第五話 二つの河原
「――――十、十一、十二……」
緩やかな曲線を描きながら流れていく川のそば。様々な色や形の石が転がる広い河原に、少女の声がささやかに広がっていた。
「――――よし。このくらいあればいっか」
紺青の風呂敷の上に並べた石を数え、登与は一つ頷く。もう一度眺めまわし、満足そうに一人笑んだ。
ここは石雪の町から少しばかり離れたところにある河原。登与は商品を作っていた。
普通はこんなところで作業しないんだけどね……。
しかし昨夜の刀鍛冶の様子を見ると、自分はあまり屋敷にいないほうがいいのではないかと思えてならなかった。家主を怒らせて屋敷を追いだされるだけならまだいいが、この世から永遠になんて冗談ではない。
天を仰ぐと曇り空が広がっていて、作業を始めてからどのくらい経ったのか、空の具合ではわからない。だが空腹を覚えるあたり、正午を大幅に過ぎているのは確実だ。
遅まきながら昼餉にありつくことにした登与は、町で買ってきた雑穀の握り飯に食いつきながら、風呂敷の上に転がる品々を見下ろした。
簪や小物入れ、髪紐。一目で若い女性を主要な販売層にしているとわかる意匠の品々である。ある物はちりめんの端切れが使われ、ある物は華やかに彩色され。また別の物には事物を象って結ばれた組紐がくくりつけられている。
磨いて、割いて、切って、描いて、結ぶ。登与は自分の作業に没頭していた。慣れた手つきに、わずかな躊躇いもなく。そうして満足のいく出来のものが予定していた数だけ仕上がったのだから、満足しないわけがない。
それに今日の作品はいつもと一味違う。――――星の欠片を使ってあるのだ。
何本かの簪にはきらめく粒が存在感を放つ黒い石の欠片が細紐でしっかり固定され、漆が塗られた本体に括りつけられている。その本体には星を模した点々や雲や月までも彩色されているので、全体として夜空と飛来する星のようだ。
久江が案内してくれた星が落ちた辺りを作業前に這い回り、飛び散った星の欠片を拾い集めておいたのだ。同じ大きさの小石よりずっと重く、黒いからすぐ見分けがついた。
星の欠片なんて珍しい素材、逃す手はない。少々高値でも富裕層相手の商人なら言い値で買ってくれるかもしれない。
残った星の欠片も、故郷に帰ってから他の小物作りに使えそうだよね……砕いて塗料にするのもいい。星を砕いた絵具なんて幻想的じゃん。
これで墨とも違う美しい黒の塗料になるなら、それを都の絵師に売るのもありだろう。食べながらも登与の頭の中は忙しなく、材料の使い方や今後の予定の思索に耽る。
昨日は想定外の出費が脳裏をよぎって悲観的だったが、登与の頭の中は今や貨幣がじゃらじゃらと鳴る音が聞こえる気がするほどだった。一儲けできる予感しかしない。
転んでもただでは起きない! 絶対一山当ててやる!
心の中で誓い、おにぎりを食べ終えた登与は荷をまとめていった。まっすぐ屋敷には帰るつもりはない。まずは町で行商だ。
よし行くぞと登与が踵を返したときだった。
ばさり、と鳥がはばたく音がした。
「――――珍しいね。女の子がこんなところで荷物を抱えているなんて」
唐突に若い男の声がして、登与は目を丸くして振り返った。
いつのまにか、肩を過ぎる長さの黒髪を緩く括った修験行者がいた。見たところ、歳は二十代。山で修行しているにしては肌が白く体格もほっそりとしていて、あの刀鍛冶と並んでも遜色ない端正な容姿の青年だ。まとう爽やかな空気といい、役者の恰好をしているほうがずっと似合うに違いない。
登与はすぐ警戒を解いた。山の麓の神社で修験行者を時折見かけながら育ったからか、どうにもこういう格好の人には親近感があるのだ。
初対面とは思えない気安さで、青年は登与に微笑みかけてきだ。
「ねえ、君は行商人? 何を売っているんだい?」
「女の子向けの小物ですよ。行者様向けなのはちょっとないですね」
「おや、それは残念。ところで君はどこから来たんだい? 町の子じゃない感じだけど」
「はい、都のほうから来たんです」
「ああ、もうすぐ祭りがあるからねえ」
問われるままに登与が答えると、青年は頷いて納得した。
「けど都のほうへ向かう道は、今塞がっているんじゃなかったっけ。祭りが終わるまでに復旧しないんじゃないかな、あれ」
「そうなんですよ。だから今、町長さんに頼んで高台の屋敷に滞在させてもらってるんです」
そこまで言って、登与ははっと気づいた。
「そうだ、行者様は都へ行く他の道を知りませんか? 土砂を撤去し終えるまでは行商をするつもりなんですけど、あんまり長居するのもよくないと思うんで。家族も心配するでしょうし」
何しろ修験行者なのである。日々山中を歩きまわっているのだから、山中の道について詳しいだろう。登与は単純にそう考えた。
だが。
「うーん……私はこの山々の奥のほうには詳しいけれど、都へ行く道については知らないなあ。そっちへは行かないから」
「……そうですか……」
両腕を組んだ青年にあっさり言われ、登与はがっくりと肩を落とした。
祭りまでは仕方ないとしても、そのあともしばらくはあの不愛想で物騒な刀鍛冶と同居しなきゃいけないって……。せめて誰か一緒に屋敷にいてほしいんだけど。賊はお断りだけどね!
