第64話

 金曜日の夜、汗を拭いぬがら歩きいつもの店に到着。


 店に入ろうとした時、ちょうど向かいから氷見さんが歩いてきていた。


 音楽に耳を傾けているのか、目を瞑り、リズミカルに歩みを進めているさまを見るに今日はかなり上機嫌らしい。


 店の前に近づいてきた氷見さんがイヤホンを取り外して現実に返ってくる。


「あ……」


 俺と目が合うと氷見さんはその場で固まり、顔を赤くしながら口をパクパクとさせた。


「……見た?」


 氷見さんは恥ずかしそうに上目遣いで俺を見ながら尋ねてきた。これは見なかったフリをした方がいいんだろう。


「な、何のことかなぁ……?」


「さすが。大人の対応だ」


「大人だからね」


 2人でニヤリと笑い合い、扉を開けて氷見さんを先に入店させる。


 空いている店内で定位置を確保して日替わりのおすすめメニューを二人で眺める。


 どうせ飲み物はいつものだろう、と言いたげに黒部が一杯目のドリンクを持って俺たちの方へやってきた。


「いらっしゃい。何か食べる?」


「うーん……じゃあ海苔のサラダと海苔の佃煮――」


「ぶふっ!」


 氷見さんがそそくさと受け取った焼酎のグァバジュース割を吹き出した。


「だ、大丈夫!?」


「けほっ……だ、大丈夫……」


 氷見さんはむせながらメニューを指さして黒部につまみを頼んだ。


 黒部が離れていくと、氷見さんは恨めしそうな目で俺を見ながら脇腹をつついてくる。


「砺波さん、すっごいイジってくるじゃん」


「え? 何が?」


「海苔に海苔って……私がノリノリだったってこと?」


「……ん? あぁ〜! そういうことじゃないよ。おすすめにあったから気になっちゃってさぁ……」


「ふぅん……砺波さんって小さい頃さ、好きな子に悪戯とかしてたタイプ?」


「どうかなぁ……話しかけられなくて遠くから見てるだけだったかも」


「なるほどねぇ……じゃ、立ち位置が悪いのか」


 氷見さんはそう言うとカウンター席に俺たちしかいないことをいいことにグラスを持ってカウンター席の端まで移動していく。


「戻っておいでよ」


 俺が声を掛けると氷見さんは嬉しそうにはにかんで戻ってきた。


「で、今更だから聞いちゃうけどさ、何を聞いてたの? やけにノリノリだったから気になっちゃって」


「うーん……じゃ、帰りに家まで送ってくれたら教えてあげるよ」


「そんなに言えないこと!?」


「等価交換だよ。大事な秘密だから」


 氷見さんは人差し指を口に当ててニヤリと笑う。


「氷見の秘密ってこと?」


「それ、あと10杯くらい飲んでたら笑ってたかも」


「辛辣ぅ……」


 確かに面白くもないオヤジギャグだった。これが脊髄反射で出てしまったところに悲しさを感じる。


 とはいえ、氷見さんも、海苔と海苔でノリノリなんて発想をするくらいだから同じようなセンスだろうに。むしろ俺よりも酷いセンスをしている可能性だってある。


「あ……そうだ。砺波さん」


 氷見さんが何かを思い出したように頬杖をついて俺のことを呼んだ。


「どうしたの?」


「私はさぁ……意地悪しちゃうタイプなんだよね。好きな人に」


「へぇ、そうなんだ」


「そうなんだよ。これは案外知られていない事実」


 氷見さんはそう言うと俺の脇腹をツンツンと突いてくる。


「くすぐったいよ……」


「意地悪しちゃうタイプなんだよね〜」


「正当化しているだけじゃない!?」


 氷見さんはふふっと笑うと「そういうとこ〜」と言いながら何度も俺の脇腹をつついてきたのだった。


 ◆


 日付をまたいで土曜日となった深夜、帰りは自宅の最寄駅の一つ手前で下車して氷見さんの家との分かれ道まで送ることになった。


「久しぶりだなぁ……砺波さんが送ってくれるの」


 広い歩道を歩きながら氷見さんが呟いた。


「氷見さんが何の曲を聞いてたか教えたくてたまらなそうだったから」


「ふふっ。そうなんだよね。あー、今すぐ言いたいなぁ」


 氷見さんがノリノリで何を聞いていたかなんて既に過去の話題に成り果てている。


 そんなネタを擦りながら歩いていると、あっという間にそれぞれの家に向かう分かれ道に到着した。


