第十四話 白と黒の翼・二
笠を被っていて顔はわからないが、体つきを見れば男であることはわかる。ひょろりとして肉づきは薄く、復旧作業に携わる男衆とはまるで違う。肉体労働とは無縁に違いない。
その男が不意に動きだした。砂利を踏む音をたてながら登与のほうへと向かってくる。――――逃げられない。
そうして登与は男と対峙することになってしまった。
左手首だけに黒い手甲をはめた、細い印象の男だ。肌が白く、笠の縁を摘まむ指先も細い。笠の下のすっと通った鼻梁や眉などが洗練された雰囲気で、町の男衆はもちろん賊たちともまるで違う。巷でたまに見る貴族や武士の御曹司が一番近いか。
いや実際、身分はいいはずだ。彼が着ている鶯色の上着は仕立てがよく、さして汚れていないところからするとそう長くは使いこんでいない。町の人間ではないことは明らかだ。
だが登与はそうしたことより、男がまとう空気に鳥肌が立った。
この人、絶対やばい……!
単に冷たいというだけなら辰臣もそうだ。だがこの男には辰臣にない、耐えがたいほどの気味の悪さがあった。真っ暗な建物の中や気持ち悪い生き物を前にしたとき、薄汚い男に近づかれたとき。そうした場面を想起させる。
逃げろ、離れろ、触れられるな。賊たちに襲われたとき以上の命令が登与の頭の中で響いた。それだけで頭の中がいっぱいになりそうだ。聞こえているはず、見ているはずの音声や景色が遠い。
「……あの屋敷にいる女だな」
それは柔らかな響きのある声だった。同時に断定的で、しらばくれるのも無視も許さない傲慢さを感じさせる。それがまた一層この男の不気味さを強調していた。
「……だとして、それがどうかした? 初対面の男に顔と寝床を知られてるなんて、すっごく気味悪いんだけど」
今すぐ貝を投げつけて逃げだしたい気持ちを抑えつけ、登与は低く抑えつけた声ときつい目で威嚇した。我ながら情けないと思ったが、これ以上笠の男の空気に飲まれないためにはそうするしかなかった。
そんな登与の虚勢を見透かしたか、あるいはどうでもいいのか。笠の男は何の反応も示さなかった。
「あの屋敷にある白い花を探してこい」
笠の男はそう、まるで登与が己の配下であるかのように命令した。
登与の胸にちりと怒りが湧いた。ふざけんな、という言葉が登与の頭の中に浮かび上がって躍る。
その怒りによって、止まりかけた思考が少しばかり熱を帯びて動きだした。
「……最近、同じことを命令してくるろくでなしどもがいたんだけど。今は宿にいないらしいけどね。……もしかしなくても、あんたの手下?」
「そのようだな。だからどうした」
つまらないことを聞くと言わんばかりの色を混ぜて笠の男は言う。姿が見えなくなった部下を心配する気持ちは、声音にも表情にもわずかさえ見られない。
こいつ……っ。
人の命をなんだと思っているのか。自分が部下をどんな場所へ向かわせたか、知っているはずだろうに。
登与は怒鳴りつけたい衝動を抑えるのがせいいっぱいだった。
「なんであんたに命令されなきゃいけないの。自分で勝手に探せばいいじゃん。大体、なんでそんなにその花にこだわるのよ」
「できないからお前に探せと命じているのだ」
苛立ちを声ににじませ笠の男は言った。
「お前は気づいていないだろうが、あの屋敷はこの世ならざる世に囲まれている。そればかりか、あの忌々しい男のせいで私は入れなくなってしまっているのだ。でなければこのように面倒なこと、誰がするものか」
「……」
「私が探しているのは‘
笠の男はそう、探すものについて目をぎらつかせ語った。
「かつてあれは確かに私のもとにあった。私は‘白幻花’を用いて多くの者の生死を決め、富と栄誉を得てきた。……だがある日、私の屋敷から失せたのだ」
「……」
「手を尽くして探した末、この石雪の屋敷にそれらしきものがあるとわかった。しかし取り戻しに行けば屋敷の刀鍛冶に阻まれ、奪還は叶わず……それ以来私はこの呪のせいで、あの屋敷の中へ入ることができない」
笠の男は憎々しげな顔で登与に黒い手甲で覆われた左手を見せつけた。
あそこに辰臣さんが呪をかけたんだ……!
