第73話

 金曜日の夜、氷見さんが来店する。


 いつものように右隣にやってきて、にっと笑って「やっほ」と挨拶をしてきた。


「こんばんは、氷見さん」


「や、今日もいつも通りの砺波さんだね」


「そりゃね……」


 ちょっとだけ会話をするとすぐに俺達のところへ黒部が寄ってきた。


 黒部が氷見さんに向かって手を合わせて頭を下げる。


「氷見ちゃん! ごめん! 今日グァバジュースない!」


 その言葉を聞いた氷見さんは絶望した表情で固まる。唇を震わせて「なん……だと……」と言葉を絞り出した。


「ごめんね……なんか団体さんがノリで頼んだらハマっちゃったみたいで」


 黒部がちらっと見たテーブル席には男性八人組がおり、そのテーブルにはグァバジュースのグラスが置かれていた。恐らくあの人数でおかわりをされたら、脆弱な在庫しか抱えていないグァバジュースはすぐに枯渇してしまうんだろう。


 氷見さんはその人達を見てふふっと笑う。


「同好の士が増えるのはいいこと」


「ごめんねぇ……サービスしとくからさ。おすすめは生搾りレモンサワーだから!」


「あ、はい。メニュー見てみます」


 ここでおすすめをお願いしますと言わないあたりが氷見さん。


 俺がスッと飲み物メニューを開いて氷見さんの前に出すと「んー……」とグァバジュースの事をずっと頭を片隅に置いたままのように悩みながら選び始めた。


 ◆


 数分後、氷見さんはレモン搾り器に半分にカットされたレモンをゴリゴリと押し当てて果汁絞っていた。


「ね、砺波さん」


「何?」


「このお皿ってレモンを搾るためだけに作られたんだよね。どう思ってるんだろうね、その辺さ」


「レモン搾り用のお皿の存在価値を貶めようとしてる!?」


「ふふっ……そんなことないよ。あ、もういいかな」


 氷見さんがレモンを取り外し、果肉混じりの果汁から丁寧に種を取り出す。


 おしぼりで手を拭いた後、氷見さんはスンスンと自分の手の匂いを嗅いだ。


 そして、その手を俺の鼻に押し当ててくる。レモンとしか言いようがないくらいにレモンの香りがする。


「レモンくさい」


「うん、レモンくさいね」


「けど、レモンだから悪い気はしない」


「ま、確かに。手を繋ぐのも嫌じゃないよね」


「え? 繋いでくれるの?」


 氷見さんがニヤニヤしながら尋ねてくる。


「いっ、今のは例えばの話だよ!?」


「ふぅん……」


 真顔に戻った氷見さんがサワーの中にレモン果汁を注ぎ込み、マドラーでかき回す。


 一口飲んだ氷見さんは頷いて「砺波さんみたいだ」と言った。


「俺はレモンサワー!?」


「ううん。砺波さんはグァバジュース。甘さも酸味も丁度いい。だから……多分他のドリンクを飲んでも首を傾げちゃうんだろうね」


「そんなにグァバジュースがいいんだね……」


「ふふっ……そういうとこ。でも、『好き?』って聞かれたら『好き』って言いながら頷くし、なくなったら悲しいし、売り切れたとしてもレモンサワーじゃ穴埋めできるようなものじゃない。そういう存在だよ」


「グァバジュース、愛されてるねぇ……」


 そんなにグァバジュースが好きだったとは思わなかった。確かに毎週のように飲んではいたけど。


「ふっ……ふふっ……そうなんだよ。そうなんだよね。変な話だけど、色々すっ飛ばして愛なのかも」


 氷見さんはレモンサワーに浮かぶ氷をじっと見つめながらそう言う。


「グァバジュースへの気持ちが溢れすぎてるよ……」


 氷見さんは俺の方を見るといきなり距離を詰めてきた。


 耳元に顔を持ってきて囁く。


「仕方ないよ。だって好きだから」


 うるさい店内の中でも、口内の粘度の高い唾液のせいなのかニチャッと言う音まで鮮明に聞こえるくらい、氷見さんの囁く声が耳元でよく響いた。


 離れた氷見さんは酔っているのか少しだけ顔が赤い。


「ぐ……グァバジュースのことだよね?」


「うん。そうだよ……ふっ……ふふふっ……」


 氷見さんは耐えきれなくなり、カウンターに肘をついて笑いだした。


 両手で顔を覆うと、そのまま笑いが止まる。


「手がレモンくさい」と氷見さんのくぐもった声が聞こえた。


「急に現実に引き戻されてる……」


「ある意味では寝取られ」


「どういう意味で!?」


 氷見さんは顔から手を外し、俺と自分を交互に指差す。


「私、グァバジュース好き。グァバジュース、売り切れ。心隙間にレモンサワー。手がレモンくさい。つまり、レモンに寝取られた」


「そ……そうなんだ……」


「この問題、グァバジュースさんはもっと真剣に考えるべきだよ」


 酔いが回ってきたのか、氷見さんが少しだけまぶたを重たそうにしながら俺を指差す。


「グァバジュースさん!? もはやかすってすらないよ!?」


「グァバミさん」


「無理矢理くっつけた!?」


「砺波さん、グァバジュースになりきって考えてみてよ。毎週のように自分を頼んでくれてた人が急にレモンサワーを頼んじゃったんだよ?」


「確かに……浮気されてるような気分になってきた……」


「だよね。その気持ち、大事にするんだよ。売り切れにしたらダメだよ?」


 氷見さんはキメ顔で俺の肩に手を置く。


「あ……う、うん……分かりました……」


「ま、グァバジュースがなかったらレモンサワーを飲んでるけど、グァバジュースさんがいなくなっても多分何も飲まないから」


「な、何が違うの……?」


 氷見さんは唇を尖らせて俺を指差し、「そういうとこ〜」と言った。



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