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朝、教室に入ると席が変わっていて、まるで別の教室のようだった。新しい席ということは、渡邊宏太の隣ということだった。
藤木たちの他に宏太にまで標的にされるのではないかという不安と恐怖の中、恭祐は新しい席に着いて周りを見渡す。幸い、藤木たちの席は恭祐の席から一番遠い場所にあった。
恭祐の視界に凌汰が映り、目が合った。凌汰は恭祐に挨拶をする。恭祐も挨拶を返す。凌汰はにっこりと微笑むと、恭祐の斜め前の席、つまりは宏太の前の席に座った。
前回は隣で、今回は前後。またもや二人の席の近さに恭祐は少し委縮した。二人はどういう関係性なのか。宏太に加わり、凌汰も標的にするのではないか。そんなネガティブな思考が恭祐の中で渦巻いていた。
宏太がいつ来るのかと恭祐は内心ビクビクしていたが、結局、一日姿を現さなかった。
下校時間となり、恭祐が正門へ向かうと、藤木たちが門の前で立っているのが目に写った。彼らは、しきりに校内を覗いてにやにやしている。恭祐の事を外で待ち伏せしているのだろう。まだ恭祐に気づいていないようだが、これでは帰れない。彼らがいなくなるまで、恭祐は教室で暇を潰すことにした。
静かな校内は、オレンジ色に染まっていく。二年一組の教室の戸を引くと、「佐々木くん。忘れ物?」と声がした。
教室の中には凌汰と宏太がいた。宏太は恭祐を冷たい目で見ている。何故、欠席の宏太がここに。驚きと疑問が頭の中をぐるぐるして、凌汰に対して「うん」とも「ううん」とも取れる曖昧な返事をした。暇つぶしだとは言えなかった。自分の席に行かなければ不自然になると思い、用は無いが宏太の隣へと近づく。
「宏太、隣の席になった佐々木くんだよ」
唐突に凌汰に紹介され、恭祐はどうしていいか分からず、「佐々木です」と軽く頭を下げた。「渡邊です」と、宏太も同じく軽く頭を下げる。ぎこちない空気が漂い、その後の会話が広がることもなかった。まるで初対面のような、同じクラスになって二ヶ月目の自己紹介だった。
「忘れ物は?」と凌汰に言われ、忘れ物を取りに来ていることになっていたんだと思い出す。二人に見守られながら、用のない教科書を数点リュックに詰めた。
「佐々木くん、勉強するの?」
「ま、まぁ、そんなとこかな」
苦しい言い訳だった。
「偉いなぁ。今度、宏太と俺に教えてよ」
「も、もちろんだよ」
他に返し方が思いつかなかった。勉強なんて全然できないのに、その場の空気で答えてしまい後悔した。
教室の窓から正門を覗くと、門の前にはまだ藤木たちがいた。立ち去る気配がなく、当分帰れそうになかった。
宏太は、恭祐と凌汰の会話を終始無言で聞いているだけだった。表情から感情は読み取れない。無言でいる宏太が怖かった。凌汰との時間を邪魔してしまい、怒っているのかもしれない。恭祐は冷や汗が止まらなくなり、すぐにでも立ち去りたかった。
「じゃあ、行くね」
「佐々木くん。また明日ね」
恭祐は静かに戸を閉めると、早歩きで図書室へと向かった。
* *
翌日、恭祐は隣に圧を感じながら授業を受けていた。
「えー、ここの『あの日』が指すのは……」
国語教師の橋本は抑揚のない無気力な声で、スラスラと黒板に書いていく。
「おい、宏太寝るなー」
橋本は抑揚なく注意する。圧の正体である宏太は堂々と机に突っ伏して寝ていた。
「渡邊、渡邊、わたなっ……。佐々木、起こしてやれ」
教壇から呼ぶことを諦めた橋本は、恭祐に起こすよう指示した。
「えっ? あ、はい」
