己巳
気に食わねェ――何度ぼやいたか知れぬ同じ言葉が、また口を吐いて出てくる。
どろりとした夜。どろりとした闇を湛える塒。水の流れる音が心地よく響く。
灯りはなかった。その方が良かった。暗闇の中、音だけで互いを探り合うことを好んだ。
夜目は効かないが、気配で探れる。音、匂い、熱……すべてが視覚の代わりとなって、闇の帳をおろした向こうにいる相手を紛うことなく捉える。
そしてそれは、相手も同じはずだった。
腰を下ろすと、尻に冷えた床を感じる。息を深く吸うと、たっぷりと水分を含んだ空気が入り込んでくる。それで苛立ちは希釈されたが、腹の奥底に蟠る憤懣までには届かない。
「――怒っているのね」
声がした。気配が揺らぐ。移動はしていない。この空間の中では、声を発するという、ただそれだけの動きであっても、満ち満ちる夜が揺らぐのである。
答えなかった。代わりに、唸った。
すっと、息を吸う音。深々と味わうように、息を吐く音。
何もかもが無明の中で進む。ふと気づいた。相手の顔を、もう長いこと見ていない。昼でも夜でも、この光が届かぬ穴倉にいるのだ。相手はとっくに死んでいて、思念だけが残留し、言葉を紡いでいる――実はそうなっていたとしても、何ら不思議はない。
居心地が悪い。身じろいだ。と、それを苛立ちの合図と捉えたか、相手も口を開いた。
「そうね。臭いから察するに――丙丁の類だと思う」
「獣まで突き止められるか? 借りを返すにも、相手の干支が分からねえんじゃ、策が打てねえ」
「何か残り香を持ちそうなものは?」
言葉では答えず、右手に力を込めた。軽い痺れが走って、指先が鎌状に伸びるのを感じる。
気配が揺れた、立ち上がり、近づいてくる。ひたり、と、鎌状の指に柔らかいものが触れた。
「この味は――血?」
「血と、たぶん鉄だ」
鉄? と訝しげな声。
「鉄の棒みたいなもので、俺の指を跳ね返しやがった。それ自体は、ただの棒だ。だが――俺の指で両断されずに、逆に俺を弾き飛ばしたんだ」
ふうん――と、やや興味を持った様子の声。再び、柔らかいものが指に振れる。
「やっぱり、陰の火――丁だね。獣はたぶん……未」
「未だァ?」
「うん、未。あたしの水脈がそう告げているもの」
「未の異能で、俺の刃を弾けるモンなのか」
できないことはないよと、既に興味を失ったような気だるげな声だけが返ってくる。
「乙丁己辛癸は、甲丙戊庚壬に比べて直接的な強さはないけれど、搦手に優れているから――。きっと、貴方と同じような幻惑の類に長けているんだと思う。丁は特に搦手を攻手に転化するのが上手いのよ」
「それを知ってるってこたァ、堅気じゃねヱな」
「貴方の言う堅気が何を意味するか、今も分からないけど……あたしたちの異能については十分に通じている。気を付けた方が良いわよ。異能に目覚めたと言っても、生成りと本成りとじゃ、力に雲泥の差があるから」
フン、と鼻を鳴らして背を向ける。相手の気配は、既に傍になかった。最初の位置から声がする。
「未には気を付けて。平和顔に騙されると、目を眩まされる。その言葉、その振る舞い――一挙手一投足が、貴方を夢に誘にかけるわよ。攻撃が跳ね返されたのも、きっとそのせい。貴方の指には、攻撃を受けた味がない。きっと瞬間的な夢幻の中で、攻撃を制したのでしょうね」
マジか――とぼやいて、元に戻していなかった鎌状の指を見る。あんなに跳ね返された実感があったというに、それも夢幻の類だというのだろうか。ならば侮れぬ。
「攻略する方法はあるのか。その――未の夢をよ」
蛇の道は蛇って言うでしょ――と、からかうような声が返ってくる。
「己巳の異能だって似たようなものでしょう。まずは自分を見つめ直しなさいな。そうすれば、未の夢幻を打ち破る手段だって、見えてくる。あなたは地縁の目眩を攻撃の一手として使っているけれど、未はそれこそが最大の異能。相手の手の内を読んで、懐に潜り込めば、何とかなるかも知れないわよ」
分かったよ――と、吐き捨て、にっと笑う。踵を返して、その場を後にした。別れの挨拶は必要なかった。闇の中で口を閉ざし、動きを止めれば、最早いないも同じなのだ。
足慣れた暗闇を歩きながら思う。
やはり、頼りになる。やるべき道筋は見えた。
さっきまでの不機嫌はどこへやらと消え、歌でも歌い出したいくらいだった。頭の中には、あの薄汚い男含めて三つの首が、あの公園のベンチの上に仲良く並んでいる光景が既に浮かんでいた。それを前にして満足そうに、指先に付いた血を舐めている自分の姿までもが、まるでもう実際に体験した出来事であるかのように異常な鮮明を以て現れ、心を悦ばせるのであった。
髑髏鬼の宴 @RITSUHIBI
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