優れた術者であれば痕跡を見るだけで、何の呪術をかけられたのか見抜くことができる。それは命取りになりかねないため、あるいは笠の男にとって屈辱であるため見えないようにしている。そういうことだろう。
「手下どもも無能揃いで、花びら一枚探せぬ始末。挙句連れてきた残りの者どもを昨夜屋敷へ差し向けたきり、誰も帰ってこん。死にかけていたところを救い、一流の術者にしてやった恩を返そうとしない。恩知らずばかりだ」
「……」
「こうなってはやむをえん。小判十枚でお前を雇ってやる。貧民のお前なら一生手に入れられん大金だろう」
突き出した左手を引き、笠の男は自分語りを終えた。傲慢な表情と声音に酷薄な色が重ねられる。
「‘白幻花’を探せ。反論は許さない」
意思を一度も尋ねることなく、笠の男は登与に命令した。――――己の命令は必ず果たされるのだと信じて疑っていないかのように。
――――誰が、あんたなんかに従うもんか。
登与の感情がさらに熱く燃えた。
「絶対にお断り。あんたの部下にも言ったけどね。自分の欲しいものは自分で探してよ。それこそ命がけで。それであの人に返り討ちされちゃえばいいんだ」
「……!」
怒りと侮蔑をあらわに登与は言い放った。小太刀の柄を握り、拒絶を全身で見せつける。
ここまで徹底して拒絶されることは今までなかったのか。笠の男の表情が初めて苛立ちを見せた。
勝ち誇った顔になりそうなのをこらえ、登与は笠の男の方を見向きもせず歩きだした。
どう歩いてきたかは覚えてるし、屋敷の方角は久江が帰るときに教えてくれてるもんね。追いかけられてもきっと逃げられるはず。多分。
しかし。
「ならば」
そう笠の男が言った途端。禍々しい気配が生まれた。
登与は鳥肌が立った。ばっとその場で振り返る。
「お前が死ぬだけだ」
笠の男がいっそ優しい響きすらある声音で告げ、しかし怪しげな光を目に浮かべた刹那。
その男の指から黒い文字の羅列が生まれた。
やばい――――!
登与の脳裏に言葉が浮かんだ。が、笠の男との距離は風呂敷の幅と少々程度。逃げる余裕なんてあるはずもない。
黒い文字が登与めがけて飛んでくる――――。
そのとき。
「――――っ」
豪風が登与の視界に割って入ったかと思うや笠の男に直撃した。文字を吹き飛ばし、笠の男を川へと追いやる。
ばしゃん、と川に人が倒れこみ笠が落ちる音が辺りに響いた。
あまりにも荒々しい介入に登与は呆然とした。からくり人形のようにぎこちなく、豪風が吹き荒れた源のほうを向く。
そこにゆっくりと下りてきた人物を見て、さらに叫びそうなくらい驚いた。
他の河原で以前会ったあの天狗の男が、白い翼をあらわにして立っているのだ。
笠の男はよろけながら立ち上がった。そうして、登与はようやく笠で隠れていた男の容貌を目にすることになる。
男は登与が思っていたよりも年をとっているようだった。五十か、いや六十か。青白くかさついた肌とこけた頬は病人のようであるのに、荒々しい感情でぎらつく血走った目が禍々しい印象を感じさせる。辰臣のどこまでも澄んだ冷たさとはまるで正反対だ。
「貴様っ……辰臣とつるんでいた……!」
「嫌だなあ、そんな金魚の糞みたいな扱いは」
登与を男から庇うように立った天狗は、のんびりした声で言った。
「駄目じゃないか。君はその手の甲に刻まれた術で、人の子を傷つければ自分が傷つくはめになっているはずだ。この子に手を出せば君が痛い目を見ることになるよ?」
「『傷つければ』だろう。『傷つけなければ』問題はない」
天狗のやんわりした忠告に対し、笠の男は鼻で笑ってみせる。
あーそうだよね! 術って融通が利かないから! 脅したり捕まえるならひっかからない!
