第十五話 君に恋う
白い翼の天狗は、河原から少しばかり離れた沢で地上に降りた。
「大丈夫かい? 怖かったろう」
「え、あ……はい、大丈夫です」
天狗の腕から解放された登与は彼を見上げて小さく頷いた。改めて向きあって頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございました」
「どういたしまして。私も屋敷の彼をからかう材料ができてよかったよ。このあいだ様子を見てきたけど、君と上手く共同生活ができているそうだし」
「……」
お礼、言わなくてもよかったかも。
登与はうっかり思ってしまった。これは人をからかうのが好きなものの発言だ。きっとこの天狗、性格が悪い。
「……前に会ったときも『偏屈な刀鍛冶』とか言ってましたけど、辰臣さんの知りあいなんですか?」
「そうだよ。彼とは同じ里の、まあ幼馴染みというやつだよ。彼が父親に連れられて人間の町へ移住するまではよく遊んだものさ。……彼の名前、知ってるんだ?」
「ああ、はい。どういうわけか流れで教えてくれました」
「ふうん。流れ、ねえ……」
意味ありげな横目で天狗は相槌を打つ。登与は辰臣に謝りたくなった。この天狗は常日頃から、辰臣をからかう材料を探しているに違いない。
きっとじゃなくて絶対性格悪いよこの白天狗……!
こういうときは話題を変えたほうがいい。登与は反論を諦めた。
「ということは辰臣さんも天狗なんですね。最初は幽霊か何かだと思ってたんですけどそうじゃないって言われて、じゃあ刀鍛冶さんって連呼してたら名前を教えてくれたんですけど」
「ああなるほど、そういうことか」
登与が説明すると、天狗は納得したように頷いた。
「うん、辰臣も天狗だよ。でも私たち里で暮らす天狗とは違う。彼は‘闇繰り’……この世ならざる世の影を操ることができる、多分この世に一人しかいない特別な天狗なんだ」
「…………もしかして、この山のあちこちが賽の河原と重なってるのって」
「さて、彼の異能と関係があるかどうかは、私にはわからないよ。この山は元々、賽の河原と重なっているところが少なくないし」
ただ。悪戯っぽい色を微笑みに混ぜて、天狗は言葉を続けた。
「彼が異能を見せるようになってから、もっと多くなったのは事実だよ。あの屋敷の奥座敷や周りも、彼が住むようになってから異界……賽の河原の手前と重なるようになったみたいだしね」
「……」
あれもしかしなくても私って、かなりやばい物件に間借りしてるんじゃ……。
辰臣を怒らせず出入りする時間に注意していれば大丈夫だと思っていたが、かなり怪しくなってきた。この天狗の説明からすると、いつ屋敷の中に賽の河原と重なってもおかしくないのではないだろうか。寝ているうちに部屋が賽の河原と重なったりとか。
そんな登与の心情は、ひきつった顔にもはっきり表れていたのか。天狗は吹き出した。
「大丈夫だよ。彼は少し機嫌を損ねたくらいで人間の命を奪ったりしない。彼が人間の命を奪うとしたら、あの屋敷の鍛冶場や奥座敷や……中庭の奥を荒らそうとしていたときくらいだよ」
「……もしかして、中庭の石が墓だって知ってるんですか?」
天狗の微笑みと声の響きにひっかかるものを感じて、登与は尋ねた。
知ってるも何も、と天狗は笑った。
「あの墓の主に辰臣のところへ行くようそそのかしたのは、私なんだ」
「……はい?」
天狗が暴露したとんでもない事実に、登与は表情を固まらせた。
いやねえ、と天狗は両腕を組んだ。
「‘彼女’はあの黒天狗に、都の屋敷でずっと囲われていたそうなんだ。外の世界に興味を持たないよう、あらゆる人と物から遠ざけられてね。それでも、見聞きできるわずかな知識と情報をかき集めて、隙をついてこの山まで逃げてきたんだ」
行く当てもない逃避行に疲れて休んでいる彼女を見つけた天狗は、他には見ない不思議な女人に興味を惹かれて声をかけた。それで事情を聞き、ならばこの先にある刀鍛冶の屋敷へ逃げればいいと教えたのだ。
不愛想で人づきあいの悪い、人間のふりをした天狗が一人で住んでいる。妻にしてほしいとでも言って居座ればそのうち追いだすのを諦めるし、守ってくれるだろう――――と。
「……それ、完璧に辰臣さんをからかうためですよね」
「一生独り身でいそうな幼馴染に、お嫁さんを世話してやっただけだよ」
半眼で登与が指摘すると爽やかな笑顔で天狗はのたまわった。嘘つけ。登与は心の底から思った。
