第72話

 金曜日の夜、先に一人で飲んでいると氷見さんがやってきた。


「やっほ、砺波さん。今週も変わらないね」


 氷見さんは来店後、即座にカウンターに運ばれてきた焼酎のグァバジュース割を受け取りながら挨拶をしてくる。


「そりゃ毎週会ってるから。何年振りに会ったんなら変化に気づくかもしれないけどさ」


「少しずつ身体が薄くなってたら、いつ頃気づくんだろ。例えば毎週1cmずつくらいさ」


「一ヶ月じゃ気づかないかもね。4センチでしょ?」


「じゃ、あと2ヶ月はいけるか」


「薄くなってるの!?」


「いや、むしろ厚みを増してる気がする」


 氷見さんはモヤモヤした表情で首をかしげる。


「太ったってこと?」


 氷見さんが俺の方を向いて目を見開いた。


「砺波さん、それは良くない。ブイニーとノンデリは似て非なるものだよ。砺波さんはブイニーだけどノンデリじゃないよね?」


「あ……う、うん……なんでもないです……」


「それに、『大』って漢字に点を打つなら右上一択だよ」


「犬……?」


 氷見さんは「わん」と言って酒を一気に飲む。


「けど……体重は一旦おいとくとしてもお酒って浮腫むんだよね。今週は今日に向けてコンディションを整えてみたんだ。ほら、目の大きさ違うでしょ? いつもより腫れぼったくないでしょ?」


 氷見さんが顔を近づけてくる。


「えぇ……いつもと変わらないけどなぁ……」


「そっ、それはそれで良くない……今週の断酒に何も意味がなかったってことになっちゃう……」


 氷見さんがたじろぎながらそう言う。


 どうやら先週の土曜日から昨日まで飲む量をセーブしていたらしい。そんなに日頃から飲んでたのか。


「氷見さん……ストレス溜まってるの?」


 氷見さんは俺の質問に答えず、じーっと目を見てくる。


 そして、俺を指差して「ストレッサー」と言った。


「俺のせい!?」


「なんてね。むしろ癒やし――ごふっ……けほっけほっ……」


 話しながら酒を飲んだ氷見さんがむせる。


「はい、ハンカチ」


「あ……ありがと……」


 俺がハンカチを渡すと、氷見さんは口周りを拭いて、そのまま顔をハンカチに埋めた。


「すぅー……はぁー……」


「なっ……何してるの?」


「砺波さんの匂いがする。癒される。ストレス軽減作用がある」


 氷見さんが目を瞑り、気持ちよさそうな声でそう言う。


 ちょっと怖いぞ!?


「ちょ……ちょーっとストレスかな……そのヤンデレ感は……」


 鼻から下をハンカチで覆った氷見さんがじろりと俺を睨んでくる。


「これ、買い取っていい?」


 ヤンデレのような生気のない笑みを浮かべて氷見さんが尋ねてくる。


「こわっ……」


「これ、食べていい? 在庫ある?」


「こわっ……」


「ストレスを与えてみた」


 氷見さんがふふっと笑い、俺にハンカチを返してくる。


 そこで氷見さんが思い出したように「あ」と言った。


「何?」


「そういえばそのハンカチ……濡れてなかった。ってことは……今日はまだ一回もトイレに行ってないの? それとも……手を洗ってない?」


「ハンドドライヤーを使っただけだよ!?」


「なるほど。考えすぎてストレスを感じちゃった」


「なんかごめんね……けど使って濡れてたらハンカチはさすがに渡さないよ……」


 氷見さんはクールな表情に戻り「だよね」と言って前を向く。


 少しして氷見さんが「見せたいものがある」と言ってスマートフォンを取り出した。


「なになに?」


「先週の土曜日から1週間、毎日自撮りをしてたんだよね。断酒でむくみが取れていく様子を見せてあげるよ」


 氷見さんが距離を詰めてきて、スマートフォンの画面を一緒に見ながら自撮りを見せてくる。


「これが木曜日の朝」


 見せられた写真は、いつもの少し気だるそうな雰囲気の氷見さんの自撮り。寝癖がそのままで横からビヨンと跳ねた髪の束があること以外は隣にいる本人と特に違いはない。


「うん。いつも通りだね」


「ま、ここから遡っていくから。ピークは土曜日の朝だよ」


 氷見さんはそう言って曜日を遡るように次々と写真を見せてくる。


 表情も角度も同じで、違うのは服装と寝癖の位置だけ。ずっと部屋にこもって絵を描いてるんだということだけがわかる。


「――で、これが土曜日の朝」


「うん。たくさん飲んだ次の日とは思えないくらいいつも通り」


「いつも通りに?」


 氷見さんが別の目的があるように聞き返してくる。


「え? いつも通りにいつも通りだよ」


「いつも通りにどう思うのかなって気になっちゃって。ほら、色々と感想はでてくるはずじゃん」


「うーん……? いつも通りの氷見さんだよ」


「わ、ストレス」


「なんで!? あ……もしかして……これ別の人だったりする? AIで合成してるとか?」


「ふっ……ふふっ……私だよ……」


 氷見さんが笑いを堪えるように下を向くも、耐えきれずに吹き出した。


「ま……そうだよね」


「砺波さんに見せるためだけに毎日撮りだめてたんだ」


 氷見さんはそう言って写真を左右にスワイプして異なる日付の自撮りを順番に見せてくる。


「砺波さん、感想は? ほら、何か思うところはない?」


「氷見さんだねぇ」


「うん。私。他には?」


「うーん……部屋着のTシャツは2枚でローテしてる?」


「ふっ……そ、そこはそうだけど……ふふっ……」


 絞り出した発見が氷見さんにウケた。


「砺波さん。この写真に共通して、ひと目見たときに思うことだよ」


 そう言いながら氷見さんが俺の方をじっと見てくる。ひと目見て思うこと……


「可愛い」


 俺の感想を聞いた氷見さんが「ぶっ」と言って笑いながら顔をそらした。


「なんで笑うの!?」


「ふふっ……そうなんだ。可愛いんだ」


 氷見さんがニヤニヤしながら下を向く。


「想定回答はなんなの!?」


 俺の質問に答えるように氷見さんが距離を詰めてきた。


「それが正解」


 真顔で氷見さんがそう言って頷く。


「あっ……そ、そうなの? 何か仕込んでたわけじゃなく?」


「うん。単に毎日撮ってただけだから。けどやっぱ土日あたりは浮腫んでない? ほら、まぶたのあたり」


 氷見さんにまた写真を見せられるが、やっぱり分からない。


「うーん……いやぁ……わっかんないなぁ……」


「そっか……ふふっ……」


 氷見さんはやけに嬉しそうにニヤけている。


「砺波さん、ブイニーだけどブイニーじゃなくて、けどやっぱりブイニーだね」


「どっち!?」


「そういうとこ。あー、断酒は無理だなぁ。来週も再来週もまた来ちゃうし飲んじゃうなあ」


「アル中じゃん……」


「ううん。トナ中」


「それって何中毒なの?」


 氷見さんは俺を見て笑いながら「ブニ中」と言う。


「ブニ……トナ……」


「トナがブニなんだよね。けどヒミはソコがヨキ」


「トナ……ブニ?」


 俺が首を傾げると、氷見さんは笑いながら「そういうとこ〜」と言ってグラスに口をつけた。

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