登与は心の中で頭を抱えたくなった。やはり自分は危険だったのだ。
仮にそうだとしても、と天狗は笑みの色を消さなかった。
「この山々は、私たち天来の末裔のものなんだよ。君に好き勝手に歩かれるのは不愉快だ。この場で彼女を傷つけようとするのなら、黙っているつもりはないよ?」
そう言った途端。天狗の身体から放たれる気配が変わった。炎とも氷ともつかない、鋭く激しい力の波動が広がっていく。
登与は息を飲み、全身の肌を粟立たせた。
この天狗、実は強いんじゃ――――?
張りつめた空気が二人のあいだに流れた。登与は固唾を飲んで見ているしかない。
互いに背を向けることのできない空白は、さして時間をかけず破られた。
「――――っ」
唐突に風が吹き、登与は息を呑んだ。
この冷たさ。明らかに何かが他とは違うとわかる空気。
――――賽の河原と重なろうとしているのだ。
「こんなときに賽の河原と重なるか……」
登与の理解は正しく、笠の男は舌打ちした。
黒いもやが辺りに漂い、黒い人影が音もなく姿を現した。身じろぎしながら現れた数多の人影は、登与たち生者に気づいて一斉に注目する。
『棟梁』
『棟梁だ』
『何故あんなもののところへ行けと』
『どうして我らが』
いくつかの黒い影からそんな低くどろりとした声が聞こえ、登与はぞっとした。
この人影、‘月烏’の術者たちなんだ……! 辰臣さんに返り討ちされてここに……。
「……あやつらの相手もしなければならないのは面倒だな」
笠の男は周囲に素早く視線を向けると、今にもここで戦いを始めそうだった緊張感を解いた。川辺に落ちたままだった笠を拾う。
登与がそれを呆然と見ていると、不意に視界が動いた。身体に他者の熱を感じたかと思えばさらに視界は動く。
ばさり、と音がして登与の足が地面を離れた。黒い影が手を伸ばしても届かない高さまで上昇する。
「駄目だよ、ぼうっとしちゃ。ここはもう賽の河原なのだから」
優しくたしなめる声が登与の頭上から降り注いだ。登与は自分が天狗に抱えられていることを認識し、思わず身をすくませる。
登与を抱える天狗に遅れて笠の男も地上を離れた。黒い翼がその背中で大きくはためく。
――――笠の男も天狗なのだ。
ただし、星の神に仕えていたものたちを先祖とするといわれている生粋の妖ではない。思いあがりから邪術の虜になり、人の括りを外れた術者のなれの果てだ。『天狗になる』という言葉をそのまま体現した外道。
生粋の妖である白天狗は大抵この異形の天狗を自分たちとは異なるものとして軽蔑しているのだと、登与は育ての親たちから聞いた。
「……‘白幻花’を探せ。必ずな」
そう低い声で登与に命じると、笠の男――黒天狗は身をひるがえした。足元で自分を見上げて怨嗟の声を投げてくる、部下のなれの果てを無視して飛び去っていく。
「私たちもここを離れよう。賽の河原は君にも私にも毒だからね」
登与を抱え上げた天狗はそう言うや、白い翼をはためかせた。
登与が身をよじると、川を薄黒いもやが覆いつくそうとしていた。川辺をうろつく、前回見たときよりも多くの人影がはっきりと見えるようになる。
その中で登与は、‘月烏’の術者だった人影たちと目が合ってしまった。
彼らは光のない目をしていた。様々な負の感情が混ざって、人間であれば持つはずの光を覆いつくしてしまったかのような。様々な感情を叫んでいるような。
『何故』
『妬ましい』
『その身体』
欲しい――――。
「……あまり見ないほうがいいんじゃないかな。君は術者の素質があるようだけど、あれらは人の子にとっておそろしいものなんだろう?」
「……そうですね」
優しい声で促され、登与は天狗の服の裾を少しだけ強く掴んだ。賽の河原から逃げるように、どこまでも続く山々を見下ろす。
死者の気配のない夏の山々の姿に、登与は心底安堵した。
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