3
放課後。使われていない旧校舎。地面を跳ね返るほど激しく打ち付ける雨が、外の視界をぼんやりと白く包む。スコールに見舞われ、夕方とは思えないほどに辺りは暗かった。
藤木たちに腕を掴まれ、連れて来られた。学級編制などで使われなくなり、今では古い教材の倉庫と化していた。建物内は埃っぽく、全体的に色味が褪せている。
しんとした空気。外の雨音だけが聞こえてくる。雨の湿気で埃の匂いが舞い上がり、鼻が取れそうだった。
「はい、これ」
そう言って、藤木に差し出されたのはアニメキャラの描かれた缶バッジだった。大きさは手のひらより一回り程小さく、薄紫色の長い髪の少女が描かれていた。このキャラは、財布に入っていたカードと同じキャラだった。
「お前に売ってやるよ」
藤木が不吉な笑みを浮かべる。
「買うだろう? お前の好きなキャラなんだから」
森丘が半笑いで言う。そして「好きなキャラならどんな物でも買うんだろ、オタクって」と付け足した。
「はい、二千円ね」と、藤木は右手を出し、缶バッチにしては明らかに高い額を請求してきた。彼らがにやつきながら恭祐を見る。恭祐が財布を出すのをまだかまだかと待っている。
この世界まで奪われる。恭祐は心の拠り所を藤木たちに汚されるのが我慢ならなかった。
「もうありません」
恭祐の声は、雨音にかき消されてしまいそうだった。
「無いって何が?」
藤木の怒りが混ざった声に恭祐の心臓がぎゅっと締め付けられる。
「お金がもう無いんです」
恭祐の言葉に藤木の表情が明らかに歪んだ。森丘は藤木の表情が目に入るや否や、恭祐が着ているブレザーのポケットに手を無理やり突っ込む。無抵抗のまま財布を取り上げられ、森丘は中を開いた。続けて藤木と田中も恭祐の財布を覗き込む。財布の中には、お金どころかカード類もレシートも何一つ入っていなかった。
「何これ?」と、藤木の声は先程にも増して、怒りを含んでいた。
「もう本当に無いんです。もうやめてください」
消えてしまいそうな声で、恭祐は頭を下げた。
田中が恭祐の髪を掴み、頭を持ち上げる。恭祐の憔悴しきった表情を見てにやっと笑うと、藤木にアピールするかのように言った。
「無いんだったらバイトするとかあるじゃん。ねぇ?」
藤木は腕を組み、窓の外を眺める。
「そうだな。でも、今日はどうする? 手持ちが無いなら、何で支払えばいいと思う?」
藤木の言葉に雨音が聞こえなくなった。呼吸も忘れて立ち止まる。恭祐は恐怖と焦りの中で必死に考えた。
「何か、物を売ってお金にするとか、ですか」
藤木は自分のスマホを取り出し、カメラを恭祐に向けた。
「何してんの」
森丘が恐る恐る藤木に尋ねる。
「お金を持って来なければ俺たちに出さなくていいだろう、みたいな安易な考えだったら正してやろうと思って」
藤木のスマホからピコンと音が鳴る。録画が開始されたのだと恭祐はすぐに分かった。
「脱いで」
そう発した藤木の声が、画面越しで恭祐を見るその目が、冷たかった。生きた人間の目をしていなかった。
「おい。まじか、それ」
「えぐ」
田中と森丘もさすがにスマホを向けた藤木には引いたようだった。
「お金が無いなんて、あり得ないだろ。こいつの家、金持ちなんだから」
吐き捨てるように藤木が言う。恭祐とは目を合わせず、画面の中の恭祐に向かって言っているようだった。田中と森丘は黙って藤木を見ていた。というより、それしか出来なかった。
「罰は受けなきゃ、でしょ」
ずっと画面に向けていた藤木の目が恭祐を捉える。その目は殺意を感じられる程に鋭かった。
このままだと殺されるかもしれない。恭祐は恐怖に縛られた。お金を持ってこなかった事で怒らせてしまった。言う事を聞かないと、生きて帰れない。恭祐は「殺される」か「言う事を聞く」かの二択を天秤にかけていた。殺されたくない、言う事を聞く方が遥かにマシだった。脱いで命が助かるのならと、迷うことなくブレザーに手をかけた。
緊張が走る。恭祐がブレザーに手をかけた瞬間に画面を見つめる藤木の口角が少し上がった。正解した。正しい方を選んだのだ。これで殺されなくて済む。助かったのだ。
恭祐は脱いだブレザーを薄く埃の被る廊下へ落した。起こった風で煽られた埃がくるくると廊下の上を這って行く。次は、Yシャツへと手をかける。ボタンをひとつひとつ外していくと、中に着ていたインナーの面積が広がっていく。
その時、恭祐の脳内に宏太の言葉が響いた。
___________がっかりさせんな。
スーパーで過ちを止めた宏太の言葉が、恭祐の手を止める。今こうして服を脱いでいるのは自分を守るためではない。言いなりになってはいけない。逃げよう、自分を守るために。でも、どこへ?