「でもあとで聞いたら、‘彼女’も辰臣と夫婦になるのは悪くないと言ってはいたんだよ。辰臣は、愛想については絶望的でも無慈悲というわけではないからね。‘彼女’は本気で夫婦になるつもりだったから、私も色々と手助けしたものだよ」
「……」
絶対この人、辰臣さんと会うたびに鬱陶しがられてるな……。でもってしつこくからかったり世話を焼いたりしてるんだ。
登与は確信した。堪忍袋の緒が切れそうな辰臣の様子が目に浮かぶようだ。
というか押しかけ女房さん。あの人と夫婦になる気だったって、どれだけ前向きで強気な性格なんですか。あの人は旦那向きじゃないですよ。意思疎通に苦労しますって。
心の中で登与は押しかけ女房にいっそ尊敬の念すら覚えた。
ともかく、と登与は頭を切り替えた。
「あの黒天狗、花を探せとか私に言ってましたけど……その押しかけ女房さんが持ちだしたんですよね? でもって辰臣さんが術をかけたから、黒天狗はあの屋敷に入ったり人を傷つけたりできなくなった」
「ああ。あの男が襲撃をかけてきたときに、私と辰臣がやったんだよ。本当は殺そうとしたんだけど、そのときはできなくてね。……そしてそのあと、‘彼女’は亡くなった」
そして辰臣は人間のふりをやめ、墓守となり、あの屋敷は町の人々に恐れられる天狗の屋敷となったのだ。
「風の噂によるとあの黒天狗はそのあとも色々と小細工をして、長年にわたって都の術者集団を率いているそうだね。これまでも何度かあの屋敷に手下を派遣しては、辰臣に追い払われていたのだけど……今年に限って自ら出てきたのを考えると、随分切羽詰まっているんだろう。以前と比べて呪力も相当弱っているようだし、身体が弱っているのかもしれないね」
顎に指を当て天狗は小さく頷く。
登与ははああ、と長い息を吐き出した。
「妖でも死にたくないって思うもんなんですね……元人間だからかもしれないですけど。生き死にの感覚はあっさりというか、もっと人間とは違うと思ってました」
「当然だろう? 妖だってこの世の生あるものの一部だ。死にそうになったら死にたくないと思うものさ。君だってもう知っているだろう? 喜怒哀楽もあるし、何かを愛しむ気持ちもある。……あの辰臣でさえもね」
天狗はくすりと口の端を上げて言った。確かにそうだ。登与は心の中で同意する。
「……毎日墓守やってるみたいですけど。辰臣さんは押しかけ女房さんのこと、実のところはどう思ってたんでしょう」
「さあね」
天狗は肩をそびやかして苦笑した。
「聞きだそうとしても彼は口を割らなかったから、私にはわからないよ。本当に夫婦になっていたのかもしれないし、そうでないかもしれない。……まあ、辰臣が‘彼女’のことを悪くは思っていなかったことだけは確かだけど」
「……」
ですよねえ。夢で見たときもそうでしたもん。
登与は天狗につられて笑いそうになった。
悪く思っていなかったどころか、今でも今も強く想っているはずだ。そうでなくては夜の星を見上げ己の気持ちを否定し、あんな空気をまとって墓前に座っているわけがない。
でもそれって、なんかさみしい生き方だよね。
突然出会って引き裂かれて、たった一人で墓を守り続けているなんて。そんなふうに死者に己を捧げ続けるのは、己の生を謳歌していると言えるのだろうか。
死んだ両親のぶんまでしっかり生きるんだ、なんて登与は考えたことが一度もない。自分の生は自分だけのものだ。死者への気持ちを抱えて生きていくしかない。両親も育ての親たちも、きっとそんなことを言うだろう。
押しかけ女房も同じことを言うのではないだろうか。うっすら覚えている夢の一幕からは、辰臣を自分に縛りつけようとする執着心をあの美しい女性に感じることはなかったのだ。
「だから、私は君に期待しているんだよ」
天狗は空を振り仰いで言った。
「‘彼女’が死んだあと。私は彼に、里へ戻ってこいと誘ったんだよ。あの黒天狗が屋敷にまた来るだろうことは充分予想できたし。彼の‘影繰り’の異能を里の天狗の多くは恐れているけど、辰臣が無為に力をふるう男じゃないことは承知しているんだ。私が皆を説得すれば、きっと受け入れてくれる」
「……」
「でも彼はあの屋敷に引きこもっている。‘彼女’が屋敷に居つく前以上に、頑なになってね。……私はそれがどうにも気に食わないんだよ」
天狗はぎゅっと拳を握った。
「辰臣は誰よりも遠く高いところへ飛べるくせに、自由に空をはばたこうとしないで地面にしがみついているんだよ。天狗だっていうのにね。もったいないだろう?」
「……」
「馬鹿な幼馴染みにもう一度、空を駆ける楽しさを思いだしてほしいんだよ。私たち天狗は、空を駆ける種族なのだから」
