2.こわい < ?(1)

 綿谷さんとご飯を食べに行ってから、数日が経った。

 あれから、特別なことはなにもない。


 やっぱりあんな姿を見せてしまったことで、綿谷さんに多大に気を遣わせていたことを知る。

 …本当に、申し訳ない。


「瀬那、ここ数字違うかも。」

「…え、マジ?」

「直しちゃうから確認してー。」

「マジみなみさま…、助かる。」


 今度なんか奢るね、と、私の手元の書類に目線を落としながら瀬那が言う。

 瀬那といい綿谷さんといい、お礼やお詫びが大袈裟すぎやしないか。

 …とは、いつも思っていること。


「…瀬那さん…?」

「お、どーした佐久間くん。また私なんかやらかしてた?」


 提出前の最終確認をしていた瀬那に、今年度の新人、佐久間くんの声がかかる。

 集中モードに入っている瀬那はいつものような笑顔がないので、少し話しかけづらい。

 一瞬ためらった佐久間くんの気持ちは、痛いほどわかる。


「い、いや。…F社の訪問…、時間もうすぐだなって、」

「あ。」


 話しかけてしまえばいつも通り、明るくて優しいお姉さんなのだけれど。

 …訪問の時間、忘れてたな。

 佐久間くんが教えてくれなかったら、書類のミスよりも大事だ。


「…あとやっとくから、はやく行きな?」

「うえーん、ほんとごめん!! ありがと!!!」

「このあと直帰だよね?」

「うん! 佐久間くんも帰りのしたくして行くよー。」

「で、できてます…!」

「…ありゃ、後輩も仕事がはやいぞ…、」


 佐久間くんの教育担当は綿谷さんなのだけれど、今日は研修と引き継ぎを兼ねて瀬那の訪問に同行するらしい。

 佐久間くんの出来のよさというか先回りのうまさは、綿谷さん譲りか。

 …対する自分の仕事のできなさには、嫌になるが。


「あれ、佐久間くん訪問…、」


 バタバタとしたくをする瀬那を横目に彼女から引き継いだ書類の最終確認をしていると、ちょうど外回りから帰ってきた綿谷さんが佐久間くんの姿を見つけて、なぜまだいるのか、という表情で声をかける。

 それにすかさず瀬那が応えた。


「ごめんなさい! 私が忘れてました!!」

「…おーい。」

「大丈夫です! 近道知ってるんで!!」

「まあいいや、佐久間くんのことよろしくねー。」

「任せてください!」


 ここまでの過程にはやや不安はあるが、もちろん瀬那には任されるだけの理由があるし、「任せてください」、なんてセリフだって、言えてしまうだけの自信が彼女にはあって当然なのだ。

 …それが瀬那、だし。


「じゃ、お疲れさまです! いってきまーす!!」

「いってきます。」


 そして夕方のこの時間に、この元気である。

 瀬那は仕事ができるだけじゃなくて、社内のムードメーカーでもあった。


「いってらっしゃーい。」

「お疲れさまー。」


 綿谷さんと私でふたりに声をかけて見送ると、オフィスの中には私たちの他に誰もいなくなってしまった。

 瀬那がいたせい(おかげ?)かだいぶ騒がしく明るかった室内は、急に静かになる。


 …そしてふたりきり、だし。


 いや、いままでだってたぶんこんな場面何回もあったはず。

 いまさら意識することではない、…と、思いたい。


「みなみちゃんは今日はもう内勤?」

「…です。午前中に訪問の予定終わったので。」


 自分のデスクでノートパソコンを起動させながら訊ねてきた綿谷さんに応える。

 これから報告書、かな。


 なんて、そんなことを考えていると。


「みなみちゃんに自慢しちゃおーっと。」


 いつも通りテンションの高い綿谷さんが、私の前に2枚のチケットを見せつけてきた。

 それは、期間限定のイベントをやっている水族館のチケット。


「さっき行ったところでもらっちゃった。」


 何度ホームページの予約サイトをのぞいても、チケットがぜんぜんとれなかったところ。

 私の口からは、無意識に本音が漏れた。


「…いいなあ。」


 言ってしまってから、また綿谷さんに気を遣わせてしまうのでは、と、慌てて首を振った。


「いる?」


 ほら、ね。

 案の定綿谷さんはなんともないというふうに、チケットをこちらに差し出してくる。

 私は両の掌を彼に向けて、それをお断りした。


「ごめんなさい、気にしないでください。」


 いや、ほしいことはほしい。とても。喉から手が出るほど。

 でもそれは、綿谷さんの取引先の方が綿谷さんのために用意したものだ。

 いくら綿谷さんからの提案とはいえ、私が受け取ってしまうわけにはいかない。


 キャンセルが出ないか、またサイトとにらめっこしないと。

 …なんて、そんなことを考えている、と。


「じゃあ、」


 いっしょに行く? と、やっぱりなんともない、っていう感じで、綿谷さんはこちらをのぞき込みながら言う。

 いやいやいやいやいや、ちょっと、…待って。


「それは…、」


 チケットをもらってしまうよりよくない。本当によくない。

 この前の食事ですら、綿谷さんにたくさん気を遣わせてしまった罪悪感でいっぱいなのに。

 いっしょに出かけるだなんて、そんなデートみたいなこと、


 …デート?


 いやいやいやいや、そんなおこがましいこと、思っちゃいけない。

 きっと今回だって、私がうっかり口を滑らせてしまったから。

 …気を、遣ってくれているだけ。


「…ほんとに、」


 気にしないで、と、私が重ねて断ろうとする、と。


「…どうせなら、好きな人と行きたいし。」

「…へ、え…!?」


 なにかを言おうとして、それでも間の抜けた声しか出せなかった。

 …なにを言ってるんだろう、このひとは。

 私の焦りように気づいたのか、綿谷さんも慌てて言葉をつけ足した。


「…水族館が、ね…!!」

「あ、…ああ…、そういう、こと、…、」


 …びっくり、した。

 そんなこと、なにをどう間違えたってありえない、って、わかってるのに。

 一瞬でも、心臓が跳ねた。…馬鹿みたい。


「ってことで、週末空いてる?」

「え、」

「俺は、みなみちゃんと行きたい。」

「…っ、ちょっ、と、考えさせて、…、」


 ください、は、尻すぼみになりすぎて綿谷さんに聞こえたかわからない。

 …顔、熱い。

 そしてなにが、“ってこと”、なのか、まったくわからない。


 やっぱり綿谷さんのこと、ぜんぜんわからない。


「前向きにね。」


 綿谷さんにはそう念を押されてしまったけれど、お断りしよう。

 …もし万が一、社内の誰かに見られでもしたら。

 数多くの女性社員を敵に回す勇気は、私にはない。


 これ以上綿谷さんに対して申し訳ないと思うことも、嫌だった。

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Cotton Candy. 羽澄 蓮 @hasumi_

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