5、挫折と先生と「赤の女王」

 こうして初めての応募を終えた私は、すっかりいい気分で2作目の執筆にとりかかっていた。


 気分の上ではすっかり受賞したつもりでいたとはいえ、いくらおめでたい私の頭でも一作書いて終わりではないことくらいはわかっていた。

 まあそれは当然のことではあって、何かキリストがもう一回復活するくらいの奇跡が起きて「孤高のヤモリ」が受賞したとしても、その先結局次々と書かなければならないのだ。

 そういう意味では舞い上がってはいても現実も見えていたと言えるかもしれない。


 そして何より、「コツコツとやることが苦手な自分でも完成させることができるんだ」という思いは、私の人生の中で強烈な自身になったように思う。

 だからこそすぐに次の作品に取り掛かるモチベーションも生まれたし、夜の時間を執筆に充てるという習慣もできたし、なんならダイエットのために毎日ちょっとした運動をするということまで、「毎日やること」の自信がついた私には出来てしまったのである。


 ……書いていて思ったが、これって本当は全国の小中学生が身に着けているべきものだな。つまり世の中の人間が10歳かそこらで身に着けられる習慣を、この麻根という男は実に35年もかけてようやく会得したわけだ。

 

 書いてて情けなくなってきた。

 閑話休題。2作目を書き始めたという話だった。


 前作で叙述トリックという変化球からスタートしてしまった私としては、次は本格ミステリに挑戦したいと考えた。

 そこでふと思いついたのが、学生時代に授業中に思いついたネタ「赤の女王の殺人」であった。


 私は学生時代、進化生物学を専攻しており、この学問においては「赤の女王仮説」という単語が時折出てくる。

 これは生物の進化における相互作用を現したもので、「他の種も進化し続ける中で、同じ生態学的地位を守るためには、その種も進化し続けなければならない」というような意味合いであり、ご存じ「鏡の国のアリス」に出てくる赤の女王に由来する名前だ。


 まだ中学二年生の魂が抜けきっていなかった当時の私は、この単語に強く惹かれた。

「赤の女王仮説」。なんてかっこいい響きなんだ。

 ちなみに生物学関連でいくと、「セントラルドグマ」の次くらいにかっこいい単語だと今も信じている。ああまた話が逸れた。


 それで大学生当時の私は、授業中にこの「赤の女王仮説」にヒントを得た、ミステリのトリックを思いついていたのだ。

 その頃はまだ自分でミステリを書こうなどという気力も根性もきっかけも何一つなかったから、そのアイデアは私の頭の片隅にずっとくすぶり続けていたのだが、それが10年の時を経て蘇ったのである。


 私は早速そのトリックを組み込んだ作品のプロットを作り始めた。今度の作品も絶好調で、休むことなく毎晩のように仕事と家事と育児で疲れた身体に鞭打ちながらもパソコンへと向かった。

 そして順調に書き進め、3ヵ月かそこらで初稿を書き上げたのである。

 ……随分と端折ったな、とお思いだろうが、執筆中は特筆すべきことがないのだからしょうがない。

 強いて語るなら、書きながら「こいつでどーんと売れて専業作家への道まっしぐらだぜ」などと、相も変わらず捕らぬ狸の生皮を30頭分ほどひっぺがしまくっていたことくらいだ。


 さて、そうして書き上げた「赤の女王の殺人」だが、これまたよく書けているのかどうかなんともわからない。

 やはりまた誰かに読んでもらわないと、と思い悩んでいたときに、突然私の脳内に閃きが走った。


 そうだ。私の身近に、もうひとりプロ作家がいるではないか。

 それも児童文学作家だった祖母とは異なり、本格も本格、乱歩賞をとったミステリ作家である。


 その人はE先生といって、私の地元に在住の作家だった。

 別段面識があったわけではない。ただ、とある事情から(ここは一応ぼかしておくが――もちろんやましい事情ではない)連絡先を知ることができたため、容易にコンタクトをとることができるのである。


 思い立った私は早速実行に移すことにした。

 E先生の連絡先をスマホに打ち込み、発信ボタンをタップする。

 しばらくのコール音の後、果たして電話は繋がった。


「あ、あのですね! 突然すみませんが、E先生はご在宅ですか」

「ああ、はい。お待ちくださいね」


 電話に出たのはE先生のご家族らしかった。暫く待って電話口にはご本人が出た。

 私はいかにE先生を尊敬していて、どのようにして連絡先を知ったのかをまくし立てた。そして、作品を読んでもらえないだろうか、と頼み込んだ。

 まったく、E先生にしてみれば迷惑もいいところだっただろう。夕飯時に突然知らん男から素人小説を読めと言われるのだ。しかもなんかちょっと断りづらい雰囲気を出していやがる。


 果たせるかな、E先生は困った顔ひとつせず(電話口なので想像でしかないのだが)、私の頼みを快諾してくれた。

 こうして私は2人目のプロ作家に作品を見てもらうという栄誉に預かることとなった。

 はっきりいって、これがなければ受賞にも結び付いていないわけで、ちょっとどころではなく強引だった当時の私の行動力を、今なら「よくやった」と褒めてやりたい気分である。


 データを入れたCDを渡したときに、「どのくらいの分量?」と聞かれ、「20万字ほどの長編が2本、あと短編が1本です!」と答えた時の、E先生の引き攣った笑顔は忘れられない。

 そう、私は「ヤモリ」と「赤の女王」、更に赤の女王を書き上げた後にちょっとした思い付きを形にした短編まで、持てる全てをE先生に押し付けたのだ。


 まったく、どういう神経をしてるんだろうな。

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