恭祐に考えている暇など無かった。考えるよりも先に体が動いていた。どこだっていい。逃げる事を最優先に考える。乱れた服も気にせず、恭祐はただがむしゃらに逃げた。
「おい、待て!」
藤木は、見失うまいと必死で追いかける。恭祐が階段を上る姿が、一瞬だけ藤木から見えた。
「上だ!」
藤木は声を荒げた。体力に自信のある森丘が先を走る。上の階まで上り切った時、恭祐の姿は藤木たちの視界から消えていた。
「おい、どこだ!」
「逃げんな!」
三人で声を荒げ、姿の見えない恭祐を威嚇する。その時、バタンとドアの閉まる音が聞こえた。
「こっちだ!」
森丘が先陣を切り、音がした方へ走る。着いた先は男子トイレだった。個室の表示錠は赤で、鍵が閉まっていた。
「出て来いよ」
「逃げても無駄でしょ」
「お前が悪いんだからな」
藤木たちがドアの向こうで叫んでも、何も反応が無い。ドアを開こうとするが、勿論鍵がかかっているため開かなかった。
「今更いないフリなんて無意味なのに、馬鹿だな」と藤木はほくそ笑んだ。
「無視してんじゃねぇよ!」
藤木はドンっと一発ドアを思いっきり蹴った。中から「ひぃ」と微かに声が聞こえる。
「絶対あいつだ、あいつが中にいる」
藤木は笑いが止まらなかった。掃除用具入れを開け、中からホースを取り出す。
「何すんの」
森丘が一瞬、不安そうな表情をした。
「何って決まってんだろ」
藤木はホースを蛇口に繋ぎ、水を出した。ホースの先からは水が量を増しながら流れていく。排水口の水はけが悪い。真ん中に水たまりをつくっていった。
「あーあ、本当はこんな事したくなかったんだけどなー」
藤木はわざとらしい口調で煽る。
「これが最後のチャンス。出てくるなら、今のうちだよー」
藤木の言葉に、表示錠が赤から青へ変わった。ゆっくりと扉が開く。
「とうとう観念したか」
藤木に笑みが浮かぶ。
「出てきたけど、何?」
中から出てきたのは、こちらを睨む渡邊宏太だった。
宏太だと分かった瞬間、藤木の足が震え出した。
「どうなってんだよ! あいつを追いかけてきたんじゃねぇのかよ!」
藤木が声を荒げ、森丘へ詰め寄る。
「あいつって誰?」
宏太に聞かれると、藤木たちは気まずそうに大人しくなった。
「す、すいませんでした!」
藤木の大声が男子トイレに響き渡り、走り去っていった。足音の響きが段々と小さくなっていき、後に続いて二人も走って出て行った。
藤木たちの足音が完全に消え、トイレにはホースから出る水の音だけが聞こえていた。
「もう出てったぞ」
宏太が蛇口を閉め、ホースを抜いて後片付けを始める。宏太が出てきた個室から、恭祐が静かに出てきた。
「ありがとうございます」
恭祐は消えそうな小さな声で言った。
「急にここに入ってくるから何かと思った」
「ごめんなさい。でも、渡邊くんは、どうして此処に?」
恭祐の問いかけに少しの間が生まれた。その間が恭祐を不安にさせる。
「雨だったから」
恭祐には分からなかった。雨が降ると何故、旧校舎の男子トイレへ行くのか、もっと聞きたい気もしたが止めておいた方がいい雰囲気を感じ、「そっか」とだけ答える。
「あいつらと普通に友達なのかと思ってた」
宏太が後片付けを進めながら言った。
「隣の席なのに気づけなくてごめん」
宏太は恭祐に頭を下げた。
「どうして」
藤木たちから謝られたことなんて一度も無かったのに、どうして助けてくれた渡邊くんが謝るの。恭祐は苦しかった。嬉しいのに苦しかった。
「あいつらって、いつもああなの」
宏太の問いかけに恭祐は小さく頷いた。
「誰かに相談とかは?」
恭祐は首を横に振るだけだった。