天狗の表情はまた変わった。笑っているのにさみしさがむき出しだ。言葉に偽りはないのだと空気が示している。
登与の胸がじんと震えた。
「……あの人が私に名を教えてくれたのは、私に刀鍛冶さんって呼ばれるのが嫌だっただけだと思いますけど」
「それでいいんだよ。嫌だと思っただけでも進歩だ。彼が私以外の誰かと話をして、屋敷の外へ出るようになれば今は充分だよ」
登与の抵抗じみた推測に緩く首を振り、天狗はささやくように言う。それはどこか強い思いを堪えているようで、己に言い聞かせている仕草にも登与は思えた。
……馬鹿じゃないの、辰臣さん。
天狗を見つめ、登与は心の中で呟いた。
きっとこの天狗は誘いを断られても、しつこく屋敷を訪れていたのだ。登与に河原で声をかけてきた日も、辰臣の様子を見に屋敷を訪れた帰りだったのかもしれない。
辰臣にとっては大きなお世話なのだろう。それでもこんなにも大事にされているのに、どうして気づかないのだろうか。
押しかけ女房さんもこの天狗さんも、辰臣さんがあの屋敷に引き籠ってるのを望んでないのに。見たことないけど翼はあるに違いないのに。馬鹿じゃないの。
「……私、登与って言います。貴方はなんて名前なんですか?」
表情も気持ちも緩んで、思わず登与はそう尋ねた。
だって天狗は種族の名だ。刀鍛冶さんと同じ。ちゃんと彼の名を呼びたい。
それになんか、この天狗さんには言っても大丈夫な気がするし。私みたいな小娘、この人ならどうにでもできるだろうから警戒する必要ないはずだし。
登与が自分の名を明かし、また名を尋ねてきたのはよほど予想外だったのか、天狗は目を瞬かせた。当然だろう。何の脈絡もない。
しかし数拍して、天狗は優しい笑みを浮かべた。
「……私の名は
「もし忘れてたら、私が辰臣さんに教えますよ」
今度は登与が悪戯をしようとする子供の顔で笑った。
けれどおそらく、辰臣は幼馴染みの名を覚えているはずだ。偏屈だから呼ばないだけで。
絵巻物をわざわざ登与に持ってきてくれたのだから。
天狗――佳宗はすいと腕を伸ばして指差した。
「高台の屋敷はあっちへまっすぐ歩けば着くよ。私に会って色々と聞いたと話せば、辰臣は面白い反応をするんじゃないかな」
「それは試す価値がありますね。佳宗さんの名前を覚えているか確かめられますし」
ただし怖い顔をされるだろうが。小さい頃の話を聞いたなんて嘘を言おうものなら、吹雪の気配を浴びせられそうだ。
佳宗は地面を蹴って翼をはばたかせ、宙に浮いた。
「それじゃあ登与。星降る山の異邦人。私の大事な友人にささやかな幸福をもたらしておくれ」
遠くから見ているしかない私の代わりに。
そう呟くように言って、佳宗は一層大きく翼をはばたかせた。登与が腕で顔を庇っているあいだにはばたく音は遠ざかっていく。
風の勢いが弱まり、登与が腕を顔の前からどかせたときにはもう佳宗の姿はなかった。白い羽根が辺りにふわふわと揺れながら落ちていく。
登与は笑みを浮かべて白い羽根を見つめ、それから駆けだした。佳宗が示した方向を目指す。
ほどなくして、水が流れるささやかな音が聞こえてきた。古びた屋敷が生い茂る木々の中に姿を現し、登与は門をくぐる。
中に入ると小川で水を汲んでいたのか、水桶を両手に一つずつ持って母屋へ戻ろうとする辰臣の姿が見えた。これから鍛冶をするのだろうか。
「辰臣さん! ただいま帰りました!」
「……」
「って無視しないでくださいよ!」
こちらに視線を一瞬向けただけで辰臣が鍛冶場へ向かうものだから、登与は抗議した。しかしそれも無視で、辰臣は鍛冶場へ入っていく。
これだから偏屈者は。せっかく笑顔で挨拶したのに無視ってどうよ。
登与は心の中で毒づく。
そのとき。
『嫁入り道具は持参してませんが、この身のすべてを貴方に捧げます。だから、明日にでも祝言を挙げましょう?』
そんな声が突然脳裏に響いた。眼前に夜空が広がり、笑い声や虫の声、硬い土の感触が鮮やかに登与の全身を駆けめぐる。
そして心の中に男の想いがひとしずく落ち、世界は再び夕暮れの屋敷の中に戻った。
「……」
登与の心の臓は全力で走ったあとのように早鐘を打っていた。だが混乱はない。これはおぼろげにしか思いだせなかった先日の夢の一部なのだと、根拠もなく登与は確信する。
「……やっぱりそうじゃん」
頬を緩ませ登与は呟いた。軽快な足どりで母屋へ向かう。
どれだけ惚れていたのだ、あの偏屈天狗は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます