第71話

 金曜日の夜、2人で並んで飲んでいると、隣から氷見さんの妙な視線を感じる。


 右隣を見ると、氷見さんがじーっと真顔で俺の方を見ていた。


「な……何?」


 氷見さんの方に顔を向けて尋ねるも氷見さんは真顔で静止したまま。時間が止まっているのかと錯覚しそうになるが、たまに氷見さんが瞬きをするので一応時間は流れているらしい。


 一分ほどそんな風に見つめ合ったところで氷見さんが「ふぅ」と言って前を向いた。


「なっ、なんだったの?」


「8秒」


「もっと経ってたよ……一分くらいは見てたような」


「ふふっ、その時間じゃないよ。人が初めて見た人と恋に落ちるまで見つめ合う時間が8秒なんだって。だから今の時間、残りの52秒は消化試合だね」


「へぇ……ま、初めて会った人じゃないから数字は違いそうだけど」


「鋭い指摘だね。じゃ、何秒?」


 氷見さんがニヤリと笑って距離を詰めてくる。


「ど、どうかな……」


 いきなりすぐ近くに氷見さんがやってきたので目を逸らす。「即落ちだ」と言って氷見さんが笑った。


「別に落ちてないからね!?」


「手強いなぁ……じゃ、砺波さんゲームしよ。ゲーム」


「ゲーム?」


「うん。ゲーム」


 氷見さんは身体ごと俺の方を向いて、俺にも同じことをさせた。今日はいつもよりハイペースだったのでかなり酔っているらしく、氷見さんが少しふらつく。


 2人で向かい合うと氷見さんがじっと俺の目を見てきた。


「これで、先に目を逸らした方が負け」


「負けたら?」


「お酒をいっぱい奢る」


「たくさんって意味のいっぱい?」


「ふふっ。そこは勝った側が決めようか」


「オッケー。いつでもいいよ」


「じゃ……スタート」


 氷見さんの静かな声を合図に戦いが始まる。


 とはいえ、ただ立って飲みながら見つめ合うだけなので何も辛いことはない。


「砺波さん、水取って」


「うん。いい――くはない!」


 水を取ろうとカウンターテーブルに視線を送りかけたところで、ギリギリ氷見さんから視線を外さずに耐える。


 勝負のルールは目を逸らさないこと。つまり、水を取ろうとテーブルを見ることも許されないと気づく。


「氷見さん、罠にはめようとした?」


「わ、鋭い。砺波さんらしからぬ鋭さだ」


 氷見さんは真横に置かれている串焼きをノールックで持って、俺を見ながら先端の鶏肉を食べた。


「まぁこれ……そういううっかりミスを誘わないと終わらないよね」


「ずっと見つめ合っても照れないってこと?」


「ま、氷見さんだし」


 俺もカウンターから串焼きをノールックで取って食べ始める。慣れると案外苦にならないものだ。


「『氷見さんだし』ってことは他の人だと照れるの?」


「照れるっていうか……気まずすぎて逸らしちゃうかもね」


「そっか。私は気まずくないのか」


「そうだね。目を合わせやすい」


 氷見さんがニッと笑い、普段の仕草同様に照れた様子で下を向きかけたところでぐっと耐えた。白目を剥いて必死に顎を下げずに食い止めている。


「いっ、今のってスイング判定?」


 いつもの表情に戻った氷見さんが恐る恐る尋ねてくる。


「ギリギリセーフにしようか」


「つまり……まだ私と見つめ合っていたい?」


「そっ、そういうことじゃ……」


「ふふっ。仕方ないなぁ」


 氷見さんが笑いながら自分の持っていた串焼きを俺の口に運んでくる。


 やり返すように氷見さんの口に俺の手にある串焼きを運び、お互いの腕が交差した。


「……私達、何してるんだろうね」


「本当に」


 まったく意味のないゲームをしていることを客観視すると自然と笑みがこぼれる。


 だが、そこでこのゲームの必勝法を思いついた。


「黒部ー! 氷見さんがわかめスープだって! 熱々で!」


 氷見さんから視線を外さずにそう言うと店の奥から黒部の「はいよー!」という元気の良い声が聞こえた。


 氷見さんはすぐに俺の意図を察したように目を見開く。


「ずるっ。それで私に受け取らせて横を向かせる気だ。液体だから見ざるをえない」


「しかも熱々」


「熱々? 砺波さん、熱々ってオーダーした? 私が火傷してもいいんだ? 芸術家の手は命だよ?」


 氷見さんが手を顔の前に持ってくる。爪の隙間に絵の具かインクか分からないが色がついているけれど、白魚のような肌で、とても綺麗だ。熱々のわかめスープを持たせられるような手ではない。