登与が全身で落胆を表現していたからか、青年はすまないねえと笑った。
「しかし、高台の屋敷とはまた大変なところへ滞在しているんだね」
「はは……でもまあ、今のところは私だけですし。作業をするにはちょうどいいんですけどね。今日は素材拾いを兼ねてここでやってたんですけど」
青年の同情に登与は愛想笑いで応える。昔話の刀鍛冶がまだ家主やってるんですけどね、と心の中で付け足す。
いや言ってもいいかもしれないけどさ。でも今のところ私に被害はないし、退治してくれって頼むのもね……。
育ての親たちからも、自分に危害を加えてこない人外を無理に退治しようとするなときつく言い含められている。彼らは彼らの都合でそこにいるだけなのだからと。
「でも、この時間帯に、この辺りには近づかないほうがいいよ」
「……はい?」
「話しこんでしまってから言うのもなんだけどね。ここを離れたほうがいい。もうすぐここは、濁世ではなくなるから」
唐突な話題の転換についていけず眉をひそめる登与に、青年は繰り返し言った。
その表情、声音、雰囲気。すべてが先ほどまでと一変していた。微笑みはそのままなのに、そうとは感じられない。柔らかく親しみやすい色が失せ、不思議な威圧感がその身から放たれている。
登与は強い違和感を覚え、それからはっとした。
さっき、鳥のはばたきの音がしたよね……辺りに猛禽の姿はないのに。しかも、とても大きな音で。
「……」
警戒心が生まれ、登与は青年から距離をとった。青年は登与の挙動を片方の眉を上げ、どこか面白がる色の目で眺める。
「……早く屋敷へお帰り。ここはもうすぐ異界に飲まれるから」
最初と同じ、優しい響きで青年は言った。
その直後。青年の背に真っ白なものが膨らみ、弾けた。
純白の両翼が青年の背に広がった。羽根を散らしながらゆっくりとはばたく。。
「――――っ」
天狗、と登与は叫びそうになった。
青年――天狗は地を蹴ると宙に飛び上がった。
「じゃあね、よそ者の行商人。偏屈な刀鍛冶を怒らせないようにね」
軽やかに笑って天狗は身をひるがえした。翼をはばたかせて山の奥へと飛んでいく。
登与は唖然として、天狗が飛び去っていく空を見つめた。
いや待て、ありえないでしょこれ……。
半ば停止しかけた思考で登与は呟いた。
確かに流れ星の別名の中に天狗星なんてものがあるが、だからといって星降る町と名高い石雪の山々に天狗なんて、どういうことだ。
ああでも天狗と言えば、大昔に星の神に仕えていたのに地上へ下りてきた物好きの末裔というし、ありっちゃあり? ここによく星が降るのも山奥に住む天狗たちのせいだと考えれば、まあ納得できるし……。
頭の中でいくつもの考えが飛び交って、登与は上手く考えがまとまらない。
ただ、あの天狗は言っていたのだ。
ここはもうすぐ異界――人の世ではなくなると。
「……」
登与はそろそろと川のほうを向いた。
大岩や丸い石がごろごろ転がった、流れの速い川だ。高台の屋敷のそばにある川の下流で、町からは離れている。蝉や鳥の鳴き声が賑やかだ。
何の変哲のない、先ほどまでと変わりない川。しかし登与はもう不気味に思えてならない。
登与が荷物を抱えて離れようとした途端だった。
「――――っ」
河原の丸い石に草履が触れるより先に、登与の足裏に痺れるものが走った。同時に背中にも何かが駆け抜け、心の臓が大きく脈打つ。
――――ここにいちゃいけない。
本能が大音声でそう登与に警告した。さっさと逃げろ、と登与を急かす。
それもそのはずだった。
気づけば登与の眼前――――川辺にもやがあった。ただしそれは黒く、川の周辺にだけ漂っている。そればかりか真昼の川辺であるにもかかわらず、黒い人影があるのだ。
その二つの背格好からすると、どちらも男だろう。女にしては背が高く、体格もしっかりしている。
そう、人影。――――この距離にもかかわらず奥行きのない、影絵のような。
自分を見つめる気配に気づいたのか、人影が音もなく一斉に振り返った。
そこには顔も何もなく、人の形をした黒が広がるだけだった。
「――――っ」
もう登与は耐えられなかった。弾けるようにその場から飛び退く。
それは一拍にも満たない時間、一尺にも及ばない距離でしかない。だが登与が目を離さずにいた河原から、動作一つで異常な光景はかき消えた。川の周囲に何の異常も見当たらない。
