第57話

 縄跳び大会の翌日、ベッドから起き上がろうとしたのだが体が動かない。


「……ん? い、いだだっ……」


 無理に起き上がろうとすると腰にズキンと激痛が走る。


 腰の違和感は縄跳び大会の後からあったので、恐らく原因は長縄跳びだろう。


 湿布でも貼って大人しくしておこうと思うも、起き上がることができない。


 横方向はいけそうなのでぐるんと回転してベッドから降りて床に着地。その場で四つん這いになって湿布があるはずのカラーボックスに向かう。


 カラーボックスから箱を引き出し、湿布特有の光り輝くパッケージを発見。


 中身を取り出してみるも、密封が甘かったようですっかりと干からびてしまっていた。いわば、湿布のミイラだ。


「ま、まじか……」


 一人で四つん這いのまま項垂れる。


 だが、このまま立ち上がって歩いて店まで行くのは無理だ。途中でコケてしまったら一人で立ち上がれないだろう。


 俺は四つん這いのままベッドに戻りスマートフォンを手にする。


 こんな時に助けを求めやすい人を探す。親は遠くに住んでいるので無理だ。友人もかなり遠い。最寄りでそれなりの仲の良さとなると――


「氷見さんしかいないか……」


 なんなら身の回りにいる人の中で一番声をかけやすい人ではあるのだけど、昨日もわざわざ長縄を見に来てくれていたので今日も声を掛けるとなると少し気が引ける。


 だが、背に腹は代えられない。


 氷見さんとのやり取りを開き助けを求める。


『氷見さん、今日って部屋で暇してる?』


 既読はすぐについた。だが、待てど暮らせど返事が返ってこない。


 ベッドの上で横になって待つこと数分。氷見さんから返事が来る。


『部屋で暇してるよ。ご飯? 遊びに行く?』


『腰をやってしまいまして……湿布を買ってきていただけないかと……』


 これまた即座に既読が付く。頬を膨らませた可愛らしい女の子のイラストのスタンプが何度も送られてきた。


 俺も土下座をしているスタンプを返す。


 パシリにされているのだし怒っても当然か。


『ま、いいよ。ケツ洗って待ってな』


『あ、腰が痛いから洗えないのか』


 氷見さんはメッセージを連投した後、ニヤリと笑っている顔の絵文字を送ってきた。


『お、お願いします……』


『b』


 どうやら来てくれるらしい。


 俺はまたベッドから転がり落ちると、鍵を開けるために這うように玄関へと向かった。


 ◆


 30分もすると氷見さんがやってきた。エントランスのドアを開けるためにインターホンが鳴らされる。


 ゆっくりと時間をかけて立ち上がり扉を開けるボタンを押す。


 そこで力尽きてしまい、俺は床に倒れ込む。


「いだっ……」


 うつ伏せで倒れたまま動けず、そのまま静止。しばらくそうしていると、ガチャリと扉が開く音がした。


 静かな足音が近づいてきて、ふわっと部屋の中に甘く優しい香りが漂い始める。


「砺波さん、来たよ」


 氷見さんがしゃがみこんで耳元で囁いてくる。


「あ……本当にありがとうございます……」


 顔だけをどうにか動かして氷見さんの方に向けてそう言う。


「床、美味しそうだね。良い蜜出てる?」


 氷見さんは俺の頭の近くでしゃがみ込み、楽しそうにニヤけながらそう言った。


「そうそう――って、カブトムシじゃないからね!?」


「ノリツッコミをする元気はあり、と」


「腰が痛いだけだからね」


「ふぅん……ま、私にとっては致命的だよ」


 氷見さんは頬をふくらませると、俺の腰をツンツンと突く。


「ひぃっ……」


 俺が小さく悲鳴をあげると氷見さんは嬉しそうに「ふふっ」と笑った。


「ど、ドSだ……」


「どうかな……で、どうされたいの? 砺波さん」


 氷見さんは女王様らしく『どうしたい』ではなく『とうされたい?』と尋ねてくる。


「その……わ、わたくしの貧弱な腰に湿布を貼っていただけませんでしょうか……不器用で無能なわたくしが自分で貼るとぐちゃぐちゃになりそうで……」


「そ、そんなに自分を卑下しなくてもいいじゃん……変なスイッチ押しちゃったかな……」


 氷見さんは案外ノリノリというわけでもないが、俺のシャツをめくって腰を直に指先でつつき始める。


「どこに貼るの? この辺? こっちかな?」


「あ……そこそこ。その付け根のあたりで、気持ち右寄りかな」


「了解」


 氷見さんはテキパキとビニール袋から湿布を取り出して、ピタッと貼り付け、縁を一周するように指先でなぞる。


「はい、貼れたよ」


 氷見さんはそう言いながら俺の腰をペシンと叩く。


