第二章 彼が守るもの

第六話 香る屋敷に町娘

「あ、登与さんだ」

 河原での恐怖体験から二日後。町の大通りで商品を売っていると、登与は明るい声で名を呼ばれた。

 声がするほうを向くと、町へ来た日に雑貨を買ってくれた町娘たちがいた。今日も仕事の合間に声をかけてくれたようだ。

「一昨日と昨日はいなかったけど、今日は売ってるんだ」

「うん。商品を作ってたんだよ。あちこちで材料をかき集めてね」

「そういや一昨日、町の刀鍛冶さんの工房にいたよね? あと久江の家にも」

「久江ちゃんの家?」

 登与が目を瞬かせると、ほら、と別の町娘が口を挟んできた。

「町で一番大きな衣装屋さんへ行ってたでしょう?」

「ああ……」

 説明され、登与は思いだした。

 装身具を取り扱う店はないかと町長の妻に尋ねて、教えてもらった店だ。都から持ってきた装身具の中でも特に高価な物を売り、ついでに不要な布地や組紐などを引き取らせてもらった。材料はそれを不要としているところから安く仕入れるに限る。

 そのとき最初に応対してくれたのが女将だという、きびきびした振る舞いの女性だった。ただし薄い化粧で整えられた顔立ちはきりりとしていて、仕事でなくても厳しそうなものを感じさせたが。

 てことは、あの女将さんが久江ちゃんのお母さんか……。久江ちゃんはなんかのんびりした感じの顔だし、お父さん似ってわけか。

「いい服着てると思ってたけど久江ちゃんて、やっぱりこの町のいいとこのお嬢さんなんだ」

「うん、まあね」

「全然そんな感じしないけどね。店を継ぐのはお姉さんだし」

「そうそう。昨日も『今度のお祭りでいい人見つけられたらなあ』って言ってたよね」

「それは妙も同じでしょー? このあいだ、言ってたじゃん」

「っそれはたまたま言葉のあやでっ……」

 友達の暴露で顔を真っ赤にし、妙と呼ばれた少女は必死に釈明する。

 でも、と助け船のつもりなのか町娘の一人は笑いながら言う。

「都のほうの道はこのあいだ星が落ちたせいで通れなくなっちゃったし、今年は期待薄よね」

「町長さんが手の空いてる人を雇って復旧作業をしてるっていうけど、お祭りに間に合わないよね、絶対」

「うん、うちの父さんも言ってた」

 他の町娘も頷いて同意する。

 登与は苦笑した。

「復旧作業をしてる人たちなら力持ちが多いだろうし、頼りがいのある人が結構いるんじゃない? おっさん連中だけじゃなくて、この町にいる私たちくらいの歳の人も参加するだろうし。皆も手伝いか差し入れに行って、様子を見てきたらいいと思うけど」

「あー、源太は率先してやってそう」

「馬鹿だもんねー」

「ねー」

 町娘たちは町の若者を思い浮かべてか、うんうんと頷きあう。実に遠慮がない。

 まあ登与も町娘たち相手の行商をしていたとき、通りがかったその源太の単純さに呆れているのではあるが。しかし哀れだ。登与はかの青年に同情した。

 そんな町娘たちとのやりとりを少しばかりしてからも路上での行商を続け、そろそろ日が赤くなろうとする頃。登与は店じまいをした。今日の売れ行きは少々よろしくなく、片づけをする口元はへの字に曲がっている。

