第9話 血

 次の瞬間、今度は背後から喚声が上がった。味方が増えたのかと誰もが考えたかったが、それは潜んでいた敵軍だった。

 挟撃しようとしていた自分たちが、まんまと挟撃されている。崖上から降ってきて敵を苛むはずの物も、まったく降ってこないではないか。

 敵を騙したつもりでいた自分たちの方が、騙されていたことがはっきりと分かった時、全軍が恐慌に陥った。

 周囲の味方が次々に倒れていく。

 逃げようにも、退路はない。

「わー、わー、わー」

 高鵬は、いつにも増して大きな声で泣き叫びながら大刀を振り回した。

 しかし、それまでのような幸運は訪れてくれなかった。確かに刀を持った敵兵が近寄ってくることはなかったが、その日は矢軍やいくさになった。彼は弓を持たされてはいなかったし、たとえ持っていたとしても弓など扱えない。もちろん、矢を打ち払うほどの刀の技量も持ち合わせていない。

 最初のうちこそ、矢は鎧に当たるだけで、それを傷つけることはなかったが、間もなく鎧の表面を削り出した。

 しばらくすると、一本、また一本と、矢が鎧を貫いた。それでも、母が着せてくれた物のお陰で、何とか深手を負わずに済んでいた。

 母の言うことを聞いておいて良かった、と高鵬が、そんなことを心の中で呟いたのを、意地悪な誰かが聞いていたかのように、一本の矢が、それをも通って彼の生身に届いた。

「うっ」

 思わず呻いたのは、その一本に対してだけだった。後は、どの矢に呻いたら良いのか分からぬほど、次々と体に矢が突き立っていった。

 やはり、こんな物を着ていても、足しにはならないか。不思議に、高鵬は少しずつ冷静になっていくような気がした。

「どうして、こんなことに……」

 高鵬の足下で倒れている楊然が、荒い息でそう言った。

 やはり近くに倒れている宇俊、洪昌、陳濤の三人は、すでに息絶えているようだ。

「すまない。わしのせいなのだ」

 高鵬はまだ、自分の足で立っていた。

「……」

「お前と同じように、例の彭浩に、この場所を通るという情報を銭で売ったのだ」

 高鵬はようやく、自分が、味方の軍とともに自分の命も銭で売り飛ばしたのだと気付いた。

 受け取った時にはずっしりと重いと思った銭が、いかに軽かったかを知った。

「何てことをしてくれたんだ。せっかくおれが嘘の場所を教えたってのに」

「何だって」

 高鵬は思わず足下を見直した。

「この前、夜襲には成功したものの、大してこちらの兵士が死ななかったから、彭浩のやつ、おれの教えていることが信用できなくなっちまったんだ。それで、伍長さんに確かめたんだろうよ」

「嘘を教えたって、どういうことだ」

「軍師さまの命令で、敵に情報を売る振りをしていただけだったんだよ。軍師さまの指図通りに嘘を流して。面白いほど、それに敵が騙されてたな」

「それを言ってくれていたら……」

 高鵬がそう言っても、もう答えは返ってこなかった。

 楊然は、笑顔で息を引き取っていた。

 高鵬も、その笑顔を見て笑ってみた。自分を嘲ってみたかったのだ。

 そうか、この小男に信用されていなかったというわけだ。

 大事にしようと心に決めたことを、結局は何一つ守れずに、別に大してほしいとも思っていなかった銭を握り締めて死んでいくのかと思うと、哀れなような、ばかばかしいような気分だった。

「完全にわしのせいというわけだな」

 そう言うと、高鵬も力尽きて、小男の隣に倒れた。

 倒れる直前、砂埃が立つことを想像したが、それまで水分のなかった土地は、血を嫌というほど吸って泥のようになっていた。

 彼が想像したような砂塵は舞い上がらなかった。

《了》

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グロビュール 棚引日向 @tanahikihinata

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