第62話
金曜日の夜、泥酔した氷見さんと二人で若干ふらつきながら駅に向かう。
「氷見さーん! 終電近いから急ぐよ!」
「うーん……はーい……」
氷見さんはマイペースに辺りをキョロキョロしながらゆっくりと歩いている。
遂にはしゃがみ込んで靴紐を結び始めたので迎えに行くと、今日の氷見さんはローファーを履いていて紐がないことが判明した。
「紐ないじゃん……何してるの……」
「エア紐結び」
氷見さんが顔を上げ、俺を見上げながらニヤリと笑う。この人、だいぶ面倒な酔い方をしているな、と直感する。
「電車に乗ったらいくらでも付き合うから……ほら、行くよ!」
氷見さんは「はーい」と気の抜けた返事をすると手を差し出してくる。
このままだと埒が明かないため、氷見さんの手を握って駅に向かって歩き出す。
「んー……ここ、新しいお店だね。こっちはイタリアンか。砺波さん、見て見て。ワインがいっぱいあるよ」
「もう今日は閉まるだろうからまた来週だね」
「一杯だけ飲んでこうよ」
「電車なくなっちゃうよ!?」
氷見さんは観念したように「はぁい」と言う。
この人、わざと終電を逃そうとしている? いやいや、そんなわけないか。単にお金が余計にかかるだけだし。
◆
駅の改札前に到着すると、氷見さんは券売機の方へ向かった。
「チャージするの?」
俺の質問に氷見さんは首を横に振る。
「ううん」
「じゃあPASMO忘れちゃった?」
「ううん。私、Suicaだから」
氷見さんは定期券入れに入ったICカードを見せてくる。
「なら乗れるじゃん……」
「ね、砺波さん。Suicaって何の略か知ってる?」
「えー……す、スイスイカード?」
「ふふっ……ふっ……」
氷見さんが笑いながら券売機の方へ向かうので慌てて追いかける。まだ数分の余裕はあるとはいえ、終電を逃すことが現実的なラインになりつつある。
氷見さんは最寄り駅までの券を購入しながら「Super Urban Intelligent Card」だってさ、とSuicaの本名を教えてくれた。
「へぇ……そうなんだ――じゃなくて! そういうウンチクは電車で聞くから!」
俺が氷見さんを急かすように肩を叩くと、氷見さんが俺の方を振り向き、両手をグーにして突き出してきた。
「な……何?」
「どっちだ? 乗車券を隠してる方」
「右」
「わ、即答だ」
「急いでるからね!?」
「じゃ、急ぐことを諦めようよ。私の手の中に券がなかったら今日はここで泊まり。いいよね?」
「良くないよ。右でしょ?」
氷見さんはじっと俺の目を見てくる。やがて観念したようにふっと笑うと手のひらを上に向けて両手を開いた。
乗車券は両手にそれぞれ、一枚ずつ握られていた。
「二枚買ってるじゃん……」
「おすそわけ。買いすぎちゃった」
「これをもらうと俺も氷見さんの最寄り駅で降りることになるんだよね?」
「うん。暑い中悪いけど、一駅歩いてもらうことになっちゃうかな」
俺はそれを受け入れる、という意味で氷見さんの右手から乗車券を取った。
「いいよ。運動がてら歩こうと思ってたから」
氷見さんはニヤリと笑って改札の方へ向かう。乗車券を改札に通し、二人でホームへ向かう途中、氷見さんが話しかけてきた。
「ね、暑いし帰り道でアイス買おうよ」
「俺の努力をサラッと打ち消そうとするね!?」
「電車代だよ」
「まぁそのくらいか……」
電車代を返すために小銭を作るのも面倒なのでアイスで相殺できるならいいか、と思う。
二人で並んでエスカレーターに乗ると目の前にいるカップルの男が彼女の尻をこれでもかというほどに揉みしだいていた。
それを見た氷見さんは苦笑いをしながら俺の方を見てくる。
「ね、砺波さん」
「何?」
「逆に聞くんだけど、砺波さんってどうやってスマートに女の子をホテルに連れて行くの?」
そんな経験がなさすぎて何も言えないんだが!?