 まあこういう日もあるかと自分を慰めながら店で出来合いのものを買い、登与が町を出て少し歩いていたときだった。

「登与さん!」

 夕日が木々や茂みの影を一層濃くする中、足音と声が登与の足を止めた。登与が振り返ると、久江が駆けてきている。

 登与は目を瞬かせた。

「久江ちゃん? どうしたの?」

「登与さん、簪はまだ残ってる?」

「簪? ああ、いくつか残ってるけど」

 目を丸くした登与は優しい表情になって頷いた。久江が先日、祭りのことを気にしていたのを思いだしたのだ。

 彼女はそのとき手持ちがなかったので、結局簪を買っていない。だから慌てて追いかけてきたのだろう。

 明日もこの町で売るんだし、まだお祭りまで日があるんだから急がなくていいのに……。

 そう思う一方、少しでも早く晴れの日の装いを揃えたいという乙女心も可愛らしい。登与は頬を緩ませる。

 雨が心配だが、かといって屋敷まで来てもらうのもよくないだろう。だから登与はその場に風呂敷を下ろした。夕日を明かりに、簪を風呂敷の上に並べる。

 丁寧にやすりをかけただけの身に陶器の欠片や紐飾りが結び付けられた品々だ。ごく簡単にであるが彫刻もされてあり、手間暇をかけているのが一目でわかる。しかし高価な素材は使っていないので、町娘の小遣い程度でも手が届くだろう。

 わあ、と久江は目を輝かせた。

「どれも素敵……いつも来る行商の人が持ってる簪とは違うわ」

 うっとりと呟き、松明を登与に返した久江は簪を手にとった。松明にかざしてじっくりと見分する。

 やがて久江は、簪の細工に気づいて視線を止めた。

「このあいだは気づかなかったけど、よく見ると登与さんの簪って何か刻んであるのね。……小判?」

「そうそう。作者は私だって目印だよ」

「へえ……そんなのを刻んでる簪なんて初めて見たわ」

「まあ大抵はそうだよねえ……」

 不思議がる久江に登与は苦笑する。確かにそうだ。登与も他で見たことがない。

 そんなふうに話をしながら一つ一つ見比べていた久江は、やがて一つを手にした。

 緋色の組紐が花の形に編まれ、似た色を塗られた木の実の皮が花びらのように吊り下げられて揺れる一本だ。身にも緋色の花びらが塗りつけられていて、光沢がある黒地に映えて美しい。

 少々まけてやり、わずかばかりの銭で取引は成立する。簪を無事に手に入れた久江は、嬉しそうというよりはほっとしたように頬を緩めた。簪をぎゅっと両手で握る。

「よかったぁ……今日は町に来てたって美弥から聞いて、でも売ってた場所へ行ったらもう帰っちゃったって聞いたときはどうしようかと……」

「ごめんごめん、今日は出来合いのものを買って、高台の屋敷で食べようと思ってさ。魚も買ったし」

「ふうん……じゃあ、私が作るわ」

「へ?」

 両手を叩いて久江が言いだしたものだから、登与は思わず声を裏返した。それからすぐ、目を瞬かせる。

「や、それはちょっとまずいでしょ。これから暗くなるんだし、あんまり遅くなったら家族の人も心配するよ?」

「平気よ。登与さんが屋敷に帰ってて、それにたくさん簪を持ってたから選ぶのに迷っちゃったって言うから」

 登与はさすがに止めようとするが、久江はまったく意に介さない。他の町娘たちは昔話を恐れ、登与に屋敷へ行くのを勧めなかったくらいなのに。

 まあそりゃこの子が町長のところへ行けばって勧めてくれたんだけどさ!