「そうか。よく一人で頑張ったな」
頑張った、その言葉が恭祐の心に染みた。涙が溢れて止まらなかった。宏太の一言で今までの日々が報われた気がした。
宏太は泣いている恭祐を見ても、それ以上は何も言わなかった。恭祐にとっては、それがありがたく、落ちる涙と共に心がゆっくりと温かく、柔らかく、溶けていくようだった。
ずっと泣きたかったんだ。それからは気の済むまで泣いた。今まで心に閉じ込めてた分まで泣いた。
片付けも終わり、排水口に溜まっていた水も流れ切った頃、泣き疲れて遠くをぼんやりと見ている恭祐に宏太が聞いた。
「もう帰るか? それともどっかで休む?」
窓から外を見ると雨は少し弱くなったが、空は段違いに暗くなっていた。今は一人になるのが怖く、また待ち伏せされているのではないかと不安になる。
「まだ帰りたくない」
恭祐の言葉は尻窄みになっていった。もしかしたら、面倒くさい、早く帰って欲しいと思われてるかもしれない。しかし、藤木たちへの恐怖が恭祐の足を此処へ留めた。
「これから、はっしーの授業あるけど来るか?」
恭祐にとって宏太の誘いは意外だった。一人にならなくていい。まだ一緒にいられる、と嬉しかった。
「いいの?」
「いいよ。てか、前にも来ただろ」
恭祐に向けられた笑顔はすごく優しかった。
教室に着いた。同じ距離なのに、藤木たちに連れられた時より宏太と一緒に戻って来た時の方が時間が経つのが早かった。
宏太が躊躇なく戸を開ける。中には凌汰と橋本が既にいて、橋本は立っているのが疲れる椅子に座っていた。
「遅いよ、宏太。あ、佐々木くんも来てくれたんだ」
凌汰はいつもと声色を変えず、むしろ宏太が見えた時には少し嬉しそうな表情を見せた。
宏太はぶっきらぼうに「ごめん」と返し、自分の席に着く。恭祐も後を追って席へと着いた。
恭祐は急にお邪魔して迷惑だったのではないかと心配になった。前回も事前に何も言わずに参加したし、前回の補習から結構期間も空いてしまった。
「今日は物理やるぞー」
そう言って配る橋本の手には四枚のプリントがあった。恭祐は自分の分まで用意されている事が嬉しかったのと同時に、今までも四枚用意してもらっていたのかと思うと申し訳なかった。
「今日は慣性の法則についてやっていくぞ。皆、慣性って分かるか?」
「……」
「うん、そうか。あのな、例えば」
返事が無いことを分からないとみなした橋本は説明を始める。
「電車の中でつり革に掴まらず立ってるとして、発進すると後ろによろけるだろ。あれは乗客が止まり続けようとしているからなんだ。逆に電車が止まる時は乗客が前へよろける。これは乗客が前に動き続けるからなんだ。こういった、静止しているものは静止し続け、運動しているものは運動し続けることを慣性の法則って言うんだ」
「ねぇ、はっしー」
「ん? どうした凌汰」
「俺は電車で立って乗っても、よろけたりしないけど」
「さぞかし体幹がいいんだな」
それから何度説明しても、凌汰は体幹が良いせいか、慣性がどういうものなのかピンときている様子は無かった。
「今日の物理はここまで。予定より時間押しちゃって悪かったな。気をつけて帰れよ。雨だし」
そう言って橋本はいち早く教室を後にした。
「確かに、すごい雨だな」
宏太が窓の外を見る。つられて恭祐と凌汰も窓の外を見る。一時、弱まっていた雨がまた強さを増していた。
「佐々木くんは帰りは電車? チャリ?」
「いつもはチャリだけど、今日は雨だったから電車で来たんだ」
「じゃあ、一緒だね」
「あと三十分で雨収まるな。それまで待つか」と宏太がスマホで雨の様子を調べていた。