俺は前のカップルをちらっと見て「ケツを揉みしだく」と冗談めかして言った。
氷見さんも冗談と理解したようで「へんた〜い」と言いながら大笑いする。
「真面目な話をするとそんな手法は知らないかな。っていうか逆って何なの……」
「こういうことだよ」
氷見さんは笑いながら俺の尻を揉んでくる。
「どういうことなの……おじさんのお尻を触っても何も楽しくないでしょ」
「砺波さんのお尻だからギリギリ楽しいよ」
「楽しくないとの境目にはいるんだ!?」
俺が氷見さんの手を尻から払おうとすると、氷見さんはそのまま俺の手を握って指を絡めてくる。
「けどこれは……その……かなり楽しい」
氷見さんはそう言いながら何度も手に力を入れて握ってくる。
「楽しいの?」
「うん。千里の道も一歩からってやつだね」
「一体千里先には何が……」
「砺波さんは気にしないで大丈夫だよ。私が連れて行くから」
氷見さんは頼もしさを感じさせる様子でそう言う。
詳細は聞けないままホームに到着。すぐに電車がやってきて、運良くロングシートに2人並んで座ることかできた。
電車が走り出すと、氷見さんが隣から体重をかけてくる。
「今、1里進んだ」と氷見さんが宣言する。
「0.1%か。順調だね」
何かも分からないまま答える。
「1里って何キロあるんだろ?」と氷見さんが尋ねてくる。
「100メートルくらいじゃないの?」
適当な仮説を口にしながらスマートフォンで検索をする。
同じタイミングで検索結果が返ってきたのか、氷見さんと同時に「3.9キロ」と呟いた。
「調べてくれてサンキュー、ってね」
つい我慢できずそんなことを口走る。
「あ、今1里遠のいた」
「なんで!?」
「そのオヤジギャグはなぁ……」
氷見さんはそう言いながらも微笑みながらまた肩を寄せてくる。
「これで1里?」
「砺波さん、挽回のチャンスだよ」
「こっ……こうかな……」
氷見さんの方へもたれかかると「2里だね」と言ってくれた。
「砺波さん、手も繋ぐともっと良いよ。これで3里だね」
氷見さんが目を細めて手を繋いでくる。
なんとも言えない安心感に包まれ、氷見さんにもたれかかったまま眠気に襲われてしまうのだった。
◆
隣から砺波さんがもたれかかってくる。最初はドキドキしていたのだけど、あまりに体重をかけてくるので重たくなってきた。
けど、これも砺波さんなりに『里』を進めようとしてくれているのかもしれないと思うと無下にはできないし、むしろ嬉しいことでもある。
ただ、それも一駅、二駅と続くとしんどさが増してきたので軽く肩に力を入れて「砺波さん、重たい」と伝えてみる。
「……ぐぅ……」
ぐう? そんな返事ある?
慌てて横を見ると、砺波さんは目を閉じてスヤスヤと寝息を立てていた。
すぐ近くに顔があり、お酒の匂いの混ざった吐息がかかる。けれど全く不快じゃないし、なんならすぐ近くにある唇にむしゃぶりつきたいくらい。
ただそれなりに人もいる電車の中で誰にもみられずにそんな事ができるはずもない。
「砺波さんって気になってる人いるの?」
寝ている砺波さんに聞くのはずるいけれど、逆に本人も気づいていない深層心理で答えてくれるかもしれない。
「……ぐぅ……」
まさかの返事がきた。これはどういう意味なんだろう。
「砺波さんって女の子?」
「……ぐぅぐぅ……」
ぐぅがYes、ぐぅぐぅがNoだろうか。
「砺波さん、お酒嫌いだよね?」
「……ぐぅぐぅ……」
ビンゴ。仮説は大当たり。仕組みが解明できたところで本題に入る。
「砺波さん、私のこと、好き?」
「……ぐぅ……」
答えはYes。そうだよね。そうじゃないと毎週会ってくれるわけ――
「……ぐぅぐぅぐぐっ……ぐぅぐぅぐぐぐぅ……」
「ふっ……ふはっ……どっち……」
急に大きないびきを立て始める砺波さんがツボに入る。笑いを堪えるために肩を震わせていると、その振動で砺波さんは「はっ!?」と驚きながら目を開けた。
「ねっ……寝てた!?」
「ほーんと、そういうとこだよね」
そういうとこ、大好き。
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