 かくして登与は押しきられ、二人で屋敷に帰ることになった。

「どうしてこうなった……」

 久江に囲炉裏で川魚を焼いてもらい、自分は土間の奥で野菜を切りながら、登与は遠い目をしたくなった。

 登与とてできるなら久江には帰ってもらいたかったのだ。下手に話が弾んで騒いでしまって、あの刀鍛冶の機嫌を損ねたくない。二人して神隠しに遭うのは御免だ。

「町の子なら化け物屋敷を怖がろうよ。そりゃ男なら肝試しに行ったりはするだろうけどさ。女の子が怖がらないって……」

 ぶつぶつと呟きながら、登与は野菜を次々に切っては籠に入れた。ある程度切ったところで残りは明日に使うことにして麻袋に詰め、竈の傍らに置くと籠を持って振り返る。

 魚が焼けるいい匂いが漂い、火が爆ぜる音が聞こえてくる。焼き加減はどうだろう。食欲をそそられる匂いに誘われ、いそいそと登与は振り返る。

「……げ」

 囲炉裏の間を見た登与は思わず口を引きつらせた。

 囲炉裏のそばにいるはずの久江の姿が、見当たらなかったのだ。奥の部屋にも見当たらない。

 まさか、と登与は足早に囲炉裏の間を抜けて、隣の茶の間へ入った。他の部屋も確認し、次は縁側へ出る。

 まさか、奥座敷か中庭の奥へ行ったんじゃ――――。

 ――――と。

「登与さん?」

 中庭の片隅から不思議そうな声がかかり、登与はばっと振り返った。

 低木の枝の影からひょいと顔を出した久江は、ぱちぱちと目を瞬かせた。

「どうしたの? そんなに焦った顔をして」

「いや……姿が見えなかったから一瞬、昔話の刀鍛冶にでもさらわれたのかと」

 脱力し、登与は長い息を吐いた。人騒がせな、と思わず胸中でこぼす。

 ごめんなさい、と久江は謝りながら縁側に上がってきた。

「花の匂いがさっきしてたから探してたの。でも花は見つからなかったから、奥のほうをちょっと見てみようかなって。石の周りにも木があるし」

「奥のほうって……」

「前にもあの匂いを嗅いだことはあるんだけど、そのときもすぐ匂いはしなくなっちゃって、わからなかったの。だから今日こそはって思ったんだけど」

 残念、と久江は肩をすくめる。

 いやそれまずいでしょ! あの人小娘だからって容赦しそうにないし!

 刀鍛冶が実在していることを知る登与は、すんでのところで彼女がやめてくれたことに心底ほっとした。顔見知りが気づけば神隠しなんて洒落にならない。

 それにしても、この平然とした様子。先日ここのことを言っていたときの態度といい、ここでの過ごし方に慣れてはいないだろうか。

「……久江ちゃん。もしかしてしょっちゅうここへ入ってるの?」

「しょっちゅうっていうほどじゃないよ。母さんとおばあちゃんが大喧嘩したときだけだし。月に二、三回くらい?」

 と久江は首を傾ける。その話す内容とはかけ離れたなんでもなさそうな様子からすると、やはりもう慣れてしまっているようだ。

 登与が二の句を継げずにいると久江は肩をすくめた。

「別にそんな深刻なことでもないよ。くだらないことで口喧嘩してるのがうるさいから、こっちへ来てるだけ。皆の家にそう何度もいられないし。神社とか町長さんのとこも、泊めてもらえるけどいい顔されないし」

「くだらないって……」

「私の教育方針。私の家は衣装店なんだけど私は次女だから家のために習い事なんてする必要はないって、お母さんは結構自由にさせてくれるの。でもおばあちゃんは嫁ぎ先の店を切り盛りできるようにって、厳しく躾けたがってて。それで喧嘩」

「……えと、他の家族の人は…………」

「お父さんもお姉ちゃんも呆れてる。というか関わりたくない感じ? 特にお父さんは入り婿だから、板挟みだし」

 うわあ……。

 登与は心の中でうめいた。

 それは登与と同世代のお嬢様にとって、なかなかにしんどい状況だろう。自分のことで家族が喧嘩というだけでも嫌なものなのに、他の家族は助けになってくれないのだから。奉公人も彼女の支えとなるには限界がある。

「……家族の人は、久江ちゃんがこの屋敷に来てるのは知ってるの?」

「さあ? 何も言わないからわかんない。こっちに来るようになったのは一年くらい前からだから、今も美弥とかの家に行ってると思ってるのかも。知ってたら怒るに決まってるし。少なくてもおばあちゃんは知らないと思う」

