせに。素直じゃないなあ」

 凌汰が足元のかごに荷物を入れ、慣れたように座る。

「他に行くとこないのか」

 今どきの高校生はつまらないと店長は肩を落とした。

「無いです。予定も何も。補習だけ」

 宏太は溜息交じりに言うとおしぼりの袋を開けた。

「じゃあ、花火大会行きません?」

 お冷とおしぼりを持ってきた鈴が店内の花火大会のポスターを指さした。

「ああ、もうすぐか」

 宏太は、お冷を一口飲んだ。鈴は、「宏太さんたちが良ければの話ですけど」と伺うように付け加える。

「是非、行きます!」

 恭祐が二つ返事で答えたことにより、三日後は花火大会に行くこととなった。



 この三日間、恭祐の検索履歴は『花火大会 服装』『おしゃれ 男子高校生』『花火大会 コーデ 高校生』などで埋め尽くされ、膨大な情報量が恭祐の頭の中を占拠した。花火まで打ち込むと『花火 デート』と出てきたが、このワードをタップする勇気は持ち合わせていなかった。

「結局、何が良いのか分からなかったな」

 これが三日間を費やした結果である。サイトの真似をしてみても、いざ着てみると違和感があり、一周回っていつもの組み合わせがしっくり来る。二時間、鏡の前で格闘した末、慣れないお洒落をしてイタい奴と思われるよりはと、地味で無難な服を選んでしまった。普段の倍以上もの時間を掛けて、いつも通りの恭祐が出来上がった。

 恭祐は鏡の前に立ってがっかりする。

「やばい! 遅れる!」

 待ち合わせは会場の最寄り駅。恭祐は電車でその最寄り駅まで向かうが、自宅から乗車駅までは自転車を使わなくてはいけない。

 夕方とはいえ、まだまだ蒸し暑い。家から出るとモアっとした空気が全身を包み込む。こんな日に自転車なんて、と自宅が駅から遠いことを恨んだ。

 走って電車に乗り込む。車内の冷房は、恭祐の火照る体には温かった。走行音と恭祐の切れた息が車内に響く。恥ずかしくなり、息を止めると汗が滝のように吹き出た。

 スマホには、宏太と凌汰から十分前に到着の連絡があった。もう約束の場所で待っているらしい。男が約束に遅れるなど言語道断。これも三日前に得た知識だった。鈴はまだ来ていないことを知ると、恭祐は安心してスマホをポケットへと仕舞った。

 待ち合わせ場所に着くと、既に宏太と凌汰は揃っいて、特段今日のために気合いを入れている様子はなかった。今まで通りの服装にして良かったと心底安心した。鈴はまだ来ておらず、待ちながら駅前の人の流れを眺めていた。親子連れや友達同士もいたが、圧倒的にカップルが多かった。

「ごめんなさい! 遅れちゃって」

 声のする方に顔を向けると、清涼感のある青い浴衣を着た鈴がこちらへと走ってきた。

「大丈夫です、まだ時間前だし。俺たちが早すぎただけです」

 凌汰が腕時計を鈴に見せた。良かったと鈴は胸をなで下ろす。

「優しいんですね」

 鈴は髪を耳にかける。鈴の仕草ひとつひとつが、恭祐の心臓を跳ねさせた。いつもの制服とは違い、浴衣姿が新鮮で緊張させる。いつも見ている鈴ではないように感じた。

 胸の鼓動が速いのは此処まで走って来たからだ、と恭祐は自分に言い聞かす。

「どうですか」

 赤く頬を染める鈴の目は、今まで見たことが無いほど乙女だった。

 鈴が向けた視線の先は恭祐では無い。恭祐は、その溶けそうな目を傍から見ている他なかった。

「似合ってる」

 その視線を受けている宏太は、一定のトーンで返した。鈴の頬はさらに赤くなる。それが暑さのせいでは無いことくらい、恭祐でも容易に理解できた。身長差もあり、鈴は上目遣いで宏太を見る。

