第58話
金曜日の夜、いつものようにカウンター席で氷見さんと2人で並んで立ち飲み。
今この瞬間は右隣に誰もいないのは、氷見さんがトイレに行っているからだ。
ビールを片手にスマートフォンをいじりながら待っていると氷見さんは五分くらいで戻ってきた。
「お待たせ」
氷見さんが前髪を直しながら俺の隣に戻ってきた。
その様子をじっと見ていると氷見さんも俺の方を見てくる。
「……大きい方じゃないから」
氷見さんは恐る恐る上目遣いでそんなことを言ってきた。
「別に気にしてないけど!?」
「そうなんだ。砺波さん、すごい私の方を見てきたから……」
「氷見さんが必死に前髪を直してるから面白くて」
「そういうことか。ずっと下を向いてたからね」
「随分とネガティブなトイレタイムだね!?」
「ふふっ。楽しかったよ」
「た、楽しいんだ……」
氷見さんは頷きながらピースサインをした。
「うん。いつもと違うところが2つ。見つけてきてよ」
「トイレ?」
「そうだよ」
俺は言われるがままトイレに向かう。
この店のトイレは男女兼用の個室が一つ。
1つ目の違いは入った瞬間にすぐに分かった。芳香剤が変わったのだ。パッケージを見るとキンモクセイの香りらしい。
「季節外れだなぁ……」
秋を思い起こさせる香りに違和感を覚えながら2つ目の違いを発見。
それは壁際につけられた小さな台の上に置かれた手帳サイズのノートだ。表紙には『居酒屋ノート』と書かれている。
大方、店長の黒部が客に書かせるために設置したんだろう。
開くとそれなりに書き込みがされている。
最新のページにたどり着くと、そこには2頭身にデフォルメされた男が描かれていた。髪型やスーツを着ているところからして俺なんだろう。ご丁寧にその絵の近くに 『トナミさん』と書かれていた。つまりこれを描いたのは氷見さん。
さっきは絵を描いていたからトイレの時間が長かったらしい。
2頭身の俺の隣には点線で楕円が描かれている。どうやら俺が描くスペースらしい。
とはいえ絵心がない。
俺は適当に棒人間を描いてそこに矢印を引っ張る。本名を書くのは憚られるので『七尾さん』と書いてノートを閉じた。
用を済ませてトイレを出てカウンター席に戻ると、氷見さんが「分かった?」と尋ねてきた。
「うん。わかったよ。芳香剤が変わってたよね。金木犀」
俺がドヤ顔でそう言うと氷見さんは吹き出しながら顔を逸らした。
「ふふっ……そ、それは前からだよ……」
「えっ……そ、そうだったの!?」
「そういうこと、あるよね。変に意識するようになったから気づいちゃうこと。ほら……例えば砺波さんは少しだけ右耳のほうが出てる、みたいな」
「そうなの!?」
俺は慌てて自分の耳を触る。
「そっちは左。こっちだよ。砺波さん、だいぶ酔ってるね」
氷見さんは笑いながら俺の右耳をツンツンと突く。
「右耳の方が……そ、そうだったんだ……」
「ふふっ、そうなんだよ」
「氷見さん、よく気づいたね……」
「ま……まぁ……意識しちゃって――」
氷見さんが照れくさそうに何かを言いかけたところで背後にあるテーブル席から酔っぱらい達の歓声が上がる。
「あ……聞こえなかったけどなんて言ってたの?」
「何でもないよ」
氷見さんは恨めしそうにテーブル席で盛り上がっている人をじっと睨むと、またトイレに行ってしまった。
今度は、氷見さんはすぐに戻ってきた。
「砺波さんには、私が棒人間に見えてたのかぁ……」
氷見さんはカウンターに戻ってくるなりそう言って酒をあおる。どうやら俺がノートに描いた絵を見に行っていたらしい。
「絵心がないもので……」
「教えようか?」
「月謝は?」
俺の質問に氷見さんは指を3本立てて「レッスンは週1」と言う。月四回で3万円。氷見さんの知名度を考えたら安いほうだろう。希望者が殺到しそうだ。
「なんてね。砺波さんなら無料だよ。ま、場所は私の部屋だけど」
「そこはケチるんだ!?」
「別にケチってるわけじゃないよ」
氷見さんは唇を尖らせてそう言うと、トイレの方を指さした。
「砺波さん、私ね、酔った勢いでノートに気になる人の名前書いちゃったかも」
「かもって覚えてないの!?」
「ふふっ、どうかなぁ?」
氷見さんはニヤリと笑う。
気にならないと言えば嘘になる。さすがに俺の名前が書いてあるなんてことはないだろうけど。
かといって他の人の名前が書かれているノートを見て落ち込むのもどうなんだ。いやけど気になる。気になりすぎて夜しか寝られない。
俺はさりげなくカウンターを離れようとすると、氷見さんは目敏くそれを捉え、「どこに行くの?」とニヤニヤしながら尋ねてきた。
「おっ、お腹が痛くなってきたなぁ……」
「ふふっ、行ってらっしゃ〜い」
氷見さんは微笑みながら手を振って俺を見送ってくれた。
そのままトイレに向かい、ベルトを緩めることもせずに一目散にノートを開く。
そこにはデフォルメされた俺に対して矢印を引いて『ば〜か♡』と書かれていた。
「は、ハメられた……!?」
いくら酔っているとはいえ氷見さんがそんな脈絡もないことをするはずがなかった。
ノートを閉じ、少しだけトイレの中で時間を潰してからカウンターに戻る。
氷見さんは笑いを堪えながら戻ってきた俺の肩をたたく。
「騙した?」
「何が?」
「の、ノートに気になる人の名前を書いたって……バカって書いてあったけど……」
「そうなの? らくがき帳だもんね。そんなもんだよ」
氷見さんは飄々とした態度でそう言う。
「ま……まぁそうか……」
少しだけ落ち込んでいる俺を氷見さんはじっと見てくる。
「砺波さん、知りたい? 私が気になってる人」
「えっ!? い、いやぁ……どうかなぁ……?」
「耳、貸してよ」
「う、うん……」
誰の名前が出てくるのか、ドキドキしながら中腰になる。
「ば〜か」
両手を耳元に当てて氷見さんが囁く。
俺は非難めいた目を氷見さんに向けるも、氷見さんはケラケラと笑いながら元の場所に戻っていった。
「砺波さん、私は二回目に行ったときに書いたなんて言ってないよ。ま、ノートに書いてるのはガチ」
「えっ……じゃ、じゃあ他のページってこと……? もしかしてあのノートも先週からあった!?」
愕然とする俺を見て氷見さんはまた大笑いする。
「あのノート、先週は無かったよ」
「そっかぁ……」
気にならないと言えば嘘になるが必死に全部のページを漁るのもどうかと思えてくる。ノートが埋まったら黒部にお願いしてコピーでも取らせてもらおう。
「本当、砺波さんだよねぇ」
「どういうこと!?」
「そういうとこが良いんだってこと」
氷見さんは嬉しそうに笑いながら、好物の焼酎のグァバジュース割を飲み干したのだった。
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