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今日も雨。視界に灰色のフィルターがかかる。昨日、梅雨入りしたというニュースを見て、恭祐の心は湿っぽくなった。
教室の窓には、反射でもう一つの教室が現れた。もう一人の自分と目が合う。向こうの恭祐の表情は柔らかく穏やかで、この窓に映った世界がパラレルワールドのように思えた。
旧校舎で宏太に助けてもらって以来、藤木たちが恭祐に仕掛けてくることはなくなった。もしかしたら藤木たちは宏太を恐れているだけかもしれない。それでも、藤木たちと関わる事のない世界に居られるだけで良かった。
窓越しの世界は、もしかすると藤木たち自体が存在しないのかもしれない。昔、何度も想像した世界線だったが、今となってはどうでも良くなった。受け入れてくれる人がいるだけで、学校に来るのが楽になった。
いつも助けてもらってばかりで、何か力になりたい。恭祐は隣の空席に目を向けた。
四限目が終わりお昼休み。恭祐は購買へ向かおうと席を立つ。何気なくブレザーのポケットに手を突っ込むと、いつもあるはずの自転車の鍵が無かった。
普段、自転車通学の恭祐は、定位置として鍵をブレザーのポケットに入れていた。昨日も今日も電車通学で、失くなっていることに全く気付かなかった。焦る恭祐は、自転車で家に帰って来た三日前から記憶を巡らす。
旧校舎だ。藤木たちの前でブレザーを脱いだ時に、落ちてしまったのかもしれない。
恭祐は重い足取りで、再び旧校舎へと向かうことにした。新校舎から向かうには、一階の購買所の横を通るのが最短ルートだった。効率を考え、旧校舎へ寄った帰りに購買へ寄ることにした。
お昼休みになると購買所の行列は伸びていた。整列しやすいように廊下にはテープが貼られているが、それでも足りず階段まで伸びていた。恭祐は先に並んでおけば良かったと後悔したが、藤木たちが行列に並んでいるのが見え、足が止まった。
今まで恭祐に並ばせていた行列に藤木たち自身が並んでいる。目を疑う光景だった。こっちの世界がパラレルワールドみたいだった。しかし不安は拭えない。視界に入ると掴まるかもしれない。横を通り過ぎたら並んでおけと場所を交換されるかもしれない。視界に映らないよう、迂回ルートで旧校舎へと歩みを進めた。
旧校舎に入ると、変わらず静かで雨音だけが聞こえていた。恭祐は目を凝らす。教室の引き戸のレール溝に何か光るものが見えた。手に取ると青い鈴が付いた自転車の鍵だった。
「あった」
定位置である恭祐のブレザーへとしまう。
「あれ、佐々木くんもお昼?」
恭祐は背後からの声に慌てて振り向くと、そこには焼きそば二人前を両手に抱え、ビニール袋を提げた凌汰がいた。
「え?」
思わず、声がこぼれる。
「ほら、食べよう。早く入って」
突然現れた凌汰に戸惑いが隠せない中、両手が塞がっている凌汰に誘導され、恭祐は目の前の引き戸を引いた。中の教室には、椅子に座り漫画を読む宏太の姿があった。
「あ……」
恭祐は吐息か言葉か分からない音を発した。
中は使われていない机や椅子が後ろの方に寄せられ、教室の約半分を占めていた。残りのスペースに保健室のベッドが一つ置かれ、二台並んだ机には漫画本がタイトル別に積まれていた。よく使われているであろう机や椅子は乱雑に散らばっている。その他にも扇風機やスマホの充電器、ゲーム機などがあった。
「おまたせー」
スペースの中央に乱雑に置かれた机へ凌汰は持っていた物を置いた。
「今日は佐々木くんも一緒だよ」