「ありがとう」

「おう」

 短い会話に熱が帯びていた。

 会場付近には数多くの屋台が並んでいて、定番から変わり種までバラエティーに富んでいた。普段は一般道とは思えない程に人でひしめいていた。

「いろいろあって迷っちゃいますね」

 鈴は隣を歩く恭祐に声を掛ける。

「そ、そうですね。あ、品川さんは好きな食べ物とかって」

 恭祐がそこまで言いかけた時、鈴はふふと笑った。

「鈴でいいですよ。あ、りんご飴とか好きです」

 りんの、すずが鳴ったような可愛らしい声が恭祐の心を心地よく撫でた。

「あ、じゃあ、りんご飴食べましょう。り、鈴さん」

 たどたどしく名前を呼ぶ恭祐に、鈴は楽しそうな表情で首を横に振る。

「ええっと、鈴ちゃん?」

 恭祐がちゃん付けで呼ぶと、渋々といった表情で頷いた。

「まあ、いいでしょう。鈴ちゃんでも」

 鈴はいつもの笑顔へ戻る。恭祐が「鈴様のほうが良かったかなぁ」と冗談ぽく言うと、「悪くないかも」と返された。

 河川敷まで行くと、場所取りのシートが一面埋め尽くされていた。警察官の誘導が既に始まっていて、今からの場所取りは難しそうだった。

「ここも無理か。もう少し歩けそう?」と凌汰が鈴に声を掛ける。その言葉につられ、恭祐の視線が鈴の足元に移った。鈴の足は鼻緒に擦れ、赤く炎症している。

「あ、大丈夫です。絆創膏持ってきたので、それを貼れば」

 鈴が片足を引きずりながら道端に寄る。絆創膏を見せ、女子力でしょ、と笑う。

「ごめんね。気付いてあげられなくて」

 恭祐は、隣にいた自分が気付くべきだったと責めた。苦い顔をする恭祐に、「いいんです。私も楽しくて、さっきまで気づきませんでした」と鈴は笑った。恭祐はどれだけいい子なんだろうと心が苦しくなり、上手く笑えなかった。

「あれ、鈴じゃない?」と、遠くで声がする。顔を向けると、四人の女子グループがいた。全員浴衣で、派手な髪をしている。鈴は相手の顔を見るなり、目を逸らし俯く。

「今度は男三人も従えてんの? どんだけ男好きなの。引くわ」

 そう吐き捨て軽蔑した目で鈴を見る。耳を刺すような笑い声を残し、去って行った。周囲の人が恭祐たちを横目で見ては、何やらこそこそと話している。重く気まずい空気が恭祐たちに流れる。

「あー、すみません。恥ずかしいところをお見せしちゃいましたぁ」

 鈴はそう言って、溜息の後に笑顔を見せた。

「何で笑ってんの」

 宏太は、鈴とは正反対に眉間に皺を寄せた。

「え?」

「何で笑えんの」

 宏太は自分の事のように苦しそうな表情を浮かべる。

「あ。私、友達いないんです。だから今日はこうやって皆さんと花火大会来れて、はしゃいじゃいました。すみません」と鈴は恭祐たちに頭を下げた。それでも鈴の笑顔は崩れなかった。

「鈴ちゃん」

 恭祐は名前を呼ぶしか出来なかった。

「私の名前のリンは漢字ですずって書くんですけど、鈴の音色みたいにキラキラ輝く笑顔でいて欲しいって、母が付けてくれたんです。だから、母が闘病中の時も、亡くなった後も、この名前に恥じぬよう笑って生きていくって決めたんです」

 そして、鈴はまた笑顔を見せた。こんなに悲しい笑顔を見たのは初めてだった。

「それで幸せ?」

恭祐は気付けば声を出していた。

「どういうことですか」

「あなたの人生が幸せなことや楽しいことで満ち溢れますようにって、お母さんは付けてくれたんじゃないの? 辛くても苦しくても笑ってるだなんて、そんな貼り付けの笑顔に何の意味もないよ。苦しいとか泣きたいとか、感情を我慢してると段々と心が死んでいくんだよ。完全に死んだらもう戻せないからね。喜怒哀楽、全部あって人間なんだから。鈴ちゃん、泣いたって怒ったっていいんだよ。感情は殺しちゃダメだ」

 恭祐には、感情を無にした方がずっと楽でいられる気持ちも分かる。しかし、宏太や凌汰に、そこから救い出して貰って見えたこともあった。人はひとりでいると脆い。恭祐は鈴にそこでずっと留まって欲しくなかった。今度は自分が救い出す番だと感じた。

「私、泣いてもいいの? お母さん」

 鈴は恭祐たちに初めて涙を見せた。鈴はずっと泣きたかったのだ。目の前で泣ける人が必要だったのだ。鈴から笑顔の鎧が取れた瞬間だった。

「あ、花火だ」

 凌汰の声で空を見上げる。その瞬間、恭祐の目には色鮮やかな光が飛び込んできた。大きな音が体に響く。このまま自分に降りかかってくるかのようだった。

「綺麗だね」と、恭祐が鈴に言う。

「全然見えません」

 鈴は涙を拭った。

 その横顔に恭祐は見とれてしまった。笑顔に劣らず、鈴の涙はとても綺麗だった。

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