「う……それは……」


「あ、じゃあ、わかめスープが来る前にケリつけちゃおっか」


 氷見さんはすぅーと深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。


「砺波さん、大好き」


「……へっ?」


「好き。好き好き。大好き大好き大好き大好き大好き――」


 氷見さんは顔を真赤にしながら好きと言い続ける。


「ちょちょ……ど、どうしたの!?」


「は、早く照れてよ……こっちが恥ずかしいじゃん……熱々のわかめスープが来ちゃうじゃん……」


 氷見さんはそう言いながらも目を逸らそうとしない。


「あ……あれか。愛してるゲーム的なこと?」


「もっ……そっ……そういうとこ! そういうとこだよ! けどもう、そういうことでいいから早く照れてよ!」


 氷見さんが笑いながら俺の腕をバシバシと叩いてくる。


「わかめスープお待たせ〜……って何やってんの?」


 横から黒部が話しかけてくる。視線を外せないので顔は見えないが呆れた顔をしているんだろう。


「あ……黒部さん、ありがとうございます。わかめスープ、そこに置いといてください」


「えっ、あ、うん。ご、ごゆっくりぃ……」


 黒部がいなくなり、また自分達のしていることを客観視する。酔っ払いの意味不明な行動ほど意味不明なことはない。そして、ふとしたテンションの谷間、冷静になる瞬間がやってきた。


「氷見さん」と俺が言うのと同時に「砺波さん」と氷見さんが呼んできた。


「俺達さ」


「私達」


「「何してるんだろう……」」


 ◆


 謎の見つめ合うゲームは引き分け。2人で横並びで立ち、一つの大きな椀で来たわかめスープを取り分けることなく各々がレンゲで掬って飲んでいる。


「このわかめスープ、おいしい」


 氷見さんが手を止めることなくわかめスープを飲み続ける。


「だよね。隠し味があるんだってさ」


「隠れてるから分かんないや」


 テイスティングをするように目を瞑って味わうも隠し味が分からない氷見さんは首を傾げた。


「そりゃ隠し味だしね。すぐに分かったら隠れてないよ」


「けどさ、隠し味って言うけど、本当に隠れてたら味に影響してないってことじゃない?」


「ま……確かに」


「正確に言うなら『ちょい頭出し味』だよね」


「言えてる」


 2人でズルズルとスープを飲みながら笑う。


「で、何が入ってるの? ちょい頭出し味」


「コだよ、コ」


「ふふっ……名前までちょい頭出しなんだ」


 氷見さんが俺の冗談の意図を汲み取って笑ってくれる。


 たまに横を見ると目が合うときもあれば合わない時もある。それはタイミング次第。


 たまたま氷見さんと視線がぶつかった瞬間、向こうから微笑みかけてきた。


「砺波さん、強いね」


「あぁ……さっきのゲームの話? けど、氷見さんのさっきのやつはやられたなぁ」


「ふふっ。でしょ?」


「氷見さんに面と向かってあれだけ言われたらさすがに照れちゃうよ」


「けど目は逸らさなかったね」


「ま……結構頑張って耐えてたよ」


「ふふっ。そうなんだ」


「氷見さん、すっごい本気だったよね」


「うん。本気。ちなみに何が本気だと思ってるの?」


「え? 勝負に本気で勝とうとしてたよねってこと」


「ふふっ。だよねぇ」


 氷見さんが頬杖をついて前を向く。


 前を向いて感情が薄まった横顔の氷見さんが「ね、砺波さん」と呼んでくる。


「何?」


「やっちゃいけないことを衝動的にやりたくなるときってない? 街中でいきなり叫ぶとか」


「あー。あるね」


「私は今ね、熱々のわかめスープを砺波さんに頭からぶっかけてやりたい」


「怒ってる!? そんなに本気で勝ちたかったのか……」


「そ。本気で勝つ気だったよ。ばーかばーか。砺波さんのブイニー」


 氷見さんは前を向いたまま、笑いながら俺の足を何度か蹴ってきたのだった。

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