第三話 町の昔話と怖い家主
石雪が星降る町たる所以をまざまざと見せつけられたあと。登与は小川が流れる高台にようやく辿り着いた。
町の大通りにある町長と同じかそれ以上の大きさの、こんな山奥にあるにしては立派な屋敷だ。表から見える部分はわずかしか日に当たっておらず、両側に生い茂る木々の合間にひっそりと佇んでいる。日の光に怯えているような印象の屋敷だ。
よくこんな町外れに広い屋敷を建てることができたものだよね……どんなけ金かかったんだか。
それだけ星によって町が潤い、当時の町長も財力を築くことができたということか。他に何か商売をしていたのかもしれない。
「おっきいねえ」
「うん。それに小川もすぐそこにあるから、まだ掃除はしやすいと思うよ。やらないといけないのは表座敷のほうだけだし。中庭もこのあいだ私が草抜きしたところだから、そんなにやることはないんじゃないかなあ」
「? 久江ちゃんはたまにここ使ってるの?」
「うん。隠れ家にちょうどいいでしょう?」
登与が眉をひそめると、久江はからりと笑ってみせた。
「じゃあ、私は行くから。お掃除頑張ってね」
小さく手を振り、久江は来た道を引き返していく。それを見送ったあと、登与はさっそく生け垣に囲まれた屋敷の玄関をくぐった。
その途端。
「――――っ」
一瞬、強烈な違和感が登与の全身を駆け抜けた。暖かな場所から突然凍えた場所へ放り出されたような、あるいは鋭い視線にさらされたような。
その感覚は登与が戸惑っているほんの一拍で失せた。もう辺りには日陰の涼しさと山中の静けさばかりが広がっている。
「……」
薄気味悪さを覚えながら登与は首をめぐらせた。右手の塀に接した建物の戸に札が貼られているのを見つけ、目を瞬かせる。
近づいてみて、登与は眉をひそめた。
「これ、術札……?」
幼い頃に両親が流行病で死に、故郷の神社で育てられた彼女にとって術札は見慣れた道具だ。育ての親である禰宜や巫女は術の使い手なので、登与も術札を作る手伝いはよくしているのである。
記された文字からすると、音が漏れ出るのを防ぐ効果があるようだ。町長の話によるとこの建物はかつて作業のため使われていたというので、その頃に貼られたものが残っているのだろう。
大昔に貼られた割にはあまり古びた色をしていないのが、少々気になるのだが。
「……」
いや、気にしちゃいけない。きっと悪いことが起きないよう、町長さんが術者に頼んで封印してるんだよ。うん。
登与は自分に言い聞かせると建物から視線を外し、母屋へ足を向けた。しかしすぐ中へ入らず、玄関で立ち止まって辺りに視線をめぐらせる。
それからぱん、とおもむろに手を叩いた。
「東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良――――」
瞼を半ば落として登与は低く、しかし明瞭な声で言葉を連ねていく。
いつか手作りの小物で行商をしようと幼い頃から考えていた登与は、育ての親たちから身を守るための術の修行を受けていた。小太刀の扱い方も、神社の守り人を自称する近所の元武士の男が叩きこんでくれている。おかげで今まで命の危険を感じることはあっても、ぎりぎりのところで切り抜けることができていた。
「――――」
呪文を唱え終えた途端、登与の周囲にふわりと風が生まれた。清浄な気配が登与を包み、失せる。
これで、もし何か厄介なことがあっても大丈夫のはず。呪いや術に襲われても、術が守ってくれる……よね。
盾を得てほっと安堵し、登与は玄関の引き戸を開けた。
途端、ひやりとした空気が登与の肌を撫でた。木陰よりさらに暗い闇に向けられた目が突然の変化についていけず、登与は瞬きを繰り返す。
「――――」
