第四話 眠りを妨げる者
一刻後。夕餉を食べ終えた登与は憂鬱な気持ちで屋敷の外へ出た。
多分大丈夫だとは思っているのだ。あの刀鍛冶は不愛想でいかにも人嫌いといったふうだったが、むやみに人を傷つけようとする様子はなかった。姿を見せたのはよそ者が自分の屋敷を荒さないように警告するためだろう。
――――そう、きっと。
「……」
あれこれ自分に言い聞かせてみて、登与はため息を吐きたくなった。不安がちっとも薄れてくれないのだ。
登与は今まで、何度か刀鍛冶や妖と出くわしたことがある。行商であちこち歩いていると、今回のようにうっかりそういう場所に足を突っこんでしまうことがたまにあるのだ。
それに街中はどうしたって人々の欲が集まるので、妄執や情念に囚われて怨霊になってしまう者が出てくる。前回の行商のときも、取引先にそういう人がいて騒動になったのだ。
でもあの刀鍛冶っぽい人、今まで出くわした妖みたいに不気味じゃなかったのよねえ。怨霊ならもっとどろっと淀んだ気配だし。怖い雰囲気で緊張はしたけど……。
「てことは刀鍛冶じゃなくて、他の神隠しに遭った人なのかなあ。あんなに人間らしい人外なら元々は人間なんだろうし。でもあのぼろぼろ素襖からすると町の人じゃなくて、やっぱりここに住んでた刀鍛冶っぽいんだよねえ」
敷地のすぐ外にある小川のほとりに膝をつき、濡らした手拭いで身体を拭きながら登与は呟いた。本当は湯浴みをしたいところだが、水を温めるための薪がないのでできない。そもそも水回りの棟の掃除をしていないのである。
正体がなんにせよ、人間が出入りする場所の真昼間には姿を現さないでよ。雰囲気も顔も怖いんだからさ。
登与は心の中で呟いた。自分は間借りしているようなものなのだから文句は言えないのだろうが、あんな生身の人間のふりをした直後に消え去るなんて中途半端では薄気味悪い。
いくら夏とはいえ、夜中に冷たい水を長々と浴びているものではない。早々と身体の汚れを拭いた登与は、手早く身体を乾いた手拭いで拭くと急いで屋敷の母屋へ戻った。
玄関や明かり取りの格子窓、縁側の戸は開け放してある。そのおかげでいくらか月明かりが照らしているものの、土間はほとんどが薄闇の中だった。屋敷全体が木々の影に覆われているせいだろう。ぼんやりといくつかの箇所の輪郭がわかるだけで、全体の構造は判然としない。
どう見ても何か出そうな闇である。その何か――――人ならざるものをすでに見ているから、そう思ってしまうのかもしれないが。
登与は足早に茶の間に向かうと、部屋の中央に布団を敷いた。枕のそばに緋色の鞘の小太刀を置き、ごろりと寝転がる。
虫の声に混じって、石雪の町から夜の賑わいがかすかに聞こえてくる。遊郭で遊ぶ者たちの声だろう。
寝返りを打つと、ちょうど登与の目の前に中庭が見えた。その向こう――――屋敷の主人家族の居住空間であり、今は刀鍛冶の寝床なのだろう奥座敷もだ。
大丈夫。奥座敷と中庭の奥に近づかなければいいだけだ。とても簡単なこと。
そう、簡単なこと――――。
登与がいくらかの物思いに沈んでいるうちに、意識もゆっくりと沈んでいく。登与はそれに気づかない。うつらうつらとしながら眠りへ向かう。
しかし、完全に意識が闇に沈む直前。登与の意識はすっと浮上した。
何か、いる。
静寂の中、一瞬前まで沈みかけていた意識は登与に告げた。
登与が目を半ば開けると、月光に照らされた中庭が見えた。見たところ、特に変わったところはない。静かな夜が広がっているだけだ。
でもいる。床を踏む足の音がするし。あの人外さんじゃない。
誰かが部屋を横切ろうとしているのだ。警戒の声が登与の脳の中に響きわたり、全身に緊張を促した。登与は目を閉じ、寝息と変わらない呼吸を繰り返す。
侵入者は一度足を止めたが、登与の空寝に気づかない。茶の間のほうへと向かっていく。奥座敷へ向かおうとしているに違いない。
「…………」
足元が一端遠ざかったのを聞き、登与は枕元に置いてあった小太刀をとると布団から出た。見える範囲が安全であること、水回りの棟からも男が出てきて奥座敷へ向かっていることを確認してゆっくりと立ち上がる。
そのときだった。
登与の背後で風が動いた。
「――――――――っ」
登与はとっさにその場を跳びのいた。中庭へ下り、廊下を見上げる。
登与を背後から襲ったのは、暗い色の身なりをした筋骨隆々の男だった。その手にある小娘を仕留めそこなった太刀が、月光を受けて存在を強調している。
あの刀鍛冶ではない。だが登与の記憶に引っかかる顔だ。
ううん、顔というかこの服を見たことが……?
しかし登与が記憶を探り当てるのを待たず、男は踏みこんできた。
太刀がまっすぐ登与に突きこんでくる。渡り廊下の男を見ている暇などない。
「っ」
登与はかろうじてそれを鞘から抜いた小太刀で防ぐと、力任せに払ってあとずさった。さらに切りこんでくるのをかわし、小太刀でしのぐ。
数合斬りあって、登与は男から目を離さないまま渡り廊下へと逃げた。腕に覚えがあるほうだが、腕力の差はどうにもしがたい。
当然、男は追ってきた。それを気配で察知して登与は振り返りざま、反撃を試みる。
男は登与の一撃を避けて間合いをとった。そしてまた斬りあいが続く。
「あーもうっしつこいな! 人の寝こみを邪魔するどころか殺そうとか、何考えてんのさ!」
苛々して登与は怒鳴りつけた。
私は何もしていないのに! 意味がわかんない!