凌汰は慣れたように空いている机を向かい合わせにくっつけ、ビニール袋から中身を取り出す。宏太は「おう」とだけ言うと、読んでいた漫画本を閉じ、積まれている場所へと置いた。宏太が凌汰へお金を渡しているのを見て、あの大荷物は二人分だったのだと気付いた。
机の上にはお茶のペットボトル、焼きそば、ホットドッグが各二つずつ置かれている。
「あれ、佐々木くん。お昼は?」
恭祐の分の椅子を運んできた凌汰が聞いた。
「あ、ごめん。持ってきてないんだ」
恭祐はこの後に購買へ寄ろうとしていたことを思い出す。
「じゃあ、これやるよ」
宏太から恭祐へ焼きそばが渡された。
「あ、いくらだっけ。えっと」
「いらねーよ」
宏太から受け取った焼きそばがとても温かかった。
恭祐の「ありがとう」に宏太は「おう」とだけ答える。そのぶっきらぼうな短い返事が恭祐には嬉しかった。
「じゃあ、このホットドッグを宏太にあーげる」
「ホットドッグばっか食えるかよ」
凌汰は嬉しそうな表情で宏太にホットドッグを渡すが、宏太に断られ、あっけなく戻ってきてしまった。おかえり、と寂しそうに見つめる。
恭祐は辺りを見渡す。教室の不要な物を端に寄せて作ったスペース、ベッド、扇風機、漫画、ゲーム。此処は生活感に溢れていた。
「二人はさ、いつも此処で食べてるの?」
「晴れてたら屋上で食べることもあるけど、今日は雨だからね」
そう言って、凌汰は窓の外を見る。つられて恭祐と宏太も眺めた。
「此処ってバレないの?」と、恭祐は続けて聞いた。
「まだバレたことないね。人も来ないし。なんだか秘密基地みたいでワクワクしない?」
秘密基地という小学生が言いそうな事を凌汰は楽しそうに話していて、恭祐も小学生くらいに戻った気がした。
「うん。ワクワクする。ベッドも漫画もあっていいね」
「今度はちゃんとお昼持って来いよ」
宏太が言った。凌汰のように声が浮いているわけではなく、低い声だった。
「あ、それは、ごめんなさい」
恭祐は委縮し、慌てて謝る。
「ちげーよ。また来いよって話」
宏太がふわっと笑う。恭祐は、宏太に受け入れられているのだと嬉しかった。
「佐々木くんも自分の好きな漫画とか持ってきちゃいなよ」
「え、いいの?」
「もちろん」
「じゃあ、これ渡しとく」
そう言って、宏太は恭祐に鍵を差し出した。
「これは?」
「此処の鍵」
「なんで持ってるの」
「たまたまこっち来た時に鍵穴に鍵が挿さったままなのを見つけて。多分、見回りだった人が忘れてったんだろうけど。で、そのまま貰った」
「え。そんな鍵貰っちゃっていいの?」
「大丈夫。合鍵作ってる」
そう言って宏太は自分の鍵をポケットから出して、見せる。
「ちなみに屋上の鍵も持ってるよ」
今度は凌汰が言うと、凌汰も自分の鍵を恭祐に見せた。
「え、屋上も?」
「おう。全く同じ理由。多分、閉めたの同じ奴だろ」
そんな間抜けな人がいるのかと恭祐は信じられなかった。
「そろそろ時間だね」
凌汰の言葉で耳を澄ますと校庭から微かにチャイムが聞こえた。旧校舎はスピーカーの電源が切れているため、外からの音を聞かなくてはいけなかった。
「宏太、次の授業行く?」
凌汰が宏太に聞く。
「次って何だっけ」
「物理だよ」
「あ、いいや。俺」
宏太は少し間を置き、二人の顔を見る事無く答えた。先程まで盛り上がっていた空気が急加速で冷めていく。凌汰は宏太に「じゃあまたね」と言うと、宏太は「おう」とだけ答える。恭祐も「またね」と言うと「おう」と返って来た。