肌が冷えた空気に馴染み、瞳が闇に馴染んでいく。それを感じてから登与は屋敷の中へ入っていった。
玄関から見たところ屋敷の中は、外観とは不相応にそっけなかった。山中の生活に必要な道具が一切見当たらないのだ。それが距離を感じる蝉時雨や川の音、薄暗さと相まって、より屋敷の孤独感を強調している。
右手に竈や木箱が置かれた土間の左手には、部屋がいくつか並んでいた。竈に一番近いほうは囲炉裏がしつらえられ、もう一部屋を挟んで奥に縁側が見える。縁側の戸を開ければ中庭が見えるはずだ。
ともかく、この埃っぽさをどうにかしないといけない。最近は使われていないのか板の間のあちこちに蜘蛛の巣が張られており、これでは寝起きする気になれない。
ということで登与は町長の家で借りた布団を囲炉裏の間と縁側のあいだにある茶の間に置くと、さっそく掃除を始めた。閉めきられた戸や襖、窓を開けて夏の涼風を採り入れ、物置に置いてあった掃除道具であちこちを綺麗にしていく。
長旅やらで疲れた身体に鞭打って寝床を整えるのに時間を費やし、空が赤みを帯びる少し手前で登与は掃除の手を止めた。中庭を望む母屋と奥座敷を繋ぐ渡り廊下に腰を下ろし、登与は大きな息を吐く。
「はああ、つっかれたー」
旅に掃除と、働きづくめでもうくたくただ。これでもまだ中庭や渡り廊下、その向こうにある奥座敷や水回りの棟に手をつけていないのに。
でもまあ、竈が汚れてなくてよかったよ。今日は町で食べるしかないけど、明日は食材を買いこんで料理できそうだし。
今夜どこかの店へ食事に行ったときに食材を恵んでもらえたら、最高なのだが。図々しいことを考えながら大きく伸びをした登与は、中庭を見た。
久江が草抜きをして日が経っていない中庭は、ぽつぽつと植えられた数種類の草木が風にそよいでいた。今が時期なのか、青い小さな花が低木の下でひそやかに咲き誇っているのが可愛らしい。常緑樹の葉も光沢を返して艶やかだ。
その奥にある高台の縁へ目を向ければ青空の下、青い山々やその谷間に広がる町、青々とした稲が育つ棚田が一望できる。
ここにちびたちがいたら喜びそうだなあ……。
故郷にいる血の繋がらない家族の中には、やんちゃな少年も好奇心旺盛な幼女もいるのだ。こういう広い屋敷は遊び場としか思えないだろう。走り回っている様子しか思い浮かばない。
住民の一部が少々物騒であるが、星がよく降る珍しい町である。話以外でも、家族への土産になるものを買えたらいいのだが。
――――と。
「……?」
高台の縁のほうに植わった低木の合間にあるものが目に留まり、登与は目を瞬かせた。
ささやかな盛り土の上に置かれた、丸みのある苔むした石だ。全体の形からすると、岩の破片だったのだろう。
お墓みたいな置き方してるな……。
登与は興味を惹かれ、土間から草鞋を持ってきて中庭へ下りた。石が置かれた中庭の奥へと向かう。
そして石の前に立とうとした、そのときだった。
「何をしている」
「っ」
背後からの男の声に、登与はそれこそびくうっと跳び上がった。ばっと振り返り、低木にぶつかってしまう。
登与の背後だったそこに、男が立っていた。
歳は登与より上だろうが、四十に届いていないのは間違いない。袖がぼろぼろになっている縹色の素襖の上からでもわかる体躯は、首や柱に手をついて覗く手首のあたりなどからすると引き締まって筋肉質そうだ。
顔の造りも薄い唇、尖った顎の輪郭、細い眉と、都の看板役者もかくやの端正ぶりである。この容姿で舞台に立てば、どんな身なりでもたちまち女性客を魅了するに違いない。
ただし登与を見下ろす目つきは鋭く、眉間には皴がしっかり刻まれている。それにこの、漂わせた不機嫌そうな気配。
これ絶対、何かの邪魔をされたって怒ってるやつだ……!