男は登与の怒りにまったく反応せず、次の攻撃のために構える。あるいは彼も、ちょこまか動く小娘が腹立たしいのか。影の中で輪郭が曖昧なので表情が読み取れない。
とはいえこの状況が不愉快なのは登与も同じことなのだ。これで終わらせてやる。決意を胸に、迎撃に全神経を集中させる。
張りつめた空気が二人のあいだに漂った。どちらが先に動くか。腹の探りあいにして我慢比べが沈黙の中で繰り広げられる。
そうして、いくらかの時間が流れ。さほど我慢強くない登与が焦れてきたときだった。
どさ、とどこかで音がした。布が擦れ、床に落ちる音。
けれど落ちたのは布だけではない。
この周囲ではない。奥座敷のほうだ。
「――――っ」
男が登与から視線を外した。目を大きく見開き、また登与を凝視し。悔しそうな色を一瞬浮かべると脇差を持ったまま渡り廊下へ上がる。
「あっちょっと!」
登与が呼び止めたが、無駄だった。男は奥座敷へと駆けていく。
男の姿が見えなくなって、唖然としていた登与は緊張を解いて息を盛大に吐き出した。
「なんなのよ……」
人を殺そうとしていたのに、音一つで諦めて血相を変えて戦線離脱した。ということは、先に登与が見たのはあの男の仲間だったのだろう。
「だったら最初からこっちを無視して、向こうへ行っといてよ。こんな真夜中に起こすなっての」
文句を言いながら登与は鞘を拾って小太刀を収めた。男が消えた渡り廊下に目を向ける。
『この辺りと、戸に札が貼ってある棟と、奥座敷には近づくな。絶対にな』
奥座敷から現れた男はそう言っていた。冷たく鋭い、それこそ刃のような目と空気で。
先ほどの男たちはきっとそんな忠告を知らないだろう。この屋敷を荒らした者の末路も。
彼らは一体どうなってしまったのか――――――――。
想像して登与はぶると身体を震わせた。人ならざるものが境界を侵した人間をどうするかなんて、昔話や説話などでさんざん説明されていることだ。
……寝よう。明日も早いんだし。
登与は縁側へ上がった。中途半端に目が冴えているが、なんとかして眠ってやる。
しかし部屋へ入ろうとしたとき。登与の視界の端――――男が去った渡り廊下のほうに動くものがあった。
昼間の刀鍛冶らしき男だ。
「……っ!」
登与はその場に硬直した。思わず頬を引きつらせる。
刀鍛冶はそんな登与の様子に構わず中庭に顔を向けた。それからすぐ近づいてくると、じろりと登与を見下ろす。
「……中庭の奥を荒らしてないだろうな」
「な、ないですよ。確かに賊とちょっとやりあっちゃいましたけど、そういうことはしてませんて」
そもそもここ、中庭にしてはちっとも風流じゃないし。ちゃんと手入れがされて花が咲いてるってだけなんだから、そんなに気にする必要ないんじゃないの?
登与のいらっとした本音はさいわいにも、表情から読みとられることはなかった。あるいは気に留めなかったのか、刀鍛冶は縁側を下りた。音もなく歩き、立ち止まってはじっくりと中庭を見分する。
登与と賊の足跡以外の変化がないことを確かめて満足したのか、刀鍛冶の首が止まった。だったら最初から私に聞かないでよ。登与の苛立ちはさらに募る。
だがそこで登与ははっとした。
「って、待ってください刀鍛冶さん!」
中庭の奥へ向かおうとした刀鍛冶を登与は呼び止めた。
刀鍛冶は一応振り返ってくれた。しかし平坦に見える顔の目は明らかに不機嫌だ。
登与はやや腰が引けながらも口を開いた。
「あの……さっき奥座敷のほうで物音がしたんですけど、なんだったんですか? それに、賊がそっちへ行ったんですけど……」
「……」
刀鍛冶の目に険がにじんだ。そんなことで呼び止めるな、と登与を責めているようだ。結局説明してくれないまま、今度こそ中庭の奥――――高台の縁のほうへと向かっていく。
ってことはやっぱり……。
登与は背筋を寒くした。
刀鍛冶は高台の縁にある大きな石の前に腰を下ろすと、月に照らされた風景ではなく石を見下ろした。
大地に突き刺さった直刀のような姿だった。月光を浴びて青白く照らされた端正な横顔、まっすぐに伸びた背、微動だにしない姿勢。深く根を張った若木のようにも思える。
あるいはそこに誰かがいて、見つめあっているかのような。
石を見下ろす、その眼差し。刀の如き鋭さが失せた瞳に浮かぶ、何かの感情。
登与は刀鍛冶の横顔に見惚れた。そして問うことを即座に諦める。
踵を返して茶の間に戻ると登与は小太刀を枕元に置き、中庭に背を向けて布団に潜りこんだ。冴えた意識のままきつく目を閉じる。
それでもまだ、瞼の裏には先ほど見た情景の残像が残っている。そのせいで、背後に神経が向いてしまうのをどうすることもできない。
風に揺さぶられた枝葉の音もなく、虫の音の合間に梟の声が時折聞こえてくる。登与が布団から起きだしたときと同じ静かな夏山の夜が横たわっている。
賊が何故こんなところに現れたのか。あの刀鍛冶はどこへ賊を放りだしたのか。頭の中に浮かぶ疑問も登与は無理やり抑えつけた。
大丈夫。私は何もしていない。だからあの刀鍛冶にどこかへ放りだされたりしないはず。
だから、これが最期の眠りにならないはずだ。
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