戸惑いながらも恭祐は覚悟を決めて宏太に触れる。しかし、触れることが怖くて想像よりソフトタッチだった。指先が自分の体では無いみたいに力加減が難しかった。触っているだけでもかなり凄いことではないか。触られたことにキレてパンチが飛んでくることはないだろうか。最悪の事態も想定しながら、宏太を起こしていた。これは恭祐にとって命懸けだった。
「弱い、弱いよ。もっと強く!」
橋本は先程の無気力とは一変、楽しそうな表情だった。こっちが命を懸けているというのに、と恭祐は少し不服だった。橋本に言われるがまま、今度は少し頭が揺れるくらいの強さでゆすった。しかし、反応はない。
「もうちょい!」と、橋本の表情が生き生きとする。それを見て、恭祐は危険な人間だと思った。しかし、言われたのでは起こすしかない。今度は頭がぐわんと揺れるくらいの大きさで彼をゆすった。
「ん」
宏太から声が漏れる。起きたようだ。猛獣の行く末を見張るように、教室の視線が宏太へと集まっていた。
「おはよっ、宏太くんっ」
橋本がぶりっ子キャラのように話し、宏太を煽る。教室中がやめてくれと橋本に念を送る。この中で楽しんでいるのは橋本だけだ。
「あ?」
宏太の低音が教室に広がっていった。
【結果:渡邊宏太は寝起きが悪い】
教室の空気が一瞬で凍った。これから暑くなるこの時期には、ちょうど良いのかもしれない。そんなわけない。クラスメイトの寿命が五年は縮んだように感じた。
「で、この表現は比喩を使って……」
橋本が何事も無かったかのように、再び無気力なトーンに戻った。宏太が「今どこ?」と眠たそうな目で恭祐に聞いてくる。
「さ、三十八ページ」
「サンキュ」
そして手元の教科書をパラパラと捲り、三十八ページを開くと、もう一度バタッと机に突っ伏した。「宏太ー!」と、教室に響く橋本の声。
「佐々木、もう一回」
「またですか?」
この猛獣使いもまた猛獣だった。
橋本の授業はいつもチャイム前に終わる。挨拶が終わると、途端に隣では帰り支度が始まった。
「宏太、もう帰るの?」
宏太の立てる物音で、凌汰が振り返る。
「おう」
「そっか、気を付けてね」
凌汰は他にも何か言いたそうだったが、終鈴と共に教室を出て行く宏太を黙って見送った。溜息をつき、宏太とは逆方向へ教室から出て行く。恭祐はふたりの様子を横目で見ながらも、関係ないように次の授業の準備をしていた。
準備が終わり、ひとり席に着く恭祐の元へ藤木たちが近づいて来た。
「あーあ」
嫌でも耳に入ってしまうこの声。宏太がいない日や帰った後に、三人が近づいてくることが最近になって分かってきた。その所為か、恭祐は宏太が隣からいなくなると不安感や心細さに襲われるようになった。そうは言っても、宏太が居るから安心という訳でもない。居たら居たで緊張はする。
「数学の教科書忘れちゃったんだよねー」
「えっ、やばいじゃーん」
「あの先生、怖いよ。忘れ物厳しいし」
目の前で広げられている棒読みの茶番。藤木は宏太の机に座り、森丘と田中には机の前に立たれ、恭祐の視界は彼らで塞がれた。彼らが壁となり、周りから恭祐の様子は見えていなかった。
「おい、こんなところに教科書があるぞ」と、森丘が恭祐の教科書を手に取る。
「この教科書も馬鹿のお前に勉強されるより、学年一位に勉強される方がいいだろ」
田中の言葉に藤木は冗談ぽくやめろよと言ったが、まんざらでもない表情だった。実際、藤木は一年のときから学年一位をキープし続けている秀才だ。外面だけは良く、余計にタチが悪かった。
「別にいいよな。お前は教科書なくても」
藤木の言葉にケラケラと笑う三人。彼らに、やめての一言も言えなかった。
「おい、なに机に座ってんだよ」
低音で響くその言葉に藤木たちは凍り付いた。三人の目線の先には、出て行ったはずの宏太の姿があった。
「おい、聞いてんのか」
