灰は輝き、空に舞う

永崎鈴女

1

 陽射しで暖められた肌の熱を、冷たい空気が攫っていく四月上旬。佐々木ささき恭祐きょうすけは、駅のホームから寂しく佇む桜を眺めていた。

 電車が速度を落とし、目の前に停車する。他の乗客たちによって満員電車へ押し込まれる。流れに沿うように下車した駅では、同じ制服を着た人が上りエスカレーターへ列を作る。まるでベルトコンベアで商品が流れていく工場みたいだった。恭祐は、その商品の一部になりながら、去り行く電車を名残惜しそうに見つめていた。

 学校は、うるさい。うるさくてうんざりする。クラス分けに一喜一憂する人だかりを遠くから眺めていると、背後にドンと衝撃が走った。

「ねぇ、邪魔なんだけど」

 聞き覚えのある声だった。身体中の血管がひどく縮こまる。恭祐はゆっくり振り返る。 そこには、藤木、森丘、田中の三人が立っていた。三人は恭祐を異物のような目で見ていた。

 彼らと恭祐は一年生で同じクラスだった。声がでかく、態度もでかい彼らと正反対の恭祐は、いつの間にか彼らの悪趣味な遊びの餌食となっていた。

「すみません」

 恭祐はただ謝ることで精一杯だった。藤木は偉そうに「俺らのも見て来い」と人だかりを指さす。恭祐はその通りに動くしかなかった。

 彼らの元へ戻ると、腕組みをして待つ藤木から「で?」と聞かれる。恭祐は俯きがちに「三人とも一組でした」と報告すると、藤木は「お前は?」と顎で恭祐を指した。「僕も、一組でした」と、恭祐の声が微かに震える。

「ふーん」

 藤木は不敵な笑みを浮かべる。藤木に掴まれた右肩が腐っていくように感じた。

 森丘と田中も同じように不敵に笑い、藤木の後に続いて教室へと入る。恭祐の背筋が凍った。絶望した。彼らから逃れられないのだ。右肩を睨む。これが、恭祐の出来る最大の抵抗だった。

 教室の中へ入ると、受験会場のように机のひとつひとつに出席番号と名前が書かれていた。〝十六番 佐々木恭祐〟と書かれた席は、中央の列の一番後ろだった。恭祐は自分の机を撫でる。この席で穏便に過ごすことを今年の目標に決めた。

 朝の始業のチャイムが鳴り、着席する。玩具で散らかっていた子供部屋が片付いたように、すっきりとした。席が近い者同士で仲良く話すグループもあれば、座った席から遠くの席へ話しかける者もいた。恭祐は、賑やかな教室を一番後ろから眺めていた。

 教室の後ろで戸の引く音がする。音に反応し、皆が一斉に同じ方向を向いた。流れに沿うように恭祐も顔を向ける。

「来たよ。ワタナベコウタ」

 見えないところでそう呟く声が聞こえた。

 渡邊わたなべ宏太こうた。この学校で知らない人はいない。最強・最恐のヤンキーと言われている。外見の特徴は、色白で口元にほくろがあり、左耳にピアスが五つ付けられている。やせ型で身長は高いのだが、生気のない猫背が高身長を感じさせない原因だろう。暗めの茶髪だが、周りには黒髪しかいないため、明るさがよく目立った。

 入学して真っ先に学んだことは、渡邊宏太とは目を合わせるな。目が合うと襲われ、病院送りにされるとの噂。病院送りにした人間は数知れず。一発喰らえば、ただでは済まないと言われている。そんな野良犬みたいな話があるのかと最初は信じ難かったが、今ではその教訓が皆に知れ渡っているのだろう。入ってきた人物が渡邊宏太だと分かると、後ろを振り返っていた人たちが皆、何事も無かったかのように元の向きに戻りだした。恭祐も合わせるように顔の向きを戻す。

 恭祐は今年の目標に「絶対に目立たない」も追加した。

 宏太も何事もないように、空いていた残りの一席に座る。まるで自分の扱われ方に慣れているようだった。さっきまでの賑やかさとはまるで違う、全員がマネキンに変わったように静寂な世界になった。

「宏太、おはよう」

 そんな静寂を破ったのは、宏太の隣の男だった。宏太とは雰囲気の異なる、のほほんとした男だった。目が合ったらどうするんだ、と恭祐は顔を歪めた。宏太の噂をあの男は知らないのか、それともそれほど脅威に思っていないのか、そもそもあの男は誰なのか。恭祐が隣の男について考えていると、担任が教室へと入ってきた。そこから朝のホームルームが始まり、その男について考えることはなくなった。