 囲炉裏の前に座り、久江は籠の中の食材を火の上の鈎針にひっかけた鍋の中へ入れていく。水はすでに小川で汲んできたものを入れてあり、湯になっている。食材を受け入れた湯がじゅわ、と音をたてた。

「登与さんは町へ来たときに『育ての親』って言ってたけど、ご両親はいないの?」

「うん。小さい頃に病気で、二人ともね」

 木の杓子で食材をかき混ぜながら登与は答えた。久江の身の上なら気になっても不思議ではない。

「それで、集落の神社の禰宜さんと巫女さんが引きとってくれて、似たような境遇の子たちと一緒に宿舎で暮らしてるんだ。普段は神社の境内の掃除とか禰宜さんたちの手伝いとか、町の掃除の手伝いもしてるよ。行商はまあ趣味兼、皆の食い扶持を稼ぐためかな」

「ふうん……賑やかそうだね」

「うん。今は私が一番上で、二番目は十三歳の目つきが悪い男でさ。他は元気な小さいのばっかり。仕事しないで遊びだしたり喧嘩したりすることもあって、たまに禰宜さんと巫女さんに怒られてるよ」

「……そうなんだ」

 ひっそりとした声で久江は相槌を打つ。鍋に向けられた半眼は、登与が語る神社の様子を想像しているように見えた。

 夕日はすでに落ち、中庭の草木は屋敷のものより一層濃い影を落としている。その影もほどなくしてすべて一つに溶け、山も闇に包まれるだろう。――――逢魔が時が、完全な夜へと変わるのだ。

 いい焼き加減になったと久江は串刺しの魚を登与に渡した。その横顔はもう普通のものだ。

 けれど登与はもう目の前にいる少女を、夕暮れの道で簪一つにあれこれと悩んでいた無邪気な少女と重ねることができなかった。

 登与にとって育ての親たちは、頼りになるし信頼できる大人だ。弟妹は世話の焼ける、守ってやらないといけない存在で。全員が登与の大事な家族なのだ。行商から帰ってきて、あの宿舎や神社の境内が見えてくると、やっと帰ってこれたと安堵の気持ちがこみ上げてくる。

 久江にとって家族や家は、そうした価値ある存在ではないのだ。家の中にいたいと思える場所がないし、家族のそばにいないと不安だとも思えないに違いない。それはとても不幸なことではないだろうか。

 ちょっとまずい子だなあ……。

 登与は心配になった。

 強い妄執に限らずこういうささやかな悩みや鬱屈を抱えた生者も、妖や幽霊は好むのだ。特に負の感情に囚われた幽霊は、生者の肉体を羨んで近づきたがる。そうして彼らの陰気にあてられた生者は心がねじれて愚かなことをしてしまったり、寿命が尽きる前に賽の河原へ引きずりこまれてしまうのだという。

 登与は久江に、そんな異界の誘惑に負けてしまいそうな危うさを感じた。

「……皆、ここに来るのが怖いって言うけど私は好きなんだ。お母さんもおばあちゃんも来ないもの。ほとんど旅の人が泊まることもないし、たまにおじさんたちが作業しに来るくらいで、静かだし」

「……」

「ここは何も考えなくていいから、私は好きなの」

 急速に夜闇が広がる、夜の入口のような中庭に顔を向け、夢うつつを漂っているような響きの声音で久江はささやく。その眼差しは声に沿うようにどこか遠い。草木に目を凝らしているのではないことは明らかだ。

 登与は一瞬、久江の着物の袂に視線を落とした。久江はそこに簪を入れていたのだ。

 だから久江ちゃんは簪が欲しかったのかな……。

 着飾って、日常から離れて。素敵な男性に声をかけてもらえるようにして。

 自分を息苦しい家から救いだしてくれる何か――――あるいは誰かを求めているのかもしれない。

 疲れからか少しばかり眠気を覚えた頭で、登与は考えた。

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