宏太の声にピタっと静まる室内。クラス中の視線が宏太に集まっていた。
机に座っていた藤木は勢いよく飛び降り、「すみません、すみません」と何度も謝った後、一目散に教室の外へと飛び出していった。その後に続き、森丘と田中も教室を出て行く。恭祐の教科書と共に。
「あれ? 宏太、戻ってきた?」
藤木たちとすれ違いで教室に入ってきた凌汰の表情は、クラスとは対照的に少し嬉しそうに見えた。
「忘れ物」
宏太はボソッと言うと、自分の席に座り、中を漁る。凌汰は「そっか」とだけ答えた。
「佐々木くん、次の授業ってなんだっけ」
「あー。数学」
凌汰の質問に少し変な間が生まれてしまった。
「ありがとう。ってあれ? ノートだけ?」
「あーっと、忘れちゃって」
さっき盗られました、なんて言えるわけがなかった。
「あの先生、忘れ物に厳しいじゃん。大丈夫?」
大丈夫な気はしなかった。理不尽な説教を受けるのは気が弱いから、藤木たちに何も言えないから。恭祐は心の中で自分を責めた。
「しょうがないよね」
恭祐は、そっと視線を机に落とした。すると、机いっぱいの視界に横から数学の教科書が入ってきた。驚いて顔を上げると、差し出していたのは宏太だった。
「ごめん」
宏太は小さく一言だけ呟くと、急いで教室から出て行ってしまった。
恭祐は言葉の意味が分からなかった。聞き返すことが出来ずに、教室から出て行く姿を見ていることしか出来なかった。そして、去り行く背中を見ながら感謝した。藤木たちが宏太に怒られ、恐怖に慄いてる表情を見て少しスッキリした。教科書も貸してくれた。宏太の怖さが少しづつ溶けていくようだった。
教科書を借りたおかげで、恭祐は先生に怒られることなく、授業は順調に進んでいった。教科書をパラパラと捲ると色んなページにラインマーカーや書き込みがされていた。それが不思議だった。宏太は、一度も数学の授業には出ていなかった。誰かから盗んできたのかと裏表紙を捲る。そこには、『二年一組 渡邊宏太』と律儀に書かれていた。本人の物だったことに安堵し、疑った事に罪悪感が芽生える。
ああ見えてちゃんと教科書を持って帰って、家で勉強してるのかもしれない。期待を胸に、宏太の机の中を覗く。教科書やプリントがパンパンに詰まっていた。持ち帰るなど微塵も感じない、己の容量以上に詰め込まれた机は心做しか天板がしなっているように見えた。
無事に切り抜けられたのは宏太のおかげた。教科書を閉じると、開き癖で勝手に広がり、裏表紙に書かれた名前が目に入った。上手とは言えないが、丁寧さが伝わる文字だった。
宏太は、ここに名前をどんな思いで書いたのだろう。授業を受ける気が無いのならそもそも書かないはずだ。書くからには、その当時は授業に出るつもりがあったのではないか。何故、宏太は急に気が変わってしまったのか。
「俺たちのせいかな」
恭祐の呟いた声は教師の声にかき消された。
彼も本当は教室に居たかったのかもしれない。クラスで過剰に扱われれば行きたくないのも当然だ。彼が授業を拒絶しているのではなく、こちら側が彼を拒絶しているのか。
恭祐は宏太の名前を指でなぞる。宏太の事を思うと辛くてたまらなかった。
授業が終わり、「飯だ飯だ」と騒がしくなる教室。教科書を机の中へ返そうとするが、もちろん入る訳がなかった。
「佐々木くん、どうしたの」と、凌汰が恭祐に声を掛ける。
「教科書返そうと思ったんだけど、中々入らなくて」
「あー、それね。宏太ずっと置き勉してるから中がいっぱいだよね。宏太のあるあるだよねー」
今回が初めてな恭祐にとって、あるあるが全く共感出来なかった。
「俺から宏太に返しておくよ」と手を伸ばす凌汰に、「あと一つ聞きたいんだけど」と恭祐は言った。
「どうした?」