 一日の授業も終わり、皆が家路へ部活へと動き出すと、藤木たちも動き出した。教室に散り散りに座っていた三人が、恭祐へと近づく。距離に比例して心拍数が上がる。

「俺ら、今日カラオケ行くんだけど、お前も来る?」

 藤木がにやりと笑う。友達ぶった嫌な言い方だった。悪い想像が恭祐の頭の中を駆け巡る。恭祐に選択肢が無いのは明らかだが、口を開くのを躊躇する。すると、その様子を見ていた田中が恭祐の肩を掴むように組んだ。 距離が一気に近くなる。傍から見ると仲の良い友達になってしまうのだろうか。田中の顔が恭祐の耳元へと近づく。息が固まる。

「来いっつってんだから。なぁ?」

 囁かれた言葉は、ひどく低く、鉛のように沈んでいった。恭祐は心臓を恐怖で握りつぶされるような感覚になり、その場に耐えられず、はいとしか答えてしまった。そんな姿を見て、田中は満足そうに恭祐の肩を叩く。

「さっさとそう言えよ」




 紺が空に浸食を始める時間、複数の娯楽施設が集まるビルへとやって来た。この辺りは学校帰りの高校生で溢れかえっている。ある人は場違いな奴が来たと笑い、またある人は地味な奴だと嫌悪感を示す、行き交う人たちが恭祐に冷たい目線を向けている気がしてならなかった。

 ビルのワンフロアがカラオケ店になっていて、エレベーターの扉が開くと大音量のBGMが流れ込んできた。その曲調は恭祐の心とは正反対で、人生は一度きり楽しくやろうぜ、なんて歌っている。藤木が「ドリンクバー、俺の分持ってきてよ」と言うと、俺も俺もと続き、結局三人のパシリにされた。いつものことだった。

 部屋に入るなり、彼らはソファに荷物を放り投げ、好き勝手に陣取る。恭祐は出入口付近の残った端のスペースに小さく腰掛けた。

 予想はしていたが、恭祐に歌う順番が回ってくるわけもなく、彼らの歌っている姿を見ているだけだった。座っていればノリが悪いと馬鹿にされ、飲み物が無くなれば取りに行けと部屋を追い出された。

 何をしているんだろう。恭祐の目に溜まった涙を流せる場所など無かった。追い出された部屋の外で、太ももを殴り続けるしかなかった。

 制服だったせいか、早く帰るようにと店員に促され、やっと帰ることになった。もし私服で来ていたらと考えるとぞっとする。

 受付に返却する備品を全て恭祐に押し付け、彼らはそそくさとレジへ向かっていた。恭祐は駆け足で彼らを追いかける。恭祐が追い付くと彼らは足を止めた。恭祐も合わせて止まる。

「あれ、どうしちゃったかな」

 感情のこもっていない話し方で藤木がポケットを探る動作をしている。

「財布ないっぽい」

「まじかよ。あれ、俺も無い」

「俺もだ」

 一斉に恭祐を見る。

「俺ら全員財布無いんだわ」

 このための俺か。

 藤木の表情が、恭祐には笑っているように見えた。

「今日の分、払っといてくんねぇ?」

 田中が不敵に笑う。恭祐は、しばらく何も出来ず立ち尽くしたままでいると、「何黙ってんだよ」と田中に肩を強く押され、床に崩れた。転んだ衝撃でポケットから財布が落ちる。

「すっと出せよ」

 田中は財布を自分の物のように拾い、レジに向かって歩き出した。彼らが横並びで歩く、その後ろを急いで追いかける。

「こいつ、きしょっ!」

「二次元とか好きなの?」

「やべー。うける」

 追いつくと、彼らの手には恭祐が好きなアニメのカードが握られていた。

 薄紫色の長い髪の幼い少女で、現実離れしたボディラインを魅せるピッタリとした服を着ている、俗に言う萌えキャラだった。このカードは恭祐の財布の中に入っていた。

 恭祐の心臓が速くなり、手に力が入る。鎧の中を見られた。ずっと守ってきた心の神域を笑われた。恭祐の核に深く傷が入る音がした。

「か、返して」

 伸ばした恭祐の手が小刻みに震えていた。藤木は手元のカードから恭祐へと視線を移し、「は?」と低い声で刺す。そして、恭祐を睨んだ後、それが嘘かのように表情を明るくした。