 どちらからサヨナラをするわけでもないため、その場に立ち止まって微妙な沈黙が訪れる。


「ね、砺波さん」


「はっ……はい!?」


「なんでそんなに驚いてるの……」


 氷見さんがジト目で俺を見てくる。


「な、なんでだろうね……」


「何か言い残したこと、ある?」


 穏やかに微笑みながら氷見さんが上目遣いで尋ねてきた。


「ないよ」


「そっか。あ、聴いてた曲教えてあげるよ。砺波さん、イヤホンってワイヤレス?」


「うん、そうだよ」


「じゃ、これに繋いで」


 氷見さんはそう言って自分のスマートフォンを取り出した。俺がカバンからイヤホンを取り出して氷見さんのスマートフォンとペアリングをする。


「じゃ、ばいばい」


「あ、あれ? 曲は?」


「これは今日のエンディングテーマ。だから、砺波さんがあっちを向いたら流すよ。珠玉の一曲を聴きながら家に帰ってね」


「ハードル上げるねぇ……けど、接続切れちゃわない?」


「有効範囲は10メートルくらいかな。それを超えたら切れると思うけど……別にフルで聴くようなものでもないから」


「珠玉の一曲じゃないの……?」


「細かいことは気にしない! ほら、あっち向く!」


 氷見さんに回れ右をさせられる。お別れをするきっかけもなかったのでちょうどいいと言えばちょうどいい。


 軽く振り向いて手を振ると氷見さんも手を振り返してくる。


 そのまま一人で自宅に向かって歩き始めると曲が流れ始めた。


 軽快な笛にアコースティックギター、それにアコーディオンのような音も聞こえる。


「……アイリッシュ?」


 訛りのキツイ英語なので上手く聞き取れないけれど多分酒を飲んでヘイヘイホーみたいな感じの曲なんだろう。


 居酒屋に来る前にこれを本当に聞いているとしたらかなり気合が入りそうだし、氷見さんならやりかねないとも思う。


 15メートルくらい歩いたところでぷつんと接続が切れた音がした。


 そこでイヤホンを取り外して振り向く。


 氷見さんは律儀に元いた場所に立って俺を見送っていた。


 手を振ると氷見さんが電話をかけてくる。


「遠くからってこのくらい?」


 氷見さんは脈絡もなくそんなことを聞いてきた。


「何の話?」


「ふふっ。なんでもないよ。私の顔、見えてる?」


 目を細めて氷見さんを見るも暗いため表情までは読み取れない。


「かろうじてかな」


「そっか。おやす――」


「あ! 氷見さん! 思い出した!」


「……何が?」


「幼稚園の時は意地悪してたかも。好きな子に虫を持っていったりとか」


 氷見さんがふふっと笑うたびにマイクにかかる息がボフボフと聞こえる。


「ふふっ……悪い人だね」


 二人で電話に夢中になっていたがここは歩道。薄暗い道で氷見さんの背後から通行人が来ているのが見えた。


「あ、氷見さん。後ろから人来てるよ」


 氷見さんは俺の言葉に従って歩道の端に避ける。だが、後ろには誰もいない。


「いないじゃん」


「あ……あれ? 見えたんだけどな……」


「ふぅん……砺波さん、いたずらをするタイプだもんねぇ」


「い、今のはいたずらじゃないよ!?」


 俺が必死に弁解するほど、氷見さんの吐息がボフボフと当たる音が増える。


「あーあ。私って幽霊とかすっごい信じてるから怖いなぁ。一人でお風呂入れないなぁ」


「それは普段から困るでしょ……」


「ま、そうだね。それじゃ……うーん……おやすみ、またね、ばいばい、それでは、さようなら。なんだろ。どれもしっくりこないや」


「また来週?」


「それもある。なんか切るタイミングがなくて……って別に切らなくてもいいのか。Bluetoothと違って5Gはどこでもつながるし」


「安っぽい広告みたいなセリフだね」


「ただの事実だよ」


 氷見さんはそう言うと踵を返して自宅の方へ向かってあるき始める。


「ね、砺波さん。今日はこのまま、どっちかがエントランスにつくまで電話しようか」


「いいよ」


 氷見さんが振り向かないことを確認して俺も自宅に向かって歩き出す。


 気づけばエントランスを超えて、部屋につくまで電話を続けていたのだった。

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