「あの、教科書に書き込みとかあったんだけど授業出てないから不思議で」
「あー、それね」
一瞬で凌汰の顔が曇ったのが分かった。何かマズいことでも聞いたかと不安になる。
「佐々木くん、今日って放課後時間ある?」
「ある、けど」
「じゃあ、その時に話すね」
凌汰はそう言って、教室を出て行った。
ここでは答えられないような、まずい事を聞いてしまったのだと焦った。気に障るようなことを言ったから、標的になるんじゃないか。「生きて帰れると思うなよ」と暴力振るわれるんじゃないか。悲観的な考えが頭の中を周り、これが最後の晩餐ならぬ、最後の昼食になるんだと、自分のお弁当をまじまじと見つめた。
放課後となり、クラスメイトはまばらに帰っていく。とうとう教室の中は凌汰と恭祐の二人だけとなった。どちらからも話し出そうとしない、シンとした時間が流れていた。
「あ、あのさ」と、恭祐が待ちきれずに口を開いた。凌汰は、どうかしたと言わんばかりの表情で振り返る。自分が引き留めていることを忘れてしまっているのか。すると、教室の戸を勢いよく開いた。その音に凌汰も恭祐も視線を移す。
「おー。ってあれ、佐々木か」
教室にやって来たのは橋本だった。
「意欲的だな、偉いぞ」
意欲的、偉い、が何を指しているのか恭祐には分からなかったが、橋本に何かを受け入れられたことだけは分かった。このまま時間が経てば余計に混乱する。凌汰は依然として座っているままだった。自分から話す気はないらしい。恭祐が凌汰に手を伸ばした時、教室の戸を引く音が再び聞こえた。
「えっ」
恭祐と入ってきた人物の視線がかち合う。宏太だった。宏太も恭祐がここに居ることに戸惑っているのか、中々教室に入ろうとしなかった。「宏太?」と凌汰に呼ばれて、我に返ったように教室へと入る。
「じゃあ、今日は社会やりまーす」
橋本が「じゃーん」と効果音と付けてこちらに見せたA4のプリント用紙。三枚用意されており、そのうち一枚は橋本のものだったのだろう。手持ちが無くなり、凌汰の持つプリントを覗き込んで上下逆の向きから読み上げていく。これは補習かと恭祐は首を傾げた。書かれている内容も、今日やったばかりの所だった。そうすれば、宏太が出てない授業の問題をやってた事の辻褄が合う。
「はっしー、ここがよく分かんなかった。もう一回説明して」
橋本が説明の一区切りをつけた時、宏太がさらりと割って入る。
はっしー、だと。恭祐は衝撃を受けた。宏太がそんな風に橋本を呼んでいることが信じられなかった。そんなに橋本と仲が良かったのか。教室では常に無表情で人と距離を置いているような宏太に、ニックネームで呼ぶような仲の良い人が居たのか。恭祐は驚きと同時に悲しくなった。恭祐にはニックネームで呼び合う関係性の人がいない。孤独という部分で陰ながら親近感を抱いていた分、置いて行かれたようだった。
「ごめん、宏太。分かりづらかったね。ここは……」
橋本もさらりと答える。はっしーを受け入れている。
「……で、ここ次から大事なところ。テストに出るからマーカーで引いておいて」
強調するように橋本は読み上げていく。
「なんで社会のテストに出る所、はっしーが知ってるの」
マーカーのキャップを閉じ、凌汰が聞いた。
凌汰まで、はっしーと呼んでいるのか。衝撃の第二波が恭祐を襲う。
「社会の佐藤先生に聞いたから」
「さ、佐藤先生って、テストの出るとこ教えてくれるんですね」
恭祐も会話に参加する。このまま黙ってちゃいけない、という焦りが生まれていた。
「ん? 授業でも皆に言ってるって、佐藤先生言ってたぞ」
墓穴を掘った。
「さては、佐々木。授業聞いてないだろ」
橋本に見透かされている。
「でもでも。佐々木くん。家でちゃんと勉強してるもんね」
