7 雨が降る川沿いで



「はあ……はあ……」


 ――――――私は気づけば、市内中心部まで走って来ていた。今にも振り出しそうな空は、まるで私の曇った心を表しているようだ。

 涙でぐしょぐしょになった私の顔を見た通行人は、皆ぎょっとして振り返る。なるべく人のいない方へ走った結果、市街地から河川敷に入る。


「どうして……」


 真っ赤な血が吹き飛ぶ光景が、脳裏に焼き付いて消えない。

 人が、目の前で死んだのだ。

 ぐちゃぐちゃな感情だ。悲しいし、怒りもある。だが、最も感じるのは恐怖だ。納戸さんは生真面目で誠実な人だと思っていた。そんな人が、あんなに憎悪をむき出しにして、残酷に人を殺した。その事実が最も怖い。


 ――――――橙朧人ダウナーは即時抹殺しなければならない。


 危険。

 危険?

 だから、殺す? だからって殺すのか。

 わからない。わからない――――――。


「……」


 私は人気のない鴨川沿いを歩き続け、やがて橋の下でしゃがみ込んだ。

 ――――――雨が降り始める。


 ダウナー。その言葉の意味を考えてみる。

 周囲の人間にも伝播する。死体を見たから、あの男の人は橙朧人ダウナーになってしまったのだろうか。


「だからって……あんな残酷に……ッ」


 また、私の目に涙が浮かんできた。

 普通に生きてきたつもりだった。普通に生活をして、普通を夢見た。なのに、突然想術師にならされて、その上人を殺す仕事に就けと――――――ふざけている。

 どうしてこんなことに。私が何かしたというのだろうか。

 どうして、神様。

 教えてよ。私は何か悪いことをしたの?


 私の心が慟哭した。その時ふと、温かい光が脳裏をよぎる。人の温かさを信じ、人々に愛され、信頼される存在――――――そうだ私は、人を信じていたんだ。


「……杜若さん?」


 その時私の前に現れたのは、化野あだしの先輩だった。先輩は片手に傘を持ち、堤防の上から私を呼んだ。


「偶然だね。今日は仕事じゃなかったの?」

「せん、ぱい……」


 いつも通り、変わらぬ優し気な笑顔だった。疲弊していた私は、その笑顔に縋ろうとしつつ、心のどこかで先輩ですら疑っていた。

 

「先輩は……人殺しじゃないですよね」

「えっ」

「もう、何が何だかわからないんです。意味が、わからない。誰も信じられないんです」

「もしかして、新しい職場のこと?」

「人を殺せって言われました。目の前で人が死にました。そんな、こと……!!」

「……そう」


 すると、先輩は私を優しく抱きしめた。それが私の気持ちをゆっくりと落ち着かせていく。


「ならさ、もし僕が人殺しだったとしたら、君は僕を裁いてくれるかい?」

「えっ」

「ごめん。言い方が悪いね。もし僕が悪いことをしていて、それがどうしようもなく悪であり、許されないことをしていたのだとしたら。どうかな?」


 先輩は私の肩をつかみ、目をじっと見つめて問いかける。それがどうしようもなく綺麗で、心の奥底まで突き抜けるようで――――――私は目を見開いた。


「大丈夫。恐れなくてもいい。君は言った。『正直に生きていきたい』と。それが君の信念だとしたら。わかるはずだ」

「私は……」

「僕は、君の考えを尊重する」


 ――――――そうだ。

 私は自分に嘘を吐いて生きたくはない。だから、納戸さんが人を殺した時に受け入れられなかったのだ。受け入れられなかったから逃げ出したのだ。

 また逃げるのか。また見て見ぬふりをするのか。

 そう、問いかけられている気がして――――――。


「……逃げたくない」


 私の人生は常に逃げ出してきた。何かに裏切られ、翻弄されるたびに自分に言い訳をしてきた。でも、それはもう止めると誓ったのだ。


「……すいません。こんな姿見せちゃって」

「いいんだ。気にしないで。こんなところで会うんだから、何か運命めいたものを感じるしね。解決できそう?」

「もう一回……もう一回体当たりしてみます。納得できるまで」

「うん。応援しているよ」


 先輩は優しく笑うと、持っていた傘を私に差し出してくれた。

 私は、咄嗟に傘を返す。


「持って行って。僕はただ、気まぐれに時間給を取って散歩してただけだから。早く行った方がいいだろう」

「いや、濡れていきます」

「ふふ、そうかい。わかったよ」


 もう少しちゃんと知りたい。橙朧人ダウナーや想術犯罪対策課のことを。自分の思いをぶつけよう。ダメだと思ったことは素直に言おう。もう少し、足掻いてみよう――――――私は橋の下から飛び出そうと一歩踏み出す。


 だがその時、視界がぐにゃりと大きく曲がった――――――。


「え……」


 私は思わず先輩の方を見る。先輩は優しい笑顔のまま、私に手を伸ばし――――――。


 手をつかもうとしたところで、意識がぷつりと途切れた。


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