寂しそうに戸を閉める凌汰と、何食わぬ顔でまた漫画を読み始める宏太を、恭祐はおかしいと感じた。なんで二人ばかりが辛い思いをしなければいけないのか。
「行こうか」
凌汰は力なく振り向くと、恭祐に声を掛けて先を歩き始めた。しばらくの沈黙。聞こえるのは雨音の強弱と二人の足音だけ。先を歩く凌汰の背中が、今は弱々しく感じた。
「渡邊くん、今日休みかと思った。でも、今日一緒にお昼食べられて楽しかったよ。ありがとう」
無言でいるのが気まずくなり、凌汰の背中に向けて話しかける。凌汰は、ゆっくりと振り向き力無く笑った。
「休んでないよ」
「そうだね。また、今日みたいに渡邊くんが来た日は一緒に食べれたらいいね」
「宏太は、学校を一度も休んだことなんてないよ。毎日、皆より早い時間に来てる。ずっとあそこにいるんだ。学校は休んでない」
恭祐の口から言葉が出なかった。凌汰はそれだけ言うと、また前を向いて歩き始める。恭祐は慌てて、前の凌汰を追いかける。やっと言葉が出たのは、その後だった。
「それって、どういう事?」
「どうもこうも無いよ。そのまんまの意味」
「だって、授業受けないんだったら学校に来なくたっていいじゃん。毎日ちゃんと来るのには理由があるんじゃないの?」
「俺には分からないよ」
凌汰は小さく答えた。
「分からない?」
「俺ら幼馴染なんだ。幼稚園のころからで、もう15年くらい一緒にいるんだ。ずっと一番近くで見てきたし、宏太の事を一番分かってるのは俺だって、思ってたんだけどな」
凌汰が遠い目をして自嘲気味に笑う。凌汰の見ている先はどんな景色なのか、恭祐には想像がつかなかった。凌汰が続ける。
「宏太さ、はっしー以外の授業に出席してないから、もう進級がやばいんだよ」
「留年ってこと?」
「まあ、普通にいけば、そうなんだけど。宏太の場合はそうにはならないみたいで。このままだと退学だって」
思いもしなかった単語が凌汰の口から飛び出した。
「嫌だよ。それは嫌だ」
考えるよりも先に言葉が出ていた。はっと凌汰を見ると、眉を下げ苦笑していた。
「あ、ごめん。困らせた」と、恭祐が謝る。
「ううん、いいんだ。ありがとう。そんな風に思ってくれてて」
凌汰が恭祐から目線を外し、唇を噛む。目にはうっすらと光るものがあった。そして、吐息と混ざるように「そう思ってるの俺だけじゃなかった」と呟いた。その声は少し震えているように感じた。
「俺さ、渡邊くんに感謝してるんだ」
恭祐の表情が和らぐ。
「感謝?」
「うん。俺、元々自分を出したり、人とコミュニケーションとるのが苦手で。それでモジモジしてるのが気持ち悪いって嫌がらせされるようになって。段々、声が気持ち悪いとか、見た目が気持ち悪いとか、存在を馬鹿にされたり、ウザがられるようになって、嫌がらせも過激になってさ。でも、そいつらから渡邊くんが守ってくれたんだ。こうやって居場所も作ってくれて、感謝しかないんだよ。感謝してもしきれないのに。まだ恩返し出来てない」
恭祐の目はしっかりと凌汰を捉えていた。その強い眼差しは凌汰の瞳を揺らした。
「やっと意味が分かった」
凌汰の表情が雪解けのように段々と柔らかくなっていく。
「意味って?」
「宏太が佐々木くんのことを『俺と似てる』って言ってたんだ」
「そうなの? 似てるって程ではないと思うんだけど」
恭祐は考え込むように、眉間にしわを寄せた。共通点などあっただろうか。
すると、凌汰は「宏太は黙っておきたいことかもしれないけど」と、前置きして話し始めた。
「宏太は、中学生の頃いじめられてたんだ」
* *