凌汰のフォローが今は痛い。あれは咄嗟に出た嘘です、忘れてくださいと、心の中で凌汰へ念を送る。
「そうなのか? 偉いなぁ。その努力が実を結ぶといいなぁ」
橋本がしみじみと言う。その表情は、勉強してたらその成績な訳ないと言っているようだった。
「まだ、実を結んでないの?」
凌汰は悪気の無い、純粋な顔で聞いてくる。何故あの時に嘘をついてしまったんだろうと、恭祐の良心が痛む。そしてまた嘘に嘘を重ねる。
「あ、あぁ。そうなんだよね、勉強しても中々成績が上がらなくて」
恭祐のははは、という笑い声が渇いている。
「可哀そうな奴ってことか」
ぼそっと宏太から言われた一言が余計に悲しくさせる。
「はは、はは、はは……」
笑うしかなかった。
「じゃあ、皆、お疲れ様でした。気をつけて帰ってね」
補習も終わり、橋本は教室を後にした。荷物を素早く片付け、教室を後にする宏太の背中を恭祐が呼び止める。
「あ、あの渡邊くん」
宏太は立ち止まり、一拍置いて振り向いた。
「あ、えっと、数学の教科書、ありがとう、ございました。貸してくれて」
恭祐の尻窄みのたどたどしいお礼に「おう」とだけ答えると向きを直して教室から出て行った。結局、あの時ごめんと言った意味は聞けなかったが、皆が思う程怖い人ではないと、心の奥がじんわり温かくなった。
恭祐は今の席がちょっと好きになった。
* *
席替えをしてから、もうすぐ一か月が経とうとしている。変わらず、一人席のような感覚だった。宏太は国語以外の授業には出席していない。
はっしーと呼ぶ宏太を見て確信した。宏太のことを国語が好きだとばかり思っていたが、担当が橋本だから来ていたのだろう。実際に橋本が教える別教科も補習でちゃんと受けている。
最近、変わった事がある。藤木たちによく待ち伏せをされるようになった。教室の出入り口で立って待っているのだ。動けず、教室から取り残されるのを待っているのだ。最後の一人になったところで話しかけられる。まだ皆が居るうちに出て行っても、彼らに見つかり、声をかけられるのだ。そして、今日もやっぱり声をかけられる。
「おい、無視すんなって」
「今日、あそこ行こうぜ」
藤木が隣町にあるスーパーに行こうと言い出した。そこのスーパーは学校からは近いものの、高校生が集まるような場所ではなかった。住宅街の中にあり、どちらかと言うと主婦が行くような場所だった。何故スーパーに行くのか聞ける訳もなく、そのまま付いて行くことになった。
歩いてスーパーへ向かう途中、藤木の急な方向転換で公園へ入った。公園を囲うように木々が植えられ、芝生にベンチが四基あるだけの誰もいない質素な公園だった。
藤木がベンチに堂々と座る。森丘は恭祐のブレザーの右ポケットに手を突っ込み、財布を奪った。最近はバッグの中に入れず、常に肌身離さず持っていた。
「バレバレ」
森丘はフッと鼻で笑い、財布を藤木へと渡す。また何かを払わされるのかと、恭祐は身構える。
「そこのスーパーから何か持ってきてよ」
パシリか、と恭祐は思った。そんなのは恭祐と彼らの間ではよくある事だった。藤木は炭酸のオレンジ、森丘はコーヒーの微糖、田中は炭酸のブドウをよく飲んでいた。何度も買いに行かされ、彼らの好みが刷り込まれる程だった。今回もそんな風に、飲み物か食べ物を買わされる。だからスーパーを選んだのだ、と。
「あ、財布を……」
恭祐は、財布へ手を伸ばす。
「ちょい、ちょい、ちょい」
田中がすかさず藤木との間に入り、恭祐の動きを封じた。動けない恭祐を藤木が馬鹿にしたような目で見る。
「おい、聞いてたか? 買ってくるんじゃない。持ってくるんだ。ここからはお前ひとりで行け」
持って来る? 持って来るってなんだ。正気の沙汰じゃない。藤木は万引きを強要している。犯罪を強要している。
