第61話

 夏を迎えて猛暑日となった金曜日の夜、冷たいビールを一人で飲んでいると氷見さんが来店。駆け足で俺の方へ向かってきた。


 肩がシースルー素材でキャミソールの紐が見えているのが妙にセクシーだが、単に暑いからなんだろう。そうに違いない。


「砺波さんお待たせ。あっついねぇ……」


 氷見さんは薄手のシャツの胸元を開けてパタパタと仰ぐ。チラチラと見える谷間が夏を感じさせるが、変な目で見ないように意識的に顔を逸らす。


「あ、暑いね……」


「砺波さん、顔赤いよ」


「えっ!?」


「大丈夫?」


 氷見さんが俺の額に手を当ててくる。その胸元は開きっぱなし。否応なしに視界に入るためより顔が赤くなる。


「その……ぼ、ボタンを閉めてくれたらマシになるかも……」


 これに耐えられるわけがない。早めに原因を伝えると、氷見さんはガバっと腕で胸元を押さえた。


「こッ……これは……本当にその……誘ってるとかじゃなくて……暑くて……その……暑いんだよね」


「び、ビールを飲みましょう……」


 俺の提案に氷見さんも頷く。


「うん。今日はビールだ」


 二人で顔を赤くしながら、ニヤニヤしながら黒部が置いていったビールで乾杯をする。


「んぷっ……はぁ……おいし」


 氷見さんは一気にジョッキの半分を飲み干す。外の暑さでよほど喉が渇いていたようだ。


「すごい飲みっぷり……」


「でしょ? 女子大生がスケスケ衣装で汗だくで汁を注ぎ込まれて腹パンだよね」


「何言ってるの!?」


「女子大生」


 氷見さんはそう言いながら自分を指差す。


「それはそうだね」


「スケスケ衣装」


 氷見さんは自分の服のシースルーになっている肩を指差す。


「うん。それもそうだ」


「汗だく、汁」


 氷見さんは汗をかいている鼻の頭、ビールを順番に指差す。


「ビールを汁というのは中々に無理があるような……」


「麦の汁だよ」


「言い方」


 俺が軽く突っ込むと氷見さんはニヤリと笑う。氷見さんの独特な言い回しの意味を考えているとふと思い当たることがあった。


「あ……もしかして新しい服? 服に触れてほしくて変な言い方をしてた?」


「そうだよ。今日は鋭いんだね」


「今日『は』ね」


「お、そういうとこに気づくのもすごい」


 氷見さんは笑いながらそう言うと、半分残ったビールジョッキを俺の方に寄越すと、いつものように焼酎のグァバジュース割を氷多めで注文した。


「お、俺が飲むんだ……」


「うん。おすそわけ」


「同じやつ飲んでるけどね……」


「きっとこの地域で豊作だったんだよ」


「ビールが!?」


「麦汁」


 相変わらず氷見さんは掴みどころがない。一人で何か考える素振りを見せていた氷見さんは急に「今日はいける……?」と何か思いついたように俺の方をチラチラと見てきた。


「ねぇ砺波さん。暑い」


「えっ……う、うん。知ってるけど……」


「あーつーいー。暑いなあ暑いなあ。涼しいところに行きたいなぁ」


「一応エアコンついてるけど……温度下げてもらう?」


 氷見さんは唇を尖らせて首を傾げる。


「ね、涼しい個室に行こうよ。エアコンの温度も自由自在のところ」


「個室の居酒屋……? なんか改まって話があるの?」


 氷見さんはその場でコケる素振りを見せて微笑む。


「やっぱり砺波さんは砺波さんだね。こういう――」


 氷見さんがまた胸元のボタンに手をかける。よっぽど暑いらしいが、さすがにそれは止めないとだ。


 俺は氷見さんの手に自分の手を重ねる。


「あっ……」


 氷見さんは顔を真赤にして俺の方を見てきた。氷見さんの目つきが妖艶で、何やら妙な雰囲気が流れる。


「ひっ、氷見さん!」


「はっ……はい! なんですか!?」


 何故か氷見さんも緊張して敬語になる。


「その……か、顔が赤くなるくらい暑いのは分かるけどボタンはその……め、目のやり場に困るから開けないで欲しいと言うか……」


「へっ……あっ……ふっ……ふふっ……そ、そうだよね! 砺波さんはやっぱり砺波さんだ」


 氷見さんは「あせあせ」と独り言をいいながら外しかけたボタンを元に戻し、俺から顔を逸らしてグラスに口をつけた。


「え? 何か違った?」


 俺の方を振り向いた氷見さんは爽やかな笑顔で首を横に振る。


「ううん。何にも。そのままでいいよ」


 氷見さんは俺に渡したはずのビールジョッキをまた持っていて残りを飲み干す。


「ぬるくなっちゃった」


 氷見さんはビールジョッキを見ながら顔をしかめる。


「仕方ないね」


「アツくなってるのかも。ま、冷えてるよりはいいのかな」


「冷えてる方がいいよ……」


 ビールなんて冷たければ冷たいほどいいのだから。


「ビールはね」


 氷見さんは意味ありげにそう言って笑ったのだが、何を指しているのかは教えるつもりはないらしく、「じゃあ何?」と聞いても「秘密」とだけ返されてしまった。


 ◆


 帰りの電車はそれなりに人が待っていた。ホームに滑り込んできてピッタリ定位置で止まるとホームドアと電車のドアが開いた。


 その時、ふとドアの右上にある青色の『弱冷房車』という文字が目に入った。


「氷見さん、あっちから乗ろうか」


「えっ……う、うん……」


 人の乗り降りが終わらないうちに隣の車両の前に移動して、そこから電車に乗り込む。


「砺波さん、どうしたの? 電車に元カノでも乗ってた?」


「乗ってるわけないじゃん……」


「じゃ、いるんだ」


「い、一応いい年なので……」


「ふぅん……」


 氷見さんはジト目で俺を見てくる。氷見さんの背後にメラメラと炎が燃えているように見えるのは錯覚なんだろう。


「最初の車両が弱冷房車だったから。氷見さん、今日すごく暑がってたし」


 氷見さんは「あー」と言って今日の会話を思い出す。


「ほんと……砺波さんのそういうとこだよねぇ……」


「何が!?」


 氷見さんは電車に乗り込むと大笑いしながら俺の肩に顔を埋め「こりゃ大変だったろうね。元カノさん」と言っていたのだった。

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