第74話

 金曜日の夜、会社を出ていつもの居酒屋に向かっているとドラキュラやバニーガールとすれ違う。


 不思議に思いながら入店すると氷見さんが先に来て待っていた。


「氷見さん、お待たせ」


「砺波さん、やっほ」


「氷見さん見た? ここ来るときさ、外にドラキュラとかバニーガールがいっぱいいたよ」


 氷見さんの隣でジャケットを脱ぎながら、店に来るまでにあったことを伝える。


「え? そうなの? 砺波さん、異世界転生したんじゃない?」


「じゃあここは……」


 氷見さんはニヤリと笑って「異世界」と言う。


「まじか……」


「ま、ある意味では異世界だよね。ハロウィンだし。私にとって、陽キャの嗜みは異世界の文化くらい遠いものだよ」


 氷見さんが黒部の方を見る。よく見ると黒部も猫耳をつけていた。氷見さんは「小さいハロウィン、見つけたよ」と保育園児が秋を見つけた時のようなことを言う。


「ハロウィンなの? 今日は31日じゃないよね……?」


「31日に近い金曜日だよ」


「けど今日がハロウィンなんだ……」


「砺波さん、そんな厳密にハロウィンを定義したって仕方ないよ。外いるドラキュラもバニーガールも何も考えてないんだから。何も考えてない人だけが、ただハロウィンの日に近い金曜日ってだけの理由で仮装して飲み屋街に繰り出すような真似ができるんだよ」