当然、登与は縮こまった。
「す、すみません。人がいるとは気づかなくて……」
「……ここに泊まるつもりか」
登与の謝罪を聞いていたのかなかったのか、男はさらに問う。先ほどと同様、たった一言であるのにどこか命令めいた威圧感を感じさせる声音だ。
登与はむっとしたが、勝手に入ったのは自分のほうである。文句は言えまい。
「駄目ですか? 星が落ちたせいで谷間の道が通れなくなったし、町の宿も今はどこもいっぱいみたいでここしか雨風をしのげる場所がないんです」
「……」
「けして騒ぎませんし、仕事の邪魔もしませんから」
だからどうか泊めてください、と登与は言外で乞う。野宿は絶対に御免なのだ。
男は数拍視線をさまよわせたあと、短く息を吐いた。
「…………好きにしろ。――――ただし」
そう男は一度言葉を切った。
途端、男がまとう気配が変わった。彼の周囲の気温が下がり、冷気が辺りを漂う。
登与は刃を喉元に突きつけられたような心地がした。
「この辺りと、戸に札が貼ってある棟と、奥座敷には近づくな。絶対にな」
氷の刃で作ったような声でそう言い捨てると、男は踵を返した。音もなく土間のほう――――おそらくは外へと消える。
男の姿が見えなくなって、登与は長い息を吐きだした。
なんつー威圧感……女の子にあんなの向けるかな普通……。
あの男も町の刀鍛冶かもしれない。刀を差していなかったがあんな目と雰囲気なのだ。どこかに店を構えて商売なんて絶対に似合わない。
……ん? 刀鍛冶?
登与ははたと気づいた。
あの人、奥座敷のほうから来てなかったっけ……?
『絶対に、奥座敷に入ったり中庭の奥の石に触っちゃいけねえよ。それと敷地に入ってすぐ右手に見える、戸に札が貼ってある工房にもな』
登与が屋敷への滞在の許可を求めに行ったとき、老齢の町長はそう登与にきつく言い含めた。それが屋敷に利用するための最低条件だと。
それに町娘たちの反応からすると、屋敷を利用する最低条件は町の常識のはずだ。
だから奥座敷から町の住民が来るのはおかしい。すでに町人ではない誰かの利用を許しているなら、町長は言ってくれているだろう。
ということは。
「あの人、ここにいた刀鍛冶……?」
登与は思わず呟いた。
それは、久江や町長が登与に話してくれた昔話に出てくる人物だ。
この元町長の屋敷に住み着いたよそ者の刀鍛冶の、一人息子だったという。父の死後は自らも依頼のまま包丁や農具、刀などを打つようになり、その技量は遠くの町まで届くほど。わざわざ遠方から、武士が大金で依頼しに訪れることもあった。
あるとき彼のもとに女が現れ、そのまま居着いた。女は甲斐甲斐しく刀鍛冶の世話を焼き、若くして人間嫌いの彼に代わって町人たちとも積極的に交流した。町人たちはすぐ女を気に入り、あの偏屈者についに嫁がと祝福した。
だがある日、二人は突然屋敷から姿を消してしまう。理由や行方の手がかりは一つとしてなく、二度と人前に姿を現すことはなかった。
以来この屋敷を訪れ、特定の場所へ足を踏み入れた者は皆行方知れずになったのだった――――。
だから町人は絶対にこの屋敷の奥座敷へ行かないし、中庭の石に触れない。敷地内にある、蔵を改修した鍛冶場にも入らない。
それらの禁を犯した者が行方知れずになるのだと、数多の事例でわかっているから。
あえて禁を犯そうとするのは、調子に乗った町の若者や酔っぱらい、忠告を聞かない愚かな旅人だけ。そうして新たに神隠しの被害者は増えていき、今にいたるのだ。
「本物だよね、あれ…………」
素襖の男が消えた土間のほうを見つめ、登与は喉を震わせた。
ここには登与以外誰もいないので、呟きに答えてくれる者は誰もいない。変わらずやかましい蝉時雨ばかりが降り注ぐ。
登与はもう、あの男は昔話に出てくる刀鍛冶としか思えなかった。
やっぱりここ、人外つき物件か!
予感が的中し、登与は遠い目をしたくなった。
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