「でも、払わなきゃだし」

 藤木は財布の角を摘まんで、ゆらゆらと揺らす。早く言えよ、と煽っているようだった。

「じゃ、じゃあ、僕が払うから、返してください」

 恭祐の震える声。

「マジ? よろしくー」

 藤木は抑揚も無くそれだけ言うと、恭祐のか細い手に財布を置いた。両手に寂しく横たわる。まるで自分を見ているようだった。

 地獄のような時間から解放された恭祐は、暗い夜道を歩いて家へと帰っていた。ぽつりぽつりとある街灯は、どれも弱々しく照らし不気味さを演出しているようだった。

 恐怖心を押し殺す。回り道する気力も体力も残っていなかった。背に腹は代えられない。右、左、右、左、と足を見ながら歩くのは、恭祐の癖になりつつあった。

 その癖が災いした。ドンと左肩に衝撃が走る。顔を上げると前から歩いてきた人と肩がぶつかった様だった。

「す、すみませんでした!」

 咄嗟に謝った。相手も前を見ていなかったのだろう。相手の持つスマホの画面が、この夜道には眩しすぎた。画面の光が相手の顔を照らす。しかし、パーカーのフードを深く被っていて、顎の辺りしか見えない。

 顔の見えない相手と夜道にいる事が怖かった。恭祐は素早く頭を下げ、すぐにその場から逃げた。ガムシャラに走るだけだった。自分で殴った太ももがズキと痛む。

 少し先の大通りまで走る。こんな夜でも本が読める程の明るさに、まだまだ眠る気配の無い人通りの多さに恭祐は安心した。最初からこっちを通っていればと後悔する。

 夜道でぶつかった瞬間がフラッシュバックした。相手の輪郭、口元のほくろ。片耳に開いたピアス。既視感があった。しかし、どこで見たのか思い出せない。画面の向こうかもしれないし、夢の中だったかもしれない。しかし、またあの人に会ってしまったらどうしよう。殴られたり、金を巻き上げられたりするのだろうか。

 恭祐は、次からあの道を通らないことに決めた。



*   *



 段々と日差しが強くなる五月の朝。恭祐は朝が憂鬱だった。

 廊下にまで騒がしさが漏れている二年一組の教室。入れば余計に暑苦しかった。恭祐が着席すると、ピタッと静かになった。教室中の顔が恭祐に向く。いや、恭祐の奥に向いている。恭祐は皆の視線の先を追うと、宏太の姿があった。宏太は後ろの入り口から教室へ入ると、周りには目もくれず真っ直ぐ自分の席へと向かう。宏太の周りの生徒は美術室の石膏像のように硬直していた。

「おはよう、宏太」

 静まり返った教室に穏やかな声が響く。

 宏太の隣の席の男、水橋みなはし凌汰りょうただった。周りの石膏像は、凌汰の声も聞こえていないかのように顔色ひとつ変えない。

「おう」と、宏太が不機嫌そうに返すと、教室は再び無の世界になった。

 誰かの話し声が微かに恭祐の耳に届く。聞き耳を立てると、「居づらい」「来なくていい」という宏太に対する批判だった。非常に不快だった。クラスメイトに対する発言とは思えなかった。しかし、それを注意できる勇気は恭祐に無かった。声がする方へ視線を向けると学級委員長と目が合った。何だ、と言わんばかりのその目つきに、心臓が小さくなる。恭祐は慌てて目を逸らすが、行き場のない目線は再び宏太に向いた。傍観者として委員長と同類ながらも、宏太の孤独を抱えた部分に勝手ながら親近感を持った。

 担任が大きな荷物を抱え、教室へと入って来る。あまりの静かさに「お前ら葬式みたいだなー」と明るく言うも、教室はピクリとも反応しなかった。担任が宏太の席の方に目線をやると状況を理解したのか、なるほどねと呟いた。そして教室に掲示されている時間割表を確認する。今日の一限目は国語。すると担任は簡単に用件を伝え、足早に教室から去って行った。一限目が始まるまで、この息苦しい静寂を持て余すこととなった。