だが登与の心の臓は早く脈打ったままだった。
登与はさらによろよろと後ずさった。それでも河原――――人影への恐怖と嫌悪は失せず、踵を返す。足は速足を超えて駆け足になる。
駆けて、駆けて、駆けて。木々の枝葉が茂る場所を過ぎ、曇り空から弱々しく届く道なき道が終わりに近づいてきた頃。登与はようやく足を止めた。
雲に隠されていても地上に注がれる日光が生む、枝葉の影が揺れている。吹き始めた風はどこか生温く、昨日までの心地よいものとは雲泥の差だ。近く雨が降るのだと見えざるものが告げているかのようでもある。
登与はいつもならうんざりするその自然現象を、生まれて初めて良い現象と思った。
「なんなのよ……あれ…………」
来た道を振り返り、登与は恐怖を言葉にした。
屋敷の中の尋常ならざる闇も深かったが、河原のあれはその比ではないと登与の感覚は告げていた。あれは絶対に近づいてはならないものだ。近づけば、取りこまれる。そういう類のものだ。
――――賽の河原。
そんな単語が登与の脳裏に浮かんだ。
そう、あれは育ての親たちが言っていた賽の河原というものではないだろうか。異界の奥にあるという、死者の魂が集う閻魔の宮廷への中継点。
ではあの人の影は死者たちか。濁世――――人の世に焼きついた未練の塊と言っていい刀鍛冶と違って、まっすぐ賽の河原へ向かった死者はあんなふうになるのか。
なんなのよ、ここ……!
登与の胸中に言葉がこぼれた。
星が降るだけならまだいい。人の括りを外れた刀鍛冶だって、怒らせなければどうということはないはずだ。天狗もまあ驚きはしたが、いつまでも引きずるほどではない。
しかし、あれはなんだ。先ほど見えた、河原の光景は。
この世ならざる世の入り口はどこにでもあるものだと、育ての親たちは言っていた。だが、あんな突然に場所が変質するものとは言っていなかったはずだ。
登与が恐怖に駆られていると、がさりと音がした。登与は思わず身体をびくりと跳ねさせる。
前方に再び人影が現れた。だが今度は影絵ではない。ちゃんと生きた人間だ。
見るからに頑強そうな二人の男は、ただごとではない様子の登与を見つけて目を瞬かせた。
「おや、昨日来た行商の子でないかね。どないした?」
「あー、いえ……熊を見かけたものですから、思わず逃げちゃいまして……」
視線をさまよわせ、登与はとっさにへらりと笑って言い訳した。
あんなもの、さすがに現地住民でも信じるとは思えないし……。
登与の体験を知る由もない男たちは、登与の嘘をあっさり信じた。連れ立って歩いていた隣の男と顔を見合わせる。しかし深刻そうではない。
「それはまた、よう逃げられたなあ。熊は結構速いのに」
「はは……あっちが気づくかどうかってところでさっさと逃げましたから……」
嘘じゃないよ。襲ってきた相手が熊じゃないってだけで。
「そうかそうか。けど、喉が渇いても広い河原にはあんまし近づいたらあかんで。水飲むんなら沢にしとき」
「……へ?」
唐突な忠告に、登与が間抜けな声をあげてしまう。なんだ、それは。
それまで口を開いてなかったほうの男がにっと笑った。
「昔から言うんだよ。この山の広い河原はどこも賽の河原に繋がってるって」
「え」
登与はぴし、と固まった。
「だからたまに賽の河原に繋がって、あっちへ行った奴らが見えるんだってよ。とっ捕まったら自分も河原で舟を待つことになるから黒いもやが見えたらとっとと逃げろって、じじばば連中に耳にたこができるほど言われたもんさ」
「高台にある屋敷も、行くんはええけど離れと奥のほうには行ったらあかんで。あと表にある鍛冶場も。でないと屋敷におる天狗の夫婦が怒って、屋敷を荒らす奴をどっかにさらうて言われとるからな」
「…………そうですか…………」
町長さん。ものすごく重要なこと、なんで教えてくれなかったんですか……!
登与はひきつった顔で二人に相槌を打ちながら、周辺の重要事項について教えてくれなかった気のよさそうな町長を恨めしく思った。
それでも自分は、野宿よりましだと思っただろうけど。
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