凌汰と宏太の二人は幼稚園からの幼馴染で、ずっと一緒だった。家族ぐるみで仲も良かった。宏太にとって、凌汰は初めての友達だった。
内気で大人しかった宏太は、よく凌汰の背中にくっついていた。凌汰は好奇心旺盛で明るい性格だった為、新しい友達が出来るのも、新しい遊びにチャレンジするのも、全部凌汰からだった。宏太は、凌汰がやったことしかやろうとせず、いつだって二人の世界を広げていったのは凌汰だった。当時の凌汰は『宏太は俺が守る』と小さいながらに正義感に溢れていて、宏太も凌汰のことを頼れる兄のように慕っていた。
小学生でも、凌汰の後ろに宏太がくっついて歩く構図は変わらなかった。
中学に進学し、中一でクラスが離れた。同じサッカー部へ入ったが、宏太はバスケがしたいと一年の秋に転部した。凌汰と違う事をしたいと言ったのは、この時が初めてだった。凌汰は、小学生の時と同様、別々のクラスでも宏太と一緒にいれると思っていた。しかし中一の冬頃から宏太は段々と凌汰を避けるようになった。中二もクラスが離れ、中二の夏では完全に話さなくなった。
中二の冬。凌汰は廊下で、宏太を見かけた。その時の宏太は様子がおかしく、下を俯き、汚れた黒のシューズ入れを両手で抱え、足早に去っていった。その姿は、十年来の幼馴染とは全くの別人だった。それが半年ぶりに見た宏太の姿だった。
持っていたシューズ入れは、凌汰の記憶の中にもあった。転部の際に新しく買ったと、凌汰に嬉しそうに見せていた。記憶の中ではまだ新品だった。約一年であんなに摩耗するほど練習しているのかと心配した。
凌汰はその日、部活のごみ当番だった。これ以上持てないという程のゴミ袋を抱え、校舎裏のコンテナへと向かった。コンテナには、見覚えのある黒いシューズ入れが捨てられていた。沢山の傷や汚れで、それが宏太の物だとはすぐに気付かなかった。私物を捨てるのは禁止の為、宏太が捨てるのは不自然だった。中を開けるとシューズは汚れが酷く、ボロボロだった。使い込んだというより切り刻まれて使い物にならなくなっていた。大事にしていたものを自分で傷つけるはずがない、宏太ではない誰かが此処へ捨てたのかもしれないと、凌汰は部室へ持って帰ったが、宏太に返すべきか悩んだ。
部室へ戻ると、もう一袋残っていることに気付いてシューズ入れを持ったまま、とんぼ返りのように部室からコンテナへと向かった。校舎裏まで行くと、誰かがコンテナの前でごみを漁っている姿が見えた。その人物は宏太だと分かった。凌汰は手元のバッシュを見る。
「無い、無い、何で無いの」
宏太は、次第にコンテナから沢山のごみ袋を引っ張り出し、乱雑に外へと放り出す。その探し方は焦りと苛立ちでいっぱいに見えた。
「あれー、ごみ漁ってんの」
靴底をずりながら歩いてきたのは、引退したバスケ部の三年だった。三年は二人いたが、凌汰はサッカー部以外は詳しくなく、名前や人物像までは分からなかった。
「どこですか、俺のバッシュは」
「その中に入れたって。無いならもう捨てられちゃったんじゃないん?」
三年がケラケラと笑う。宏太の表情が暗くなり、凌汰の罪悪感は大きくなった。
「てか、あんだけボロいし、もうごみじゃん。で、お前もごみー。全然使えねーの」
三年はケラケラと笑い、その中の一人がポケットから鍵を取り出した。
「これ、なーんだ」
三年の問いかけに宏太は何も答えない。
「無視かよ。ムカつくなー」
「ごみはごみ箱でしょ」
半笑いで三年が宏太をコンテナへ押し込んでいく。宏太も必死に抵抗しているが、中学生で一年の体格差は大きい。それに一対二となれば結果は容易に想像できた。
コンテナの中へと突き飛ばされ、ごみ袋の山がクッションのように宏太を受け止める。これ以上は見ていられなかった。凌汰は物陰から飛び出し、怒りに任せ三年二人の顔面を殴った。潰れ出た血が凌汰の拳に付く。血と血が混ざり合い、どれが誰の血なのか分からなくなるまで殴り続けた。
「凌汰!」
宏太の声で凌汰の動きが止まる。一度止まると物事を客観視することが出来た。
「もう先輩たち、やり返して来ないから」
凌汰は視線を下へ移すと、三年の二人が横たわっていた。
「お前、ふざけんじゃねぇぞ」
三年二人の力を振り絞って出した声には、肝が冷える程の怒りが含まれていた。弱々しく起き上がると、足を引きずり去って行く。
手の甲がズキズキと痛む。その手は赤く染まり、皮は捲れていた。気が抜けたのだろうか、後から体のあちこちが痛みだす。立っていられずに、その場に座り込んだ。
「凌汰、何でこんな事」
宏太は凌汰の肩を抱いた。その手は微かに震え、怖がらせたのだと凌汰は反省した。
「こんな事って。これ」
凌汰はバッシュを宏太へと返した。宏太は、受け取ると両手で握りしめ、目を潤ませ「ありがとう」と言った。
「大事なものでしょう」
凌汰が言うと、宏太は大きく頷いた。
「ごめん。こんなことして。怖かったよね」
凌汰は掌を宏太の頭の上へ置く。宏太は何も言わずに首を横に振った。
「あいつら、いつもこんなことしてるの」
凌汰が聞くと、宏太は黙って頷いた。
「いつから?」
「一年前くらいから」
やっと口を開いた宏太の声は驚く程か細かった。
「何で言わなかった」
凌汰は自分が許せなかった。幼稚園生の頃から宏太の事を守ると言っていたのに、何一つ守れていなかったことが不甲斐なかった。
「これからは一人で耐えなくて大丈夫だから。俺が付いてるから。相談して欲しい」
凌汰の言葉に、宏太は目に涙を浮かべながら頷いた。ただただ、ひたすらに頷いた。
* *
梅雨が明け、夏本番。恭祐が常連のように旧校舎へ通うようになった頃、エアコン無しでは過ごせない暑さとなっていた。今年は空梅雨で期間も短く、全国規模の水不足が連日ニュースで取り上げられていた。浴槽のかさ増し方法や水の使わない料理など、身近で出来る節水方法をアナウンサーが実践して伝えている場面をよく見るようになった。
「宏太、そろそろエアコンつけようよお」
「無理だって。エアコン使ってるの職員室にバレるって」
暑さでぐずる凌汰を宏太が制する。エアコンの操作は各教室と職員室で行える。職員室のモニターは主に温度設定やつけっぱなしではないかなどチェックの役目をしている。旧校舎でエアコンを使えば、職員室のモニターでバレて、様子を見に行こうとした教師の一人が教室の鍵が無いことに気付き、ここで屯している事がばれて場所を取り上げられる事になるかもしれない。もしかしたら、旧校舎に生徒が容易に入ってこられないように厳重な警備になるかもしれない。恭祐たちは、自分たちの居場所を守るために必死に暑さに耐えるしかなかった。それに加え、使われなくなって何年も経っている旧校舎だ。エアコンの掃除も何年も行われていないだろう。使うには勇気が必要だった。
「暑いよお」
「凌汰、代謝良いもんな」
暑さにバテてる凌汰を横目に宏太はふはっと笑った。
こんな風に笑うのか。恭祐は宏太のころころと変わる表情をしばらく見ていた。そのことに恭祐自身が気付いたのは、宏太に「そんなに見てんなよ」と言われてからだった。
ガッ、ガッ、ガガガガ、と突然聞きなれない音がした。音のする方へ目を向けると、扇風機の首振りがぎこちなくなっていた。次第に羽の回るスピードも落ちていく。
「えっ? 待って、待って、待って」
いち早く反応したのは、代謝の良い凌汰だった。
「毎日ずっと付けてたからな。もう寿命か」
宏太は冷静に扇風機の最期を見ている。恭祐はこの扇風機と共に過ごした宏太の時間の長さを考えてしまった。どのくらい此処にいたのだろうか。その間もこの暑さの中に一人でいたのだろうか。
「また、見てる」と宏太に指摘され、無意識に見ていることに気付いた。
「あ、ごめん」
「俺、男に興味ないけど」
「え、そ、そんなんじゃ」
「はは、冗談。ごめん」
宏太はふわっと優しく笑うと、扇風機と格闘する汗だくの凌汰を見ていた。何故にこんなにこの人は、優しく笑うのだろうか。恭祐は、またもや宏太に目を向けてしまうのだった。
「ダメだ! 完全に壊れた」
試行錯誤したが報われず、凌汰は肩を落とした。
「残念だったな」
落ち込む凌汰を楽しそうに見ている宏太。
「これは死活問題だ! 今日、はっしーの補習が終わったら買いに行こう!」
「え? そんなに?」と、驚く宏太。
「そんなにだよ!」
凌汰の温度が人一倍高かった。宏太はそんな凌汰を終始笑って見ていた。
「俺は行かない」
恭祐が口を開く。
「あ、予定とかあった?」
凌汰のさっきまでの勢いは無くなり、申し訳なさそうに聞いた。
「いや、無い。無いけど、もう壊れたまんまでいいじゃん」
凌汰は心配そうに恭祐の顔を覗き込んだ。宏太は黙って恭祐を見ている。
「あのさ、提案なんだけど」
恭祐は恐る恐る口を開き、二人の顔色を伺う。宏太は恭祐と目が合うと、眉を顰めた。
「集まる場所変えない? 教室とかに」
その瞬間、宏太の視線が落ちた。凌汰はその提案を受け、宏太の顔を見る。此処にいる誰もが宏太に向けての発言だと理解していた。
宏太は大きく溜息をつくと、頭を掻いてその手を前に投げ出した。
「お前、冷めるわ」
重い空気がのしかかる。恭祐は一瞬にして血の気が引いた。宏太の言葉が恭祐の頭の中でこだました。迷惑そうだった表情が、声色が、頭で何度も再生される。
迷惑だったのだ。授業を受けたいと思っているかもしれない、学校が本当は好きなのかもしれない、そんなのは恭祐の妄想だった。この一言が全てだ。
「ごめん。今日はもう戻るね」
重い空気に耐えきれず、恭祐は顔も合わせず足早に去って行った。
もう旧校舎には行けない。大切な友達を傷つけた。やっと出来た友達を今さっき失ったのだ。またひとりになってしまった。
恭祐は込み上げる涙を堪えた。
次の日の昼休み。昨日は昼休みに喧嘩をし、放課後の補習をサボったせいで、恭祐は宏太に会いづらくなっていた。旧校舎へは行けない。お昼をどこで食べようか考えていると、教室は半分くらいの人数まで減っていた。これなら静かで食べやすいかもしれないと、恭祐は自分の席でお弁当を広げる。
久々のぼっち飯。何故か以前よりも寂しく、つまらなく感じた。前は一人でも平気だったのに、今は昨日までの日々が恋しかった。
恭祐が溜息をついた時、購買のお弁当を持った凌汰と宏太が教室へと現れた。二人は何食わぬ顔で自分たちの席へと座った。思いが強すぎて、とうとう幻覚まで見えるようになってしまった。恭祐は重症だと頭を抱えた。
「ちょっと。佐々木くん」
凌汰が恭祐の方に触れる。その感触で幻覚ではないのだと、恭祐は我に返った。
「なんで」
「教室で集まるんでしょ」
凌汰が笑顔で答えた。
「次、国語だからついでな」
すかさず宏太が付け加える。
「ありがとう」と恭祐が言うと、「いや、こちらこそ」と宏太はぶっきらぼうに言い、ご飯を一口食べた。この時のご飯は、三ツ星レストランよりも美味しいと感じた。
昼休みも終わり、五限目に差し掛かる。橋本はいつものように宏太の事を他の生徒と変わらないように接していく。
恭祐は今の席になった初めの頃を思い出した。あの頃と今では、この席に対する感覚が全く変わっていた。あの頃は、隣で寝ている宏太を起こすのを怖がっていたが、今では隣で宏太が授業を受けている事が嬉しかった。
国語の授業が終わり、凌汰がすかさず後ろを振り返る。宏太を捉えると、「このまま、六限目も出ちゃえば?」と誘った。少し間があったものの、宏太は「おう」と短く答え、社会の教科書を机の中から取り出した。
宏太が社会の教科書を出している。初めて見る光景に恭祐は宏太をまじまじと見てしまった。
「何? そんなに見てるとマジでキレそう」
宏太が冗談交じりに言う。
「キレたら怖そう」
恭祐は冗談のように、半分本音で言った。やはり最恐ヤンキーの怒った時の迫力は相当なものなのだろうと思った。
「宏太って、あんまり怒らないよね?」
凌汰が言う。
「そうなんだ」と恭祐が言うと、「怒ったところ見たことないかな。寧ろ俺の方が怖いかも」と凌汰は笑顔で答えた。
恭祐は凌汰が怒るところこそ、全く想像が出来なかった。二人の怒った姿を見たことが無い。最恐ヤンキーと一緒にいるくらいだ、凌汰も怒ると最恐クラスで怖いのではないか、と少し身構えた。
六限目では、先生が教室に入ってくるなり宏太の姿に驚いていたが、順調に進んでいった。日頃の補習のおかげで、宏太は授業にはしっかり付いて行けているようだった。
そして、その話はすぐにあの人の元へと届く。
「おい! 宏太、今日社会の授業出たのか?」
放課後の教室に勢いよく入ってきたのは、橋本だった。
「うるせー」
宏太は言葉の割に嬉しそうだった。
「この補習が必要なくなる日が来るといいな」
橋本は感慨深く言った。
「でも、無くなっちゃうの寂しい」と、凌汰が口を尖らせる。
「あ、でもお前たちは授業も補習も出てるのに赤点ってどういうことだよ! わざとか!」
橋本は恭祐と凌汰を指した。今後は宏太の為ではなく、恭祐と凌汰の為の補習になりそうだった。
補習も終わり、帰り支度を始める。窓の外を見ると、空はまだ青さが残っていた。
「日、延びたな」
宏太がぼそっと呟く。夏至が過ぎて、あとは短くなるのみだが、感覚的にはまだまだ長かった。
「早く終わった感じがする」と恭祐が言うと、「分かる! なんかお腹空いたなあ」と、凌汰が伸びをした。
「なんか食う?」と、宏太が聞いた。
「あ、それなら行きたい場所あります」
恭祐が控えめに手を挙げて言うと、満場一致でそのお店へ行くこととなった。
「グ、レイト?何屋さんここ?」
お店に着くなり、凌汰が恭祐に聞いた。
看板には「great」と筆記体で描かれていた。このお店は三人の家の最寄り駅の間にあり、下校途中に寄りやすい場所だった。
「ラーメン屋さん。最近このお店が出来て気になってたんだ」
恭祐はそう言い、お店の中へ入った。
「ラーメン屋って普通、店名は日本語とかじゃねぇの?」
宏太は店名を見ながら首を傾げた。
中ではバイトであろう高校生くらいの女の子が恭祐たちを出迎えた。店内は席がほとんど埋まっていて、カウンター席へと案内された。
「いらっしゃい! 初めましてだね!」
カウンター前は厨房で、店長の名札を付けた威勢のいい人に声を掛けられた。左から凌汰、恭祐、宏太の順で座る。
「お客さんの顔覚えてるんですか?」