「いだっ……」


「あ、ごめん。湿布を貼った後って何故か叩きたくならない?」


「ど、どうかな……けどありがと……本当に助かったよ……」


 俺は礼を述べると芋虫のように這いずりながらベッドに向かう。


 マットレスに手をかけたところで氷見さんが手伝ってくれて、そこまで力を入れずにベッドに上がって横になれた。


 枕に頭を乗せると、氷見さんが枕元にやってきてマットレスに顔をのせて俺の方をじっと見てきた。


 物差しが一本はいるかどうかという距離に照れながら布団で顔を隠す。


「砺波さん、それすっぴんを見られたくない寝起きの女の子がやるやつ」


「寝起きで歯磨きしてないから……」


「なるほどね」


 氷見さんはそう言うと立ち上がりどこかへ行ってしまった。少しして、歯磨き粉のついた歯ブラシとコップを持ってきてくれた。


「はい、どうぞ」


「ガチで介護されてる気分だ……」


「60年後の予行練習だね」


「老老介護じゃん……というか氷見さん、介護士してるの……」


「……それ以外にもあるじゃん」


 氷見さんはそう言って歯ブラシを無理矢理突っ込んでくる。


「ふぁひ!?」


「はいは〜い。お口をグチュグチュしましょうね〜」


 少々乱暴に口の中をブラッシングされたあとは水の入ったコップを渡される。


 起き上がってうがいを始めるも、吐き出す先がないことに気づく。


 そのままうがいしていた水を飲み込むと氷見さんが目を見開いて「えっ」と言った。


「だ、出すとこなかったから……」


「コップに戻しなよ。私が捨ててくるのに」


「た、確かに……」


「ふふっ。砺波さんらしいね」


 氷見さん笑いながら俺から歯ブラシとコップを受け取り、片付けをしてまた戻って来る。


 横になってその様子を見ていると、氷見さんはまた俺の枕元に顔を持ってきた。今度は布団で隠す口実が見当たらなくなる。


「ね、砺波さん」


「なに?」


「次はもっと良い連絡を待ってるね」


「腰が治ったらってこと?」


「そ。日曜に砺波さんから『暇?』って来るからすっごく期待しちゃったんだよね。ま、蓋を開けてみたら介護だったんだけど」


「ごめんね……今日も飲みに行くって思われちゃったのか……」


「そうだけどそうじゃないよ。そういうとこ〜」


 氷見さんは笑いながら俺の額をピンと指で弾く。


「だから……今度は外に行けるときに誘ってね」


「外……飲みじゃなくて、どこか行きたいところあるの?」


 氷見さんは微笑みながら首を横に振る。


「どこでもいいよ。2回分だから、朝から夜までね」


「た、大変だ……」


「うん、大変。腰だけじゃなくて全身が疲れて、骨が粉々になって、身体がゼリーみたいになっちゃうくらい、たくさん遊ぼうね」


「一体どんな遊びをしたらそんなことになるの……」


 俺の質問に氷見さんは「ふふっ」と笑うのみで答えようとしない。


「あ、砺波さん。部屋の合鍵ってどこかにある?」


「あるよ。そこのテレビ台の右側の引き出し――はやっ!」


 俺が場所を伝えると氷見さんは即座にテレビ台に向かい、合鍵を一つ取り出した。


 それを親指と人差し指でつまむように持って俺に見せびらかしてくる。


「これ、借りておくね」


「な……なんで?」


「緊急用」


「後で返してくれるんだよね……?」


「当然」


 氷見さんはどちらともつかない態度でニヤリと笑って答える。


 それにしても氷見さんが近くに住んでいるのは頼もしい。合鍵を持ってくれるなんてもしもの時に備えられて安心感もある。


「けど、嬉しいなぁ。氷見さんが合鍵を持っててくれて」


「えっ……そ、そうなの?」


 氷見さんは急に顔を赤らめて照れ始める。


「うん。だっていつ腰を痛めても助けに来てもらえるんでしょ? 助かるなぁ、って」


「砺波さん、そういうとこだよ」


 氷見さんは真顔に戻ると唇を尖らせて俺から布団を剥ぎ取る。


 それは特に意味のない行動だったらしく、氷見さんは出口に向かいざま、「また夕方くらいに様子を見に来るね」と言って部屋から出ていったのだった。


 ◆


 氷見は砺波の家からの帰り道、砺波の部屋の合鍵を愛おしそうに見つめながら上機嫌に歩いていた。


「ふふっ。合鍵もらっちゃった〜……あ、借りたのか。ま、返す予定はないんだけど。独り言言っててキモいぞ私〜」


 氷見は一人スキップをしながら自宅に向かった。

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