 氷見さんがニヒルな笑みを浮かべて言い放つ。


「しっ、辛辣ぅ……」


「ま、この辺はそうでもないんじゃないの? 渋谷とか新宿とか、あっちの方がヤバそうだけど」


「あー……確かに」


「せっかくだし私達もコスプレしてみる?」


「なっ、何の?」


「うーん……あ、砺波さん。ネクタイ持ってる?」


「あるよ」


 カバンからネクタイを取り出して氷見さんに手渡す。すると、氷見さんは「かかんで」と俺に指示をしてきた。


 言われた通りにかがむと、氷見さんが俺の頭にネクタイを巻き始めた。


「何してるの?」


「酔っ払いのコスプレ」


 氷見さんはそう言うと俺のワイシャツのボタンを胸元まで開けてくる。服を脱がされているようで妙にドギマギしてしまう。


「はい、できた」


 氷見さんが笑いながら俺の写真を撮り見せてくる。


 頭にネクタイを巻き、ワイシャツのボタンを胸元まで開けて、戸惑った顔をしている変人の写真だ。


「か、顔がまだ出来上がってないかな」


「じゃ、もっと飲まないと」


 氷見さんはニヤリと笑い、運ばれてきた俺のグラスにビールを並々と注いでくる。


「あ……ありがと……」


 泡が溢れないように慌ててグラスに口をつける。


「あ、私も仮装しようかな」


「何かあるの?」


 氷見さんは「道具はいらないよ」と言い、着ていた服の首周りを引っ張って肩に引っ掛けた。緩めの服なので簡単に肩が露出する。


「なっ……何してるの!?」


「ガードがゆるい女の子のコスプレ」


「もはや細かすぎて伝わらないモノマネだよ……」


「ま、私もハロウィンなんて今日来る途中で気づいたくらいだしさ。いやぁ……来る前から分かってたらピンクの全身タイツで来たんだけどなぁ」


「体張りすぎでしょ!?」


 俺が本気で受け取ると氷見さんが笑いながら「ウソウソ」と言って俺の背中を叩いてくる。


 多分、今日は氷見さんとの酔い方にまだ差があってテンションについていけてないんだろう。


「じゃ、今日は俺が酔っ払いサラリーマンと……なんだっけ。ガードの緩い女の子?」


「うん。もうネタは尽きた」


 氷見さんが肩の部分を元に戻しながらそう言う。


「俺も他には――」


 ふと視線を落とすと、2つの円形の蓋が目についた。


 それを手にして、文字通り目につける。というか上下のまぶたに力を入れて落ちないように固定する。


「……何それ?」


 氷見さんの冷たい声が聞こえる。


「……バトー……のつもり」


「攻殻?」


 コクリと頷くと氷見さんが「ぶふっ!」と勢いよく吹き出した。


「ふっ……ふはっ……それだめ……本当だ……ひっ、ひひっ……ふふふっ……」


 目から蓋を外して氷見さんの方を見る。


 氷見さんはその場でしゃがみ込んで笑っていた。


「となっ……砺波さんそれ反則……」


「これでそんなにツボに入るんだ……」


 年相応のツボではない気がするけれど、これも氷見さんの個性ということにしておく。


 氷見さんはお腹を押さえつつ、カウンターに捕まって立ち上がる。


 目に溜まった涙を拭いながら、氷見さんが俺の方を向いた。


「砺波さん、それで街に繰り出そうよ。ハロウィンなんだから」


「氷見さんは何するの?」


「ガードの緩い女の子。砺波さんはバトー」


「もう少しキャラ合わせない!?」


「じゃ、ガードの緩い男――いや、それ砺波さん本人だ」


 氷見さんが納得したように頷いてそう言う。


「そうなの!?」


 氷見さんは「だってさ」と言いながら、自然な動作で俺の懐に入ってきて上目遣いで見てきた。


「ほら。簡単に侵入できた。ガードゆるゆるじゃん」


「そっ……それは氷見さんだから……」


 俺の返事を聞いた氷見さんは嬉しそうに「ふふっ」と笑う。


「へぇ……そうなんだ? 他の人には固いの?」


「そりゃもう。カチカチだよ」


「ギンギンじゃなくて?」


「何言ってるの!?」


 唐突な下ネタに狼狽える俺を見て氷見さんが楽しそうに手を叩いて笑いながら離れていく。


「あー、ダメだ。今日はだいぶ酔ったね。ガードも緩くなっちゃうなぁ」


 わざとらしくそう言った氷見さんが服の胸元を何度も指で引っ張る。


「服、伸びちゃうよ」


 氷見さんは唇を尖らせながらも「はぁい」と素直に言うことを聞いて胸元を引っ張る動作を止めた。


「今さ、『氷見さん、暑いの?』って言うかと思った。ガードの緩い男を憑依させると砺波さんの思考をトレースしてる気分になるんだよね」


「ガードの緩い男のコスプレが内面から仕上がってきてるね!?」


「うーん……ガードの緩い男、『ガーゆるおとこ』は次に何を言うのかな……」


 氷見さんはニヤニヤしながらあごに手を当てて考え込む。


「狼男っぽく言ってるけどかなり遠いよ……」


 適当に流すと氷見さんはまた距離を詰めて俺の懐に入ってきた。


「また断られなかった」


「ま……断る理由もないし」


 氷見さんは「ふーん」と気の抜けた返事をするとそのまま俺に体重をかけながら酒を飲む。


「砺波さん、ゆるゆるだね」


 氷見さんが俺にもたれ掛かったまま呟く。


「カチカチだよ」


「ギンギン?」


「イライラ」


 冗談めかしてそう言うと氷見さんが俺から離れようとする。その時、隣の人が自分のスマートフォンを床に落とした。氷見さんが踏みつけそうになったので、慌てて抱き寄せる。


「怒られる前に逃げよ――わっ!」


 氷見さんが驚きながら、至近距離で見上げてくる。


「と、砺波さん……これは……ガーゆる男が狼男になる瞬間だったりする?」


「あ……ううん。スマホ、踏みそうになってたから」


 隣の人が「すみませ〜ん」と言いながらスマートフォンを拾い、氷見さんも何があったのか理解したらしい。


 顔を赤くした氷見さんは「ガーゆる男の思考は読めない」とだけ言い、そのまま身体を預けてまた酒を飲み始めたのだった。

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