凌汰が聞いた。
「いいや、覚えてないよ! 確率は2分の1! どう? 当たった?」
凌汰は当てずっぽうかと肩を落とす。
「ただね、君たちは次来た時も覚えてるな。自信あるよ!」
店長はそれだけ言うと、湯切りを始めた。
手元にあるメニューから、三人とも『当店一番人気』と書かれていた醤油ラーメンを注文した。恭祐は左端にあったシルエットにはてなマークが付いているメニューが目に付き、「これ、何ですか?」と店長に聞くと、「新メニュー出そうと思ってるんだけど思い付かなくて。何か良いのある?」と、逆に聞かれてしまった。
思い付いていない段階でメニューに載せるなんて変な店長だと、恭祐は思った。新メニューを三人で考える。まだ、このお店のラーメンを一口も食べていないのにメニューを考えている光景が可笑しかった。
「生ハムなんてどうかな」と案を出したのは、凌汰だった。
「生ハム? おお、新しいな」
店長の食いつきも上々だった。
「店名も筆記体でおしゃれな感じだったし、洋風な感じでいいかなと思って」と凌汰は付け加えると、店長はなるほどと納得した。
「ここは居抜き物件で、安く借りたんだ。前のお店がパスタ、だったっけな。洋風なお店で。看板も前の店名のグレートなんたら~ってやつをそのまま使ってるんだよね」
店長は少し恥ずかしそうにしていた。
「自分のお店持ったら、名前付けたいって思わなかったですか」
「最初は全然違う店名考えてたんだけど、下見であの看板見た時にピンと来てさ。あと俺、壊滅的にセンスないのよ~」
店長が自虐し笑う。「へい、おまち!」と醬油ラーメンが3つ目の前に並んだ。ラーメンを前に三人の箸が止まる。
「いや安心してよ! ラーメンは美味いから!」と、店長が笑いながら言う。そりゃ当たり前だ、こんなに繁盛している店のラーメンが不味い訳がない。三人は、一斉にラーメンをすする。
「うまっ!」
一番に声を上げたのは宏太だった。恭祐も凌汰も箸が止まらなかった。
「こんなに美味しかったら新メニューとか要らないんじゃないですか?」
恭祐がスープを飲み干し聞いた。
「それは、嬉しいなあ。でも、醤油、塩、味噌。うちのはどこのラーメン屋にもある普通のメニューだ。美味い店なら他にもあるし、うちは個人経営だから変わり種が欲しくて」
店長は店内にいるお客さんを見渡し、優しく微笑んだ。そして、「今度は生ハム用意しとくから、また来てね」と言って、三人に割引券を渡した。
「ありがとうございました!」
威勢のいい声を背中で感じ、恭祐たちは店を後にした。
「初めてきた客の新メニュー採用して最後に割引券渡すとか、どんな経営してんだよ」
駅に向かう帰り道、宏太は割引券をひらひらとさせる。
「でもいいじゃん。店長さんもいい人そうだったし。ラーメンもすっごく美味しかったし」と凌汰は明るい声で言った。
「随分とご機嫌じゃん。新メニューが採用されたからか?」と、宏太は皮肉を込めて笑う。
「まだ採用と決まった訳じゃないし」
「でも生肉用意しとくって、採用も同然だろ」
「生肉じゃなくて生ハムですうー」
「何が違うんだよ。ハムも肉だろ。なぁ、恭祐」
「いや、俺は生ハム知ってるけど」
恭祐は、宏太と凌汰のやり取りを見て笑ってしまった。まるで小学生の言い争いだった。
「おい、笑うなよ! 俺だって生ハムくらい知ってる」
宏太のムキになっている姿に恭祐が堪えきれずに笑ってしまい、また宏太に怒られた。
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