「はーやーくー!」
藤木が急かす。しばらく恭祐が動けないでいると、更に口調を強くして急かした。まずい、早くしないとまた機嫌を損ねてしまう。万引き以上にひどい仕打ちが待っているのかもしれない。恭祐の脳内は恐怖に襲われた。
「行きます」
恭祐は震える足に気付かない振りをして、公園を抜け、スーパーへと歩みを進めた。
自動ドアが開き、お店オリジナルの音楽と共にひんやりとした空気が流れ込む。カートを押す老人や親子連れなど数組いるだけで、客は多くなかった。陳列棚は180センチ程で人目に付きづらい。品出し中の店員に見つからなければ出来そうだと、人のいない売り場を探す。角を曲がると文房具コーナーがあった。誰もいないし、高校生が居ても違和感がない。絶好の場所だった。
早く盗んで、戻ろう。藤木は機嫌を損ねていないか、そこだけが恭祐には気がかりだった。
ブレザーのポケットに入りそうな小さな物を探す。恭祐の目に付いたのは、黄色の蛍光ペン。包装のフィルムを最小限に折りたためば、何とか入りそうな大きさだった。
これだ。恭祐は周りを確認する。誰もいない。素早くポケットに商品を入れ、最短ルートで出入口を目指す。急がなきゃ。焦りが体に出てしまう。早歩きが小走りに変わる。あともう少しで出られる。出口を目の前に捉えた時、左肩に重みを感じた。
肩を叩かれたと認識するのに時間はかからなかった。小走りだった足が電源が切れたように突然動かなくなる。捕まった。恭祐の目の前が真っ白になった。人生が終わった。
肩を叩かれたことで冷静さを取り戻し、自分がやろうとした事がどれ程の事なのか、一気に事の重大さを思い知る。後悔と絶望で振り向けなかった。店員の顔なんて見られなかった。
「おい」
脳内に響く低音。謝ったってもう遅い。渋々、後ろを振り返る。
「え……」
恭祐が振り返った先にいたのは、店員ではなく宏太だった。予想外の事に思考が止まる。
「お前、何してんの」
宏太からの質問に何も答えられない。口が裂けても言えることではなかった。
「じゃあ、質問を変える。お金無いの?」
全てお見通しだと感じた。
「出して」と、宏太に言われ、恭祐は黙ってポケットから商品を出す。無理やり押し込んでいたのだろう。包装フィルムの形が変に折れ曲がっていた。そのぐちゃぐちゃに折れ曲がった皺を、宏太は丁寧に伸ばした。
「買ってやるよ」
レジに向かって踵を返す。
「え、いいよ」
咄嗟に恭祐の口から言葉が出ていた。藤木たちの事に宏太を巻き込んではいけないと瞬時に感じた。
「じゃあ、盗むのはいいのかよ」
宏太の言葉にまた何も返せなかった。
お会計を終えて、宏太から恭祐へペンが渡される。何とも哀れな姿に見えた。恭祐は買ってもらったペンをぎゅっと握りしめる。
「がっかりさせんな」
そう言い残し、宏太は店を出た。
恭祐は藤木たちが待つ公園へと戻った。
「で、どうだった」
藤木に聞かれ、ポケットに入れていた黄色の蛍光ペンを見せる。
「まじか」
藤木たちは目の前で言葉を失っていた。
「お、お前、本当に盗って来たんだな」
「あんなん冗談だぞ、本気にすんなよ」
森丘と田中が半笑いで言った。その言葉に恭祐は憤りを感じた。後から冗談だったと片付ける彼らが許せなかった。次から次へと彼らへの怒りは溢れるばかりだ。しかし、どんなに怒りを感じても彼らにそれを見せることはない。倍返しされるのがオチだ。ゆっくりと心の中で消化して小さく小さく折りたたんでいく。いつもこうしてきた。今回もそうすればいい。
今回も理不尽に耐えるのだ。
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