「そうだね。それまで此処で雨宿りしてようか。宏太、ありがとう」
凌汰が宏太にお礼を言うと「おう」とぶっきらぼうに返事をした。
「あ、止んだね」
凌汰が窓の外をぼんやりと見る。恭祐が教室の時計を見ると、宏太が言っていた時間通りだった。
「じゃあ、帰るか」と宏太が立つと、恭祐も凌汰も席を立ち、帰り支度をした。
「電気、消すね」
凌汰が最後、教室の照明のスイッチを切る。恭祐が「ありがとう」と声を掛けると、「いいえ」と爽やかに返した。
「静かだね。誰もいない」
教室を出ると廊下の電気はついておらず、恭祐たち以外には誰もいないのだと感じる。三人の足音が校内に響く。
玄関のそばに体育館があり、バスケ部の声が聞こえてきた。熱が中に籠もらないように、扉は常時開いていた。覗くと試合中の活気ある様子が目に映った。
「あ、三人だけじゃなかったね」と凌汰が履き替え、微笑む。宏太は「そうだな」とだけ言い、中の様子をじっと見つめたままだった。
「中、気になる?」
凌汰が宏太の様子に気付く。宏太は「いや」とだけ短く答えた。視線を逸らし、雑に靴を出すと、踵を踏んで先に行ってしまった。
「あ、ちょっと待って」
恭祐と凌汰も急いで靴を履き、宏太を追いかけた。
学校から最寄り駅までは徒歩で約十分。学生の数は、朝のピーク時より圧倒的に少ないが、この時間でも多かった。駅には同じ制服の生徒も多かったが、他校の生徒もそれなりにいた。スーツ姿の人もちらほらいるが、学生が八割といったところだろう。女子高生たちの大きく高い笑い声で騒がしかった。
「帰りどっち方面?」
宏太が恭祐に聞いた。
「神本方面だけど」
「そうなの? じゃあ、俺たちと同じだね」
凌汰が笑みを浮かべながら言う。三人は改札にICカードを翳して、ホームへ入った。
『まもなく二番線に普通列車が参ります』
アナウンスが入り、電車が減速しながら駅へと入る。座席は埋まっており、三人並んでつり革に掴まる。心地よく揺れる電車が、次の停車駅で急停止した。車内にいた乗客が大きく進行方向へ揺れる。恭祐と宏太はつり革に掴まりながらも大きく揺れた。
「これ、慣性の法則じゃない?」
凌汰が恭祐と宏太に嬉しそうな表情を見せる。恭祐と宏太も本当だ、と三人でケラケラ笑った。扉が閉まり、更に人数が減った車内。今度はゆっくりと発車した。
「明日って、はっしー何やんのかな」
宏太が言うと「さあ。何だろう」と凌汰が答えた。
「明日も来いよ。嫌じゃなければ」
宏太は目線を窓から逸らさなかった。しかし、その言葉は恭祐に向けられたものだと、三人は理解していた。恭祐は宏太の言葉に「ありがとう」と小さく答えた。
『次は神本』と、車内アナウンスが聞こえ、恭祐は降りる準備を始めた。
「じゃあ、次で降りるね」
「おう、気をつけて」
「じゃあね、佐々木くん。また学校で」
「うん。今日はありがとう」と恭祐は微笑んで電車を降りた。
扉が閉まり、またゆっくりと発車していく。上りのエスカレーターにできる行列が徐々に速度を上げて目の前を流れていく。
「宏太さ、はっしーの授業遅れてきたけど、佐々木くんと何かあった?」
お互いに目は合わせず、ただ車窓から見える景色をぼんやりと見つめる。
「あいつ、昔の俺と似てるんだ。助けてやりたくて。凌汰が俺を助けてくれたみたいに」
凌汰は、一瞬だけ驚いたように目を開いたが、その後、冗談ぽく言った。
「そっか。でも、グレないでよ? 俺みたいに」
「はは。笑えねぇ」
小さく笑った宏太は見慣れた景色から目を離さなかった。
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