初犯 木之下 楓
1、
今夜という日がついに来てしまった。鏡の前で一呼吸をして、洗口液を口に含みブレスケアをした。ピンク色の液体を吐き出すと、夕飯に食べた胡麻粒が排水口の方へと流れていった。再び顔を上げる。髪も髭もバッチリと整えられている。鏡の前にいるのは誰でもない。ベランダの怪人だ。今日、ついに犯行に及ぶ。口元をタオルで拭うと、そのまま顔をゴシゴシと
木之下 楓、23歳、Aカップ。○○銀行に勤める2年目の会社員。血液型はA型で几帳面。都市部から少し外れた地域で一人暮らし。真面目な彼女は盗難およびその他犯罪の対策で、ベランダに女性らしい私物は置かないようにしている。不動産屋の物件情報では浴室乾燥はできない部屋で間違いないため、乾燥機もしくはワンルームのリビングで乾かしている。下着はこの間取りだと脱衣所だな。クローゼットを設けるにはちょうどいい空間が洗濯機の向かいにあるためだ。間違いないだろう。
2、
結局、時刻は20時を過ぎたというのに、ヤツは現れなかった。どうやら、ただのイタズラだったらしい。京極はカップヌードルの容器を潰して、車内のビニール袋に詰めた。
「犯人来なかったっすね」
「ああ、イタズラでよかったよ」
さて、今日は疲れてしまった。報告書は家で書くとして、早いところ谷口を家に帰してしまおう。シートベルトを締めて、サイドブレーキを下ろした。ゆっくりと右足を踏み込んでアクセルを稼働する。真冬達を乗せた車は住宅街を抜けて、都心部に向かう県道に差し掛かった。
「何だったんすかね。どうして、犯人は予告状なんて送ったんでしょう」と谷口が口を開いた。車内のラジオで若手のお笑い芸人が可も不可もないトークを繰り広げている。真冬はラジオの音を下げて谷口との会話に集中した。
「ただの嫌がらせでしょ。元恋人かタチの悪いストーカーじゃないの?」
「たしかに、その線だと辻褄が合いますし、納得のいく終わり方っす。僕らも被害者もそれを望んでいる。でも、僕は何かが引っ掛かるんすよね」
「若手のくせに刑事の勘とでも言う?」
「そんな大袈裟なものじゃないっすよ。少し考えてみたんです。犯人はどうして午後8時を指定したのかと」
「午後8時だと何かおかしい?」
「普通に考えてみてください。下着を盗むなら普通は人が家にいない昼時を狙いますよね。けれど、犯人は時間を夜に指定した。変じゃないですか?」
「ただのイタズラだ。そんなことも考えてないのだろう」
「まあまだ、変なところはあります。それは水曜日の夜だということです。真冬さんも一人暮らしなら分かると思いますが、よっぽど疲れた日ではない限り、3日間溜め込んだ洗濯物を処理したいのは間違いなく水曜日のはずなんです。それ以上貯めてしまうと、後々たいへんになりますからね。几帳面な木之下さんなら、なおさら水曜日に洗濯を済ませるはずです」
「水曜日は洗濯物をちょうど干しているから、狙いどきなんじゃないのか?」
「本当にそうですか?まだ乾いていない干したての洗濯物ですし、他の家の住人や木之下さん自身とベランダで鉢合う可能性だってあり得ますよね」
「じゃあ、犯人にとって最も都合の悪い日ということになるな」
「そうなんです。どうせ犯行をするなら木曜のお昼とかがちょうど良いはずなんです」
「じゃあ、何で犯人はその時間を指定したんだ?」
「それは...わかりません」
再び車内は芸人のラジオの声だけが響いた。たしかに、谷口の推理は良いところまでいっている。ただ、どうして犯人がその時間を指定したのか。そこが分からないのだ。頭を抱えたパトカーの無線に着信が届いた。谷口がそれに応える。
「はい。谷口です」
「お前ら!被害者の下着が盗まれた!至急、ストロベリーホテルへ迎え!」
真冬はウィンカーを急遽右に出し、次の曲がり角を右折した。車内で2人は狼狽していた。たしかに、自分たちが見張っていた家には誰も訪れなかった。では、どうして被害者の下着が盗まれているのだ。窓を開けて外の空気を吸い込む。そうして、怪盗シークレットの本当の目的をやっと分かった。真冬も谷口もヤツのことを舐めていたのだ。
3、
犯人の本当の目的はホテルに泊まっていた彼女の方だった。真冬は木之下がホテルに逃げたことで安心しきっていたのだ。あの予告状は脅しであり、囮だったのだ。下着を盗むから彼女に危害が加わるかもしれないという恐怖心を煽ることによって、彼女を家から追い出す作戦と警察の視線を自宅に集中させるための罠だったのだ。そして、まんまとその場の全員が引っ掛かってしまった。犯人が水曜日の夜を指定したのは、おそらく月曜日から宿泊を開始した彼女がちょうど洗濯を始める周期になるように調整したからだ。ホテルのコインランドリーだと費用が高くなってしまうため、洗濯物を貯めるのは至極当然。それに加えて、ホテルにはきれいなシャツを普通は持っていくはずだから、逆算すると洗濯する周期がすごく分かりやすい。あとは犯人も同じホテルに泊まって乾燥機が終わる時間を待てば、セキュリティーの甘い中で下着を簡単に盗むことができるのだ。
「ランドリーの防犯カメラや宿泊者の情報を教えてください!」と谷口がフロントに向けて怒鳴っている。最近は激務で寝不足なこともあり、むしゃくしゃしているようだ。
「落ち着け谷口。防犯カメラがあればすぐにでも提供してくれているだろう。それに、300人以上が泊まっているこのホテルで1人1人確認をとるには時間がなさすぎる。下着なんて、コンビニにでも足を運んで自宅に郵送すれば、もう足はつかないのだからな。今回は私たちの完敗だ」
谷口は納得したのか、下を向いて小さく頷いた。これから、木之下さんの部屋に行って、説明をしなければならない。重い足取りでエレベーターに乗って、彼女の部屋に行った。木之下さんは館内着を身につけたまま、真冬達を部屋に入れた。重い空気の中、谷口が口を開く。
「ヤツはとんでもないものを盗んでいきました」
「え...?」
「あなたの下着です」
「...はい?」
今夜、あなたの下着を盗みます。 古澤 @furusawa38383
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