第8話 谷

 幾日か、それほど速くない移動が続いた。

 一人で食べることに少しは慣れてきた晩飯の時、彭浩が、その長身を見せた。また巧く身を隠しながら高鵬を呼んだ。

 拒絶する気持ちは失っていた。

 高鵬は、自分の命さえ助かれば、あとはどうでも良いような気持ちになっていた。自分が所属する軍が、味方だという気もなくしていたのだ。

 四人の部下たちとは、必要事項の伝達以外には話もしない。ほかの伍長たちも、満足げにこちらを見ているだけだ。

 誰も自分の味方だとは思えない。それが集団となって、味方の軍と言われても納得できなかった。

「頼みがある」

 彭浩は、いきなりそう言った。

「何だ」

 高鵬はあっさりと返事をした。

「今日はやけに素直だな。何かあったのか」

「余計なことを話している暇はないだろう」

「確かにそうだ。この軍の行き先は、楊然に聞いた。ただ、どこを通るかまでは分からないと言っている。伍長さんなら、知っているだろ」

「ああ、知っている」

「それを教えてもらおうか」

「先に銭だ」

 自然にそんな言葉が口から出た。

「ほう、やはり何かあったようだな」

 彭浩はうれしそうに驚いて、高鵬の顔を見返した。

「いいから寄越せ」

「分かった、分かった。ほら銭だ」

 その場できちんと数えたわけではないが、過日とは比較にならないほど多い。楊然が、このようなことに手を染めた気持ちが分かるような気がした。

「ここからしばらくは、東に道を取る……」

 高鵬は、知っている限りの詳細な道順の情報を与えた。このような軍など負けてしまえば良いと思った。

「助かった。また頼むかも知れん。ではな」

 彭浩は、すっと闇の一部になった。

 かも知れん、という言葉が、高鵬は少しだけ引っかかった。


 高鵬たちは、切り立った崖に挟まれた狭隘な土地の入口付近にいた。道を挟んで左右の潅木には、かなりの味方の数の兵がじっと時を待っていた。

 彼の隊に与えられた任務は、そこを敵が大方通過したところで、入口を戦車や柴を積んだ車などで塞ぐことだった。

 崖の上で幟が振られた。敵が間近に迫っているという合図だ。

 彼は息を殺した。自分の鼓動が大きくなるのを高鵬は聞いた。周囲の兵の鼓動がすべて合わさっているのではないかと錯覚するほどの音がしている。静寂を破る鼓動が、敵に自分たちの居場所を教えてしまうのではないか、と思うほどだった。

 震動が一番先だった。大地を揺るがしながら敵の軍が近付いてくる。

 次は砂だった。敵の姿が見える前に、舞い上がる砂が大きく膨らんだ。

 最後に、意外なほどゆっくりとした速度で、敵軍が、高鵬の目の前を通過して行った。

 敵軍が過ぎるのを間近でじっと見つめるのは、想像よりも勇気を必要とした。

 高鵬は、次の幟が振られるであろう辺りを凝視した。その合図で、入口を塞ぎにかかる。同様に出口を塞ぐ役割を与えられた部隊もあるわけだが、そちらの方が、敵に正対する分、恐怖感があるだろうと高鵬は自分を慰めた。さらには太鼓が叩かれ、じりじりと入口と出口を塞ぐものを押して行きながら、矢を射かける手はずだ。崖上からも矢や石や油などが注がれることになっている。

 夜襲の時とは逆に、こちらが一方的に敵を倒していくことを、味方の軍に所属する将兵は、全員思い描いていることだろう。

 合図の幟が振られた。

 通常よりも短い、ほんの一瞬だけの合図だったのだが、全軍が凝視していたので、行動を起こすには、それで充分だった。

 しかし、それが異変の始まりだった。

 入口を塞ごうと、戦車を移動させ始めた高鵬たちの目の前で、通過して間もない敵軍が急に反転してきたのだ。信じられないことに、すでに刀を抜き、弓を手にしている。

 彼には知るよしもないが、一方の出口では、敵軍の前半分が急進して、障害物を押している最中の味方の軍に襲いかかっていた。

 味方は、ほぼ全員が動揺していた。騙そうとしていた敵が、圧倒的な優位に立っていると思っていた自分たちに、整然と挑んできたのだ。

 高鵬も周囲の者たちにならって抜刀したが、敵のあまりの勢いを見て、逃げた方が良いかも知れないと思い始めていた。

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