第75話
「うーん……酔った……」
氷見さんが俺の隣で電車の吊り革に掴まり呟く。
金曜日、というか時計を見ると既に日付は回って曜日は土曜日。
いつものように夜中まで飲んだくれた俺と氷見さんは電車で二人、フラフラしながら吊り革に掴まって立っていた。
居酒屋の最寄り駅から一駅。電車が止まると終電目当ての仕事帰りの人や飲み会帰りの酔っ払いが次々と乗り込んでくる。
「……ったく……こんなんだから日本はダメになるんだ!」
独り言にしてはやけに大きなボリュームで話しているおじさんが車内に乗り込んできて、氷見さんの隣に立った。
何やらやばい雰囲気を感じ取り、氷見さんの腰に手を添えてそれとなく俺の反対側に誘導し、おじさんとの間に入る。
氷見さんも意図を理解したように、小声で「ありがと」と言って俺の陰に身を潜めた。
氷見さんがスマートフォンを持って俺にメッセージを送ってくる。
『ありがと。そういうとこ、いいよね』
『さすがに心配だから……』
『あのおじさん酔ってるのかな? なにか間違って砺波さんにキスしてこないかな?』
『不本意ながら変わっておいてよかったよ!?』
『え? おじさんとキスしたいの?』
「違うよ!?」
隣を見て訂正すると氷見さんがニヤニヤしながら俺を見ていた。氷見さんの視線はすぐにまたスマートフォンに戻る。
『いま、私たちがここでキスしたら目の前の人はどう思うんだろうね。どんな顔をするんだろ』
『案外誰も見てないと思うよ』
『ま、そうだよね。電車で人を見るときって大声を上げたときか吐いたときくらいだもんね』
「あぁん? お前、あれだろ!? 画家の女だろ!?」
隣にいた変なおじさんが氷見さんを見て大声をあげた。
当然、視線は氷見さんではなくおじさんに集まる。はからずも氷見さんの『大声をあげた人を見る』理論が証明されてしまった。
「あ、はい」
氷見さんは真顔で答える。普段から真顔なのだが明らかに警戒心が前に出ていて、なんだかんだで普段は警戒心を解いた柔らかい雰囲気なのだと思い知らされる。
「ヒミだがヒミコだか知らねぇけどよぉ〜若いってだけでチヤホヤされやがってよ〜」
俺を挟んでうざ絡みされているが、ここで氷見さんの盾になると周囲の人にも目立ちすぎてしまうので、なるべく穏便に、氷見さんと交流があるとバレずにかわしたいところ。
氷見さんは確か『大声を出す人』と『吐いている人』に視線が集まると言っていた。
「うっ……ゔぇぇ……は、ばきそ……飲み過ぎたぁ……」
俺は精一杯喉を鳴らしてえずきながらその場にしゃがみ込む。
うざ絡みしていたおじさんの方に顔を向けたため、おじさんは「汚ぇな!」と言いながら別の車両に逃げていった。
下を向いているので詳細は分からないが、徐々に視界に入る人の足が減っているので、やりすぎたのかもしれない。
『次は〜xx〜xx〜』
氷見さんの最寄り駅に到着するアナウンスが入る。
俺は立ち上がってドアの前に立ち、誰からの視線も気にせずに外だけを見続ける。
電車が加速を緩め始めたタイミングで、すぐ隣に氷見さんがやってきて外を一緒に眺め始めた。
「吐いた?」
周りに聞こえないくらいの声で氷見さんが尋ねてくる。
「吐いてない」
「ならよし。後一駅、一人で耐えられそ?」
「今日は一緒に降りてもいいかな?」
「仕方ないなぁ」
氷見さんが隣で微笑む。
電車が止まると、誰よりも先に2人で降りて早足で改札に向かう。
改札を出たところで氷見さんは安心したように「ふぅ」と息を吐いた。
「ありがとね、砺波さん」
「何もしてないよ。ただ吐きそうになっただけだから」
氷見さんは「ふふっ」と笑う。
「もし私がさっき、電車で視線を集める人の特徴に『ディープキスしてる人』って言ってたらおじさんとしてたの?」
「だからしないよ!? なんでおじさんとキスさせたがるの!?」
氷見さんが距離を詰めてじっと俺を見てくる。
「じゃ、私? 隣にいたのはおじさんと、私。2択だよ。どっちにする?」
「その2択なら氷見さんだけどそもそもの趣旨は氷見さんに注目を集めたくないからあんなことをしてたんだよね」
「じゃ、逆効果か」
氷見さんはぽん、と手を叩いて頷く。
「そういうこと」
「ま、そうだよね。電車の中でイチャイチャしてるほど見苦しいものはないよね」
氷見さんはそう言って歩きながら俺のポケットに手を突っ込んでくる。
冬も近づいてきているため、深夜はそれなりに寒い。
「イチャイチャするなら帰り道に限るよね? 砺波さん」
「これは入らないけどね」
「わ、過激派だ」
「そういうことじゃないよ!?」
氷見さんは笑いながら「わかってるよ」と言い、自宅の方に向かって歩き始める。
「砺波さん、帰り道こっちだよね?」
氷見さんは俺の家に向かう方向とは違うと知っていて、自宅に向かう道を指さした。
「そうだよ、そっち」
「砺波さんらしくないよ。『そっちは氷見さんの家だよ』って言うところなのに」
「あ、そっか……」
素直に受け入れると氷見さんはまたふふっと笑った。
「そういうとこ、本当にいいんだよねぇ」
ポケットに突っ込んだまま歩くので、少し歩きづらそうにしながら氷見さんがそう言った。
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