*   *



 午前十時半。校内では二限目の授業が行われている。渡邊宏太はひとり静まり返った玄関口で靴を履き替えていた。

「おーい、宏太。もう帰んのかー?」

 後ろからの声に宏太は勢いよく振り返る。

「はっしーか」

 宏太は胸を撫で下ろす。後ろにいたのは、国語教師の橋本はしもと 和哉かずやだった。一限目の国語は橋本が行っていた。

 橋本は校内で一番若く、少し風変りな教師だった。スカート丈の短い女子生徒に対し、「いいじゃん、俺そっちのほうが好きー」とセクハラまがいな事を言ったり、校則違反のピアスを開けてくれば「ピアスに興味のある子は、どっちみち開けるんだから今開けたっていいじゃんねー」と注意することはなかった。要は教師にしてはチャラかった。教師としてどうかと思うが、それで成り立つのが彼の凄いところだった。

 そんな橋本が宏太の元へと歩いてきた。

 橋本は自分の腕時計を見ながら「一限目終わったばっかじゃん。もう帰んの?」と少し怒気を含め言った。「はっしーの授業には出たじゃん」と宏太が強気に返すと、「うん、皆勤賞だよ」と優しい顔に戻った。

「だって、はっしーの授業しか出てねーもん」

「おい! それはダメだろ。進級できねーぞ」

 橋本は冗談ぽく言った。進級の二文字が宏太の心をチクリと刺す。

「そしたら凌汰の後輩になんのかな。めっちゃウケね?」

「めっちゃウケねーよ。留年するつもりでいるな」

 橋本は、宏太の肩に手を置いた。宏太はその手を静かに退ける。

「俺、凌汰が卒業したら学校辞めようと思ってる」

 宏太の視線は橋本の手前で落ちた。

「凌汰が、って何それ。宏太は卒業しないの?」

「俺が卒業できると思ってんの」

「まだ高二が始まったばっかだぞ。何でそんな事思うんだよ?」

「俺の事は、俺が一番分かってるから」

「卒業できるよ。大丈夫」

「そんなこと、簡単に言うなよ」

 そのまま目を合わせる事無く、宏太は靴を履いて外へ出た。



*   *



 六限目のホームルーム。恭祐は、一番後ろの席からぼーっと教壇に立つ担任を見ていた。

「そろそろ隣の奴の顔見たくないだろ」

 唐突な言葉に顔を見合わせる生徒たち。

「席替えするか」

 席替えと聞いて一斉に騒がしくなる教室。喜びを声に出す者やハイタッチして周りと喜びを共有する者など反応は様々だ。

「じゃあ、委員長。クジでもなんでもいいから作って。あとは任せた」

 そう言うと、担任は椅子を教室の角まで運び片足を組んで座る。よろしくと言って腕を組んだ。指名を受けた委員長が慣れたように、教壇へ上がり進行を始める。

「では、私があみだくじを作って皆さんへ回します。皆さんは好きなクジを選んで、名前を書いて下さい。欠席者のところは近くの人が名前を書いて下さい。それでいいですか?」

 まばらに起こる拍手。意見する者はいなかった。この場にいないのは早退した宏太だけなのに、名前ではなく欠席者と呼ぶことに恭祐はいい気がしなかった。委員長は残ったクジを引くことになり、順番にあみだくじが回ってきた。パパッと他の生徒が自分の名前を書いていく中、恭祐はペンが進まない。藤木たちから遠ければ、正直どこでもよかった。しかし悩んだところで運次第。意を決して、一番左に「佐々木」と書いた。他の生徒が記入している間、本当にあそこに書いてよかったのかと不安に襲われた。

 委員長の元に紙が戻り、織り込んである部分を開いていく。黒板に書いておいた座席表にランダムで番号が振ってあり、くじで引いた番号がその人の新しい席となる。委員長の手から座席表に次々と名前が書かれていく。

「四十番、佐々木恭祐」

 中盤で恭祐の名前が呼ばれる。席は窓際の一番後ろだった。後ろの角の席は普通なら喜ぶ場所かもしれないが、それどころではなかった。何よりも藤木たちの席がどこか、それだけが大事だった。まだ藤木たちの席は発表されていない。

 恭祐の隣の席の番号は六番。まだ空欄のまま。次々と発表され、残る席もあと僅かとなった時、「六番」と発した委員長の声に心臓が大きく脈打つ。委員長が六番の席へ名前を書き出した。その名前を見た瞬間、世界が止まった。

「渡邊宏太」

 委員長の口から発せられる想定外の人物。藤木たちのことばかり考えていたが、学校一のヤンキーの隣になってしまった。

 とことんツイてないのか。鉛となり、海溝へと沈んでいく気分だった。

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