第63話
金曜日の夜、いつもより少し遅めに店に着くも氷見さんの姿はない。
自分の定位置に立って飲み物を受け取り、ぼーっとスマートフォンを見ていると氷見さんからメッセージが入った。
『ごめん。さっき起きた。今走ってて、電車と並走してる』
電車と並走できるような速さで走っている氷見さんを想像すると口元がニヤけてしまう。
『人間の限界を超えるるね』
『限界は超えるためにあるから。あ、もう駅つくよ』
『了解』
偉人のような名言を残した氷見さんは恐らく移動を始めたのか、既読がつかなくなってしまった。
◆
氷見さんから連絡があって数分後、急に店に団体客が数組入ってきた。
テーブル席は埋まり、普段ならテーブルの方にいる少人数のサラリーマン達が続々と立ち飲みのカウンターにやってきた。
気づけば聖域である氷見さんのところにもたまに店内で顔を見るおじさんが立っている始末。
店が繁盛していることは好ましいけれど、氷見さんの場所がなくなってしまった。
そんなタイミングで氷見さんが入店。背伸びをして自分の定位置が埋まっていることを確認すると、カウンター席の俺とは反対側の端に立って黒部に何やら話しかけた。
その直後にスマートフォンから通知が出る。
『砺波さん、私よりおぢが好きなんだ?』
そのメッセージの直後に怒っている絵のスタンプを連投してくる。
『止める間もなく一気に人が来ちゃってさ……』
『ま、仕方ないね』
『別のお店に行く?』
『ううん。たまにはこういうのもいいよね。砺波さん、私のこと見える?』
カウンターに並んでいる人の向こうから氷見さんの顔が覗き込んでくる。
目を合わせてニッコリと笑い合い、またスマートフォンに戻る。
『見えるよ』と返信するとすぐに既読がついた。
『じゃあ今日は端と端でリモート開催だね』
『各自が家で飲んでるのと変わらないよ!?』
『何かあったら物理で殴りに行けるから』
『一駅だから行きやすい方ではあるけどね』
『あ、私の家まで来てくれるんだ?』
ニヤニヤした顔のスタンプが送られてきたので俺はスマートフォンを置いてビールを口にする。よくよく見るとスマートフォンの充電が残り数%しかないため、こんなやりとりもすぐに続けられなくなりそうだ。
『今日のお品書き』
氷見さんはそんなメッセージと共に自分が注文した品々の写真が送られてきた。
焼酎のグァバジュース割の前に並んでいる皿に載っているのは唐揚げ、チャンジャ、串焼きの盛り合わせ。かなりガッツリと食べようとしているようだ。
俺も自分が注文した、だし巻き玉子、枝豆、エビチリの写真を送る。
だが、氷見さんは既読をつけたのみで返信をしてこない。
「やっほ、砺波さん」
背後から声をかけられたので振り向くと、氷見さんがチャンジャの小鉢を持って立っていた。
「氷見さんじゃん。どうしたの?」
「トレードの申し込みに来た。普段なら隣にいるからすぐに交渉できるのに今日は不便だね」
氷見さんがニヤリと笑いかけてくる。
「確かにね。で、何と何をトレードするの?」
「私のチャンジャと砺波さんの卵焼き。どう?」
「チャンジャは一口だけ?」
「ケチ臭いこと言わないでよ。じゃ、半分あげるから。それと卵焼き一ピース」
「うーん……チャンジャかぁ……ま、食べたくなったら自分で頼むしなぁ……」
「あっ、案外シビアなんだね……」
「黒部の卵焼き、好きなんだよねぇ」
「ふぅん……」
氷見さんはジト目で卵焼きを睨みつける。
その時、カウンター席にいる客が黒部に向かって手を挙げた。
「すみませーん! チャンジャひとつー!」
「あ! チャンジャ今日はもう無いんですよ、ごめんなさーい!」
そんなやり取りを観ていた氷見さんはニヤリと笑って俺の前にチャンジャを置く。
「ヒーミー通信から最新の経済ニュースが配信されたよ」
「なっ……何?」
「世界的なチャンジャ高が予測されてる。どうも資源が枯渇したらしいんだ」
「チャンジャ高!? ドル高みたいなこと!?」
「そ。需要が高いものほど価値が上がる。基本原理だよね」
「売り切れってだけだよね!?」
「けど……ほらぁ、食べたくなってきたでしょ? 今日はもう食べらんないよぉ?」
氷見さんがニヤつきながら俺の顔の前でチャンジャの小鉢をウロウロさせる。挑発されているのは百も承知なのだが、もう食べられないと思うと尚更食べたくなってきた。
「う……」
「砺波さん、なんと今ならこのチャンジャ、ひとつまみと卵焼きで交換できるよ」
「ちゃっかりさっきよりチャンジャ高になってる!?」
「ま、一口どうぞ」
氷見さんが箸でチャンジャをつまんで食べさせてくれた。
コリコリとした食感を楽しみながら、俺も卵焼きの一切れを箸で半分に割り、氷見さんに食べさせる。
卵焼きを堪能した氷見さんは「割高だね」と言ってもう一度チャンジャを食べさせてくれた。
「なんだ。兄ちゃん達知り合いなのか? ここ、ちょっと詰めるから待ってろよ」
俺の隣にいたおじさんが俺と氷見さんのやり取りに気づいて場所を空けるように皿を動かし始めた。
「あっ……えと……はっ、はい! 0.3人分……あればっ……おけっす……ウス……」
急に知らない人に絡まれた氷見さんは顔をガチガチに強張らせて荷物を取りに一度カウンターの反対側に戻っていった。
少ししてグラスを持った氷見さんがやってきた。普段よりも俺の方に寄った場所に立ち、密着するくらいの距離感で俺とおじさんの間に入ってきた。
氷見さんとほぼ同時におじさんに「ありがとうございます」とお礼を言うと、おじさんは無言で手を挙げて答えた。
その粋な姿にニヤリと笑い、氷見さんと乾杯をする。
「ぷはぁ……やっぱりここがいいね。五万くらいなら出せるよ、この席」
しみじみと氷見さんがそう言う。
「そんなにあっちの端って違うの?」
氷見さんは至近距離で俺を見上げてふふっと笑う。
「違うよ」
「ま、あっちは入口が近くて人の出入り多そうだし、あんまりゆっくりできないよね」
氷見さんは穏やかに微笑んで「それだけじゃないけど、それはそうなんだよね」と呟く。
「砺波さんはどう? 私がいたほうがいい?」
「断然良いよ。充電がなくなりそうだったから」
氷見さんは一度目を見開く。嬉しそうにはにかむと、より一層俺に密着してきた。
「仕方ないなぁ……はい。充電」
氷見さんが俺の右腕に頭を擦り付けてくる。
「あ……す、スマートフォンの話ね。後3%くらいしかなくて」
ピタッと氷見さんの動きが止まり、俺がテーブルにおいていたスマートフォンの画面を触ってバッテリーの残量を確認した。
「……わ、私も放電できる……ピカ」
「ピカ!?」
「砺波さん、良かったね」
「何が?」
「私が本当にピカチュウだったら今頃結構な電圧の攻撃をしてるよ」
「10万ボルトを結構な電圧なんて言い方しないよ!?」
「そこそこの電圧」
氷見さんはやさぐれた表情でそう言ってグラスの中身を飲み干すと、焼酎濃いめのグァバジュース割を頼んだ。
「濃いめって……大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。今日は自力で立てなくなっても砺波さんに寄りかかればいいし」
「せめて自分で立てるくらいの意識は保っててよ……」
夏場の店内なエアコンが効いているとはいえ、密着しているとじんわりと汗がにじんでくる。
氷見さんはそんなのは関係ないとばかりにまた俺に頭をグリグリと押し付けてきた。
「じゅうでーん! でんこうせっかー! ブイニー!」
「最後のは技じゃないよね!?」
「私の『とくぼう』がガクッと下がる」
「上級者が使う技!?」
「砺波さん、上級者なのかぁ……」
「何の話なの……」
「そりゃもうポケットのモンスターだよね……って冗談はさておき。この距離で充電できるなら毎週店が混んでてもいいや。スマホじゃなくて、心の充電。いいよね」
急にしっとりとしたテンションになった氷見さんは俺の右腕に顔を埋めて何度も息をする。鼻と口から出た息が当たる部分が温かくなり、それが徐々に全身に広がっていく。
「……充電、今何%くらい?」
スマホじゃない方の充電度合いについて尋ねてみる。
「まだ10%。今始めたてだから。砺波さんは?」
顔を埋めたまま氷見さんが答え、逆に尋ねてきた。
「俺は13%かな」
「……ヒミ?」
「正解」
「ふふっ……ご、語呂合わせ……ださっ……」
「語呂合わせにダサいとかある!?」
「そこがいいんだよね、そこがいい」
氷見さんは顔を上げると俺と腕を組んだまま届いた濃いめの酒を飲む。
「うーん……私の充電、14106%かな」
しみじみと氷見さんがそんな事を言いだした。
「充電が百超えることあるの!?」
「うん。あるんだよ。昔のだっさい語呂合わせ」
「へぇ……知らないや」
「だろうと思って使ってみた」
氷見さんは自分から自慢はしないけれど博識な人。追いつくために調べようにもスマートフォンは無上にも充電がなくなってしまった。
「どういう意味なの?」
「ん? なんだろうね。家に帰って調べてみなよ」
「もう数字忘れちゃったよ……なんだっけ……11451――」
氷見さんが俺の口元に指を当てて静止してくる。
「砺波さん、それ以上いけない」
「え……あ……うん……」
どうやら語呂合わせには危険なものもあるらしい。
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