第6話 許さない

 とんとんとん、と軽やかに包丁の音が響く。それに旨そうな出汁の香りと魚の匂い。今日の朝飯はメザシか。


「……なんだかなあ」


 座布団にあぐらをかいて、けいはぼやいた。目の前のちゃぶ台は空だが、間もなく晴真はるまが朝食を運んでくるだろう。喜之助きのすけも所在なげにつぶやく。


「奥さんもらった気分だよ、俺」

「あれは男だけどな」

「しかも旦那が二人だ」

「――え、俺も旦那?」


 慧はため息をついた。笑えない。


 晴真を連れて官舎に移り数日、いまだ怪異の情報はない。

 横濱は急激に大きくなった町だ。人にも野山にも無理がかかった土地柄なのでそこそこ特殊方技部の出番はあるのだが、毎日そんなことが起こるわけじゃないのだった。


 なので暇を持てあました晴真は、ごく普通に家事をやり始めていた。

 祖父との二人暮らしで身に着いた技を発揮して作ってくれる食事は美味しい。そして何より手際がよく、横から手が出せない。

 そんなわけで慧と喜之助は大人しく朝食を待つはめになっていた。布団を片付け軽く掃除をしても、こっちの方が楽なのはどうしようもない。


「こうなりゃ朝練でもしようぜ」

「やめとけ喜之助。あがろうとしたら晴真が手拭いとたらいを抱えて寄ってくるぞ」

「……手間をかけさせるだけか」


 そういうところに気が回る少年なのだった。

 いちおう客分の晴真に負担をかけるのもためらわれ、慧はじりじりしている。本音を言えばあんな奴こき使ってもいいと思うが、常識を動員し我慢していた。早くこの仕事が終わってほしい。


「――はあい、お待たせしました」

「あ、おひつは俺が」


 お盆におかずを載せてくる晴真。持ちきれなかったを取りに喜之助が台所に飛んでいく。出遅れた慧も、お盆から箸と茶碗をおろすぐらいはした。飯をよそってもらい、三人そろって手を合わせる。


「いただきます!」


 元気な挨拶で始まるのは奇妙な食卓だった。軍服二人。かっぽう着の神職一人。

 普通にしていると少年としか思えなくなってきた晴真だが、かっぽう着のせいで妙に女らしい。手料理が口に合うかといちいち反応をうかがって小首をかしげるのも愛らしく見えて、慧は反応に困った。これじゃ本当に新妻みたいじゃないか。

 だいたいこんな、家族そろって囲む、みたいな食卓が慧にはなじみがない。

 拾ってくれたは慧を気にかけてくれていたが、いかんせん忙しい人だった。慧は血筋をおそれてよそよそしい芳川家の使用人に世話されて育ったのだ。


「なあなあ、今日も暇なら出掛けないか?」


 おそらく普通に育ったのだろう喜之助はこの状況にもひるまない。せっかく横濱に滞在しているなら満喫するべきだと主張した。


「どこに行くんだよ?」

「そうだな、伊勢崎町いせざきちょうあたりはどうよ。芝居小屋がいくつもあるぜ。勇座いさみざ賑座にぎわいざ蔦座つたざ

「わ、お芝居なんて見たことないな僕」

「そうか! じゃあ俺がおごってやるぞ」

「ほんとですか!」


 何故かもう行くことになっている。そういう遊びにあまり興味がない慧は嫌な顔をした。留守番というわけにはいかないだろうか。

 その表情に気づいた喜之助は、まあまあ、と慧の肩を叩いた。


「その後、もう少し先まで行くか? 大人の遊び場もちゃんとあるのよ、この横濱は」

「――別に、いらん」


 喜之助が匂わせたのは、つまり女を買う場所のことだろう。横濵には開港と同時に遊郭も造られている。


「おまえ女っ気ないからな。心配してるんだぞ」


 相棒の気づかいは嬉しい。だが本当に、女などいらないと慧は思っているのだった。

 自分にそういう欲がないとは言わないが、女とそうなれば、あるいは嫁を取れば、いずれ子ができるかもしれない。わけのわからぬ山神の血を受け継ぐ子が。それがいとわしくてならない。

 だがそんなこと軽々しく口にはできなかった。慧は話を相棒に戻してごまかした。


「喜之助だって、さっさと嫁もらえ」

「欲しいよ! でも来ないのよ! こんな怪しい仕事のせいかなあ」


 怪しいといえば怪しい。怪しいモノを退治する側だが、はたから見れば同類だ。


「え、お嫁さん来ませんか。稼げるんでしょ?」


 晴真はきょとんとした。半妖の少年としては怪異など慣れたものなので、それよりも貧乏の方が怖いのだった。板戸が壊れ気味の社務所兼・家に暮らしていたのだから、そうもなる。


「そこそこはねー。だけど女性からしてみれば、夫が怨霊を追っかけてるって怖いと思うよ」

「ああ……そうかもしれないです」

「晴真くんが晴子ちゃんだったら、俺の嫁にしてもよかったのに」

「怒りますよー」


 数日で晴真はすっかり打ちとけていて、軽口にけらけらと笑って食器を下げようとする。そのお盆を奪い取った慧は、さっさと台所に運んだ。

 ついてきた晴真が布巾を絞りながら慧を見上げた。晴真の頭頂は慧の目の辺り。何寸か10cmほど身長が違う。


「……何だ」

「ううん」


 水を張ったたらいに食器を浸ける。横で布巾をパンと広げた晴真の腕は細いが、よく見れば手首も指も骨ばっていて、ちゃんと男だった。


「……慧は、子どもが欲しくないんだ?」


 不意に訊かれた。言い当てられて息を呑む慧を見上げてくる瞳は、少し寂しげ。


「変なこと言ってごめん。だけどさ、僕に子どもができたらって考えたことはあるから。その子も狐の――迷うじゃない、そんなの」


 意外な告白だった。母狐を恋しがるくらいだから自分の血には誇りを持っているのかと思っていた晴真が、血をつなぐことをためらうのか。慧は真っ直ぐに晴真を見ていられなくなり、目をそらした。

 こんなことで同調する相手など初めてだ。だが、こんなことで心を近づけたって何だというのだろう。傷を舐めあうなど、情けない。


「――俺は迷ってない」


 ことさらに言い切ってみせた。


「そう――なの?」

「ああ。俺はこの血を許さない。俺が特殊方技部にいるのは、父親を殺すためだ」


 立ち尽くす晴真の手から布巾を奪って、慧は台所を出た。

 何故こんなことを会って数日の晴真に告げてしまったのか。ちゃぶ台を拭きながら慧は自己嫌悪におちいる。

 この決意を知るのはおそらく芳川の爺さまだけ。それも幼い日に泣きわめきながら言ってしまった時のことだ。誰にも言うつもりはなかったのに。


「――おい!」


 玄関からバタバタと喜之助が走って来た。手に書き付けを持っている。台所にいる間に来訪があったのか。慧は気づかなかった自分を恥じた。


「どうした」

「たぶん怨霊だ。通報があったってよ」


 ――ようやく、晴真の実